9 再生
「また妙なことになってるわね」
ネレウスに連れられて一日ぶりに再会したソルは開口一番、胡乱げな顔をした。
「ソル!」
エメリは作業机の上に設置していた研磨盤から顔を上げて、彼女に駆け寄る。小さな身体に頬を寄せると、ソルはくすぐったそうに身をよじらせた。
「ごめんね。あんまり、説明している時間が、なくて」
「いいわよ。あんたの説明は要領を得ないんだから。あらかたの事情は察したわ」
ソルはいつもと変わらない様子でずけずけ言う。
「うさんくさい男には、うさんくさい石精がついているものね」
ソルは腕を組んで、レネの傍で泰然とかまえているネレウスを見やった。
「あいらしいあなたの傍らに、あいらしい宝石細工師がいらっしゃるのと同じことですよ」
ネレウスの歯の浮くような台詞に、ソルはげえっと舌を出してみせる。
(……やっぱり、似てる)
石精たちの軽口ではないが、エメリはレネとネレウスを見くらべてそう思う。
立ち居振る舞いや、言葉づかいがそう思わせるのだろうか。
レネが六年前からこの場所にいることは侯爵も認めていたから、おそらく事実だ。十三のときから、本当の意味でレネの教師——いや親代わりとなっていたのは侯爵ではなく、もしかするとこの石精だったのかもしれない。
いつもは立て板に水を流すようによどみなく喋っているレネは、今は沈黙を保ったまま壁際の椅子に座りこんで研磨盤をじっと見つめている。
エメリはソルの身体を放すと、慎重な足どりでネレウスに近づいた。
「あなたに触れても、いい、ですか?」
「ええ、お願いいたします」
ネレウスはいとも簡単にエメリにブローチを明け渡した。
核の再研磨は、石精に少なからず痛みを与える行為だ。こうして石精自身の意志を確かめることでどういうわけかその痛みはやわらぐようだが、それでもまったくなくなるというわけではない。
受けとったブローチは、実際の重さ以上にずっしりと重たく感じた。
「とまあ、他者に触れるときにはこのように敬意をしめしたいものですね? どこかの誰かさんのように、べたべたと我が物顔で勝手に触れるのではなく」
ネレウスは横目でレネを見下ろして、当て擦りのように言う。
組んだ足に肘をついて、口元を手で隠しているレネの表情は窺えない。だが、言葉もなくじろりとネレウスを睨み上げたまなざしには、ありありと不機嫌の文字が浮かんでいた。
どことなく、黒衣の石精に襲撃されたあとに見せたふてくされた顔に似ている。ひょっとすると、こちらが彼の素かもしれない。
エメリはネレウスのブローチを大事に抱えて、研磨盤の元へ舞い戻る。
まずは銀細工と石を切り離す作業からだ。板状の爪で石留めされた石を、銀鋏を使って慎重に剝がしていく。
裸石を取りだし終えると、ルーペで石をくまなく検分する。
リペアの場合、石を外してから爪や地金の下に新たな傷を発見することも少なくない。その傷の程度によっては、再研磨ができない場合もある。だが、今回は元々見えていた石の欠け以外に大きな傷はなかった。このまま研磨の作業に移って問題ないだろう。
研磨盤は、円形の台座が回転するようになっていて、そこに石を押しつけることによって石を磨いていく仕組みだ。足踏み式になっていて、回転の速度も調整できる。
エメリは水盤にはった水にトルマリンを沈めて、保護用の眼鏡を掛けると研磨盤を回転させはじめた。
手指の感覚を頼りに、石の欠けのある右側面を重点的に磨いていく。石が乾いてきたらすぐにまた水につける。その繰り返しだ。
石の割れを防ぐためにも、粉塵を浴びたり道具を摩耗させないためにも、石の研磨には水が欠かせない。
まだ秋だから凍えるほどではないが、冬にはこたえる作業だ。
石の欠けの底の部分が消えたところで、踏み板から足を離す。
今の欠けの除去作業で、完璧なラインを描いていた切子面が崩れてしまった。次は、できるだけ石を削ることなく切子面を蘇らせる作業だ。
研磨盤のディスクを粒子の細かいものに入れ替えて、今度は面をつくっていく。
手指だけでは立ち行かなくなったら熱した松脂を木の棒につけて、その先に石を固定させる。松脂が十分に冷えたら、木の棒を回しながら研磨盤に押し当て、側面に階段状に面をつくっていく。
エメリの意識は、深く深く海の底に潜っていく。
ネレウスのトルマリンの色。深海の色だ。ネレウスはレネに似て口達者だが、あの人の本質はきっと深い叡智と飽くなき思考にある。そう感じさせる静けさに満ちた美が、石に宿っている。
そのうつくしさを、今一度形にしたい。
何度かディスクを入れ替えて作業を繰り返し、最後にフェルトに研磨材をつけてやさしく磨いてやる。
エメリは、細く長く息をついた。
核の宝石細工というのはどういうわけか、そうでない宝石細工よりもずっと体力も気力も持っていかれる。
