10 夜明け前
レネの姿は城の最上階——四階の露台にあった。
城の東側に面した露台からは、ハイネブルグの街並みが見下ろせる。欄干に腰掛けたレネの髪は暁闇の青に染まり、時おりちらりちらりと星屑のように銀色にまたたいていた。
絵画のような光景に目を奪われたが、すぐにレネが欄干から落下するんじゃないかと思ってエメリはひやひやする。
エメリがこつりと立てた靴音に、レネは城下に向けていた視線をゆるりと返した。
「不用心、だね」
夜の残り香に融けてしまいそうなひそやかな声で、エメリはささやく。
エメリがその気になれば、レネを突き落とすことも、ソルを置いて城から逃げだすこともできる。
レネはエメリの言外の指摘を汲んだ様子で胸元にしまっていたペリドットのペンダントを取りだすと、見せつけるように軽く振った。
微かに上がった口の端が、酷薄な笑みの形をえがく。
「きみはなにもできない」
それはたしかに事実だった。
どうしたってエメリはソルを見捨てられないし、レネに傷を負わせるようなむごい真似もできない。自分はそういう人間だとよく分かっている。
だがレネのように用心深い人物ならば、万が一に備えて予防線を張るくらいのことはするように思う。それをしないのは、エメリが逃げだしても仕方ないと考えているように思われて仕方なかった。
「……あなたはときどき、破れかぶれ」
「分かったようなことを言うね」
レネは皮肉げに言ったが、あまり上手い切り返しだと思わなかったのか、苛立った様子で口をつぐむ。
昨日は、『裸の心を隅々まで見てもらった』などとうそぶいて、エメリに自分の心をすべて明け渡したかのような口ぶりだった。それなのに今日は、エメリに自分のなにが分かるとでも言いたげだ。
矛盾している。彼もその矛盾に気づいたのだろう。
結局、彼はエメリに本当のことなどほとんど打ち明けていなかったということだろう。
だけどたぶん、昨日より今のほうがレネの――名前すらも不確かな人の心に近づけている。そんな気がした。
(ネレウスさんの前でも、レネはいらいらしてた)
だからたぶん、これはレネにかぎってはいい兆候だ。
この人の王子然とした完璧な笑みは鎧代わりなのかもしれないと思う。この凍えるように冷たい城で身ひとつで戦うためには、本心をそうやって幾重にも張りめぐらせたいつわりで覆い隠すしかなかったのかもしれない。
それが今、少しでも剥がれ落ちたのはきっと――。
エメリは露台から目を凝らす。
だがもう、深い海の底を思わせる石精の姿は見えない。
彼はレネの友を名乗った。レネにとっては、どうだったのだろう。
ソルに厄介と言わしめたあたり、ネレウスはおそらくかなりの使い手だ。
そばに置いておけば、ソルへの有力な切り札になったにちがいない。侯爵も再研磨に成功した核を、ふたたび砕けとは言わなかっただろう。それでも、レネが自分に味方する石精を遠くにやった、その意味を考える。
「だい、じょうぶ?」
一歩近づいて問う。レネの眸は束の間揺らいだが、すぐに鮮やかな毒めいた微笑が浮かんだ。
露台の石造りの床にすらりと伸びた足を下ろすと、ひと息にエメリにつめ寄る。
「大丈夫って、きみの頭こそ大丈夫? 人の心配をしている場合なの? 自分の立場をもう忘れた?」
しょせん、エメリは彼に生かされているだけ。そう言いたいのだろう。
追いつめられたエメリは、なすすべなく欄干の上にお尻を乗り上げる。足がつかなくて、とっさにレネのシャツにしがみついた。
「あいつの言っていたことは本当だ」
「あいつって……ネレウス、さん?」
間近で藍玉の眸を仰げば、レネの眸に火花が散る。
「きみみたいな、弱くてまっとうでお人よしな子、大きらいだよ」
苦手意識、とネレウスは言った。
だがその本当のところは、もっとどぎつい嫌悪だったらしい。
それはたぶんまぎれもない彼の本音で、エメリに対する追い討ちのつもりなのだろう。
ずり上がった夜着の裾から覗いた足に、冷たい風が吹き寄せる。
レネが気まぐれにエメリを力任せに振り払えば、地上に真っ逆さまだ。この高さから落ちたら、エメリの身体などひとたまりもないだろう。
「わたしを、突き落とす?」
「きみが余計なことをするのをやめなければね」
「……しないと思う。あなたは」
吐息のような、それでいてはっきりと響いたエメリの言葉に、レネの眉間に皺が寄る。
「しないと、思ったの。あなたが言ったんだよ、レネ。あなたを、見きわめてって」
レネは、エメリに真贋を見抜くと言った。
たしかに宝石の真贋はだいたい見きわめられる。けれど、人や石精の心までは分からない。そこまで思い上がった考えはいだけない。
だけど今この瞬間、この人がエメリを突き落とすつもりかそうでないかは分かる。
レネは今にも激昂しそうでもあったし、その場にくずおれてしまいそうでもあった。
けれどそのどちらもできずに、ただ目を逸らして黙りこくっている。
エメリはレネにしがみついたまま、態勢を立て直そうといそいそと身をよじる。その拍子に、彼のフロックコートに手が触れた。
内ポケットのなかに、固い感触がある。
「あ……」
中身は見えなかったが、すぐにそれがなにか理解した。
捨てられたと思っていたガラス細工だ。自分のつくったものだから分かる。彼はまだ、それを捨てずに持っていたようだ。
レネもエメリが気がついたことに気づいたらしい。
目が合う。逸らされるかと思ったが、彼はもうきれいな海色の眸を逸らさなかった。
観念したようにそっと抱き上げられて、壊れものを扱うように床に降ろされる。
レネはずるずると背を欄干にもたれて、その場にしゃがみこんだ。細く長い息が、形のいい薄い唇から漏れ出る。
エメリはこぶしひとつ分ほどの距離をへだてて、レネの隣に腰を下ろした。
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