「上出来じゃない」
ひょっこり覗き込んできたソルが口の端を上げる。
「うん。あとちょっと」
傷は消えて、石も透明感のあるかがやきを放っている。リカットによる石の縮小も最低限に抑えられたと思う。元の銀細工に嵌め直しても違和感のない裸石に仕上がった。
最後は石留めだ。
「……できた」
ほとんど吐息のような、あえかな声が落ちる。
次の瞬間、トルマリンが紫と青の深い光を帯びた。稲光が走るように室内に二色の光がはじけ、そのかがやきはネレウスの身体に収束していく。
罅割れていたネレウスの肌が、見る見るうちに陶器のようななめらかさを取り戻す。
夢とも幻ともつかない光景を、エメリはぼんやりと見つめていた。
「御礼申し上げます、レディ」
うやうやしく礼をして、ネレウスが微笑む。
その声にようやく、今の出来事が現実のことである実感が湧いてくる。
「…………こちらこそ、信じてくれて、あり、がとう」
エメリははにかんでネレウスに歩み寄ると、彼に宝石細工を返した。
不意に横のほうから視線を感じて、エメリはそちらに目をやる。
レネがいまだ夢からさめやらぬ様子で、エメリをあおいでいた。かと思うと、立ち上がってひと息に駆け寄ってくる。
「エメリ」
その呼び声に込められたくるおしいほどの感情の濁流に、エメリの胸はつぶれそうになる。
背中に腕が回されかけ、エメリは身体をこわばらせた。
「レ――」
エメリの声にはっとした様子で、レネはすぐに身体を放した。
「ごめん」
声色は硬い。
今までにも髪にキスをしたり、押し倒してきたりもっととんでもないことをしでかしつづけてきたのに、なんで今さら謝るのか理解できない。
勝手に触るなとエメリに文句を言われ、ネレウスからも同じようなことを揶揄されたくらいで、それを反省するような神妙さや誠実さが彼にあるとも思えない。
なんだか今のレネは、すごくへんだ。
(だけど、それを言うなら、わたしもへん、だ)
今のレネになら、抱きしめられてもいいと思った。すごく、とてもおかしい。
レネはソルのペンダントを握っていて、エメリはそれを奪いかえそうとしている。陶器の破片を突きつけられて、命を握られつづけている。
あくまでもそういう、冷たい関係にすぎないはずなのに。
ソルも盛大に蹴りを入れる準備をしていたようだが、訝しそうな顔をしてエメリの肩に着地する。
しかしそんなエメリとソルの前に、ネレウスが進み出てくる。そうすると、長身の彼に隠されてレネの姿は見えなくなった。
「さてレネ。いかがいたしましょう。こうなると、私が城を出て行く理由はなくなったように思うのですが?」
「——いや、きみはこのまま出て行け」
レネは淡々と言った。
その薄情な物言いに、エメリはむっとする。
「出て行けって、レネ」
「エメリ」
ソルがたしなめるように口を挟む。
「そいつの所有者は、あの腐れおっさんよ。外に出たら出たで悪徳宝石商に狩られる可能性はあるけど、あいつのものでいるよりは、核を砕かれたことにして逃げたほうがましかも」
ソルの言い分に、エメリは自分の浅はかさに気づいて赤くなる。
レネも、そういうつもりで出て行けと言ったのだろうか。ちらりとレネをあおぐが、彼の心のうちは推し量れなかった。
「では、私はお暇するといたしましょう。レディ、あなたにいつかなにか返せるものがあればよいのですが」
ネレウスの神妙な言葉に、ソルは腕を組んで挑戦的に彼を見上げる。
「あら、なら今すぐそいつをボコって、あたしたちを解放して恩返ししてくれてもいいのよ」
「申し訳ありませんが、それは聞けない頼みですね。曲がりなりにも、彼は私の友人ですので。あなたを閉じ込めて、引継ぎをしてから旅立つつもりですので、悪しからず」
ネレウスはすげない返事だ。どうやら、やはりレネとネレウスは単なる主従関係というわけではないらしい。ソルは盛大な舌打ちを響かせた。
ネレウスは最後にレネを振り返る。
「レネ。あなたが真に望むあなたとなって再会できることを、願っておりますよ」
「……願われずとも、そうするだけだ」
レネはネレウスとは目を合わせずに、どこか頑なな声で言った。
窓の外の空は、夜明け前の群青に変わっていた。
ネレウスはソルを連れて宣言どおり鉄鉱石の石精に仕事を引き継ぐと、迷いのない足取りで城を発った。
レネは見送りには出ずにエメリを寝室に連れ戻すと、ふたたび部屋を出て行く。すぐに戻ってくるかと思っていたのに戻ってこない。見張りの石精の姿もなかった。
エメリは何度か廊下に出ては戻ってを繰り返したが、やがてガウンを引っ掛けると、レネの影を探して城を彷徨いはじめた。
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