8 剣のブローチ
もう間もなく、夜も更けようという頃。ソルのペンダントを取り返すために事を起こすか悩みながら、エメリはたぬき寝入りを決め込んでいた。
今宵も、レネは寝台を貸してくれている。長椅子では彼の足ははみ出ているから、エメリとレネの寝る場所は逆の方が合理的だと思うのだが、そんなことを言えば人質のくせに彼を気づかっているなどと侮られかねない。
エメリは結局、仕事が終わってからはなにひとつレネと口を利かないままベッドにもぐりこんだ。
サイドテーブルを見つめる。そこが定位置だったエメリのつくったガラスの宝石細工は、いつの間にか姿を消していた。
さすがにもう、捨てられたのだろう。
(そう、だよね。今まであったのが、ふしぎなくらいだったんだから)
こうなってはもうガラスの宝石細工の行方なんて、取るに足りない些細なことだ。レネのことなんてひとつも考えたくないのに、いちいち気になってしまう自分にがっかりする。
衝立の向こうのレネは静かだ。昨夜もそうだったが、いびきどころか寝息すら聞こえないので、寝ているのか寝ているふりをしているのか判断に迷う。
(ペンダントを取り戻すことさえできれば……)
今宵は侯爵は帰ってこなかった。
イシュムのいない今、ペンダントとエメリの無事さえ確保できれば、あとはソルがなんとかしてくれる。ソルもきっと、今か今かとそのときを待っているはずだ。エメリが人質になってなどいなければ、レネはソルの敵ではない。
さすがのレネも気を張り続けるのに疲れて寝入っているのではないだろうか。
エメリは寝返りに見せかけて彼の様子を探ろうと、首を回しかける。だが、直後響いた衣擦れの音に目を見ひらいて固まった。
どうやらレネは起きていたようだ。エメリは背を向けたまま、薄目で彼の動向を探った。
ゆらりと影が動いて、扉に近づいていく。
ほんの束の間彼の視線を感じたが、レネはエメリを疑った様子もなく、音もなく部屋を出て行った。
(こんな夜に、なんの用……?)
レネがエメリをそばに置いているのは、ソルに対する牽制のためだ。そのエメリを置いてどこかに行くということは、おそらく長い時間部屋を空けるつもりはないが、なにか気づかれたくない秘密の用があるといったところだろうか。
エメリはそっと寝台から滑り降りて、廊下に出る。急いで出たので、恰好は夜着のまま、髪も結わずに下ろした姿だ。
暗い城内を裸足でぺたぺたと歩きながら、せめてなにか羽織るものを持ってくればよかったと思う。冷えてくしゃみでも出そうだ。
まだ葡萄の月——秋も半ばといえど、海風の吹きつけるハイネブルグは朝晩は気温が下がる。
この隙に一階に移されたソルに会えないかと思ったが、彼女の部屋には監視がついていることを思いだして、ひとまずはレネを探ることにする。
ほどなく、地下に続く薄暗い階段の近くで話し声が聞こえてきた。
ひとつはレネで、もうひとつは別の男性の声だ。侯爵ではない。聞き覚えのある、低く澄んだやわらかな声をしている。
エメリはそっと壁に手をついて、ふたつの影を覗き込む。
宵闇に浮かび上がったのは、深海のような青と紫のかがやき。トルマリンの石精だ。
「今宵は新月だ。外套でもかぶればその悪目立ちする姿も多少はごまかせるだろう。僕にできるのはここまでだ」
レネはそう言いながら、トルマリンの石精になにかを渡す。
「……きみが居なければおそらく僕は死んでいた。礼を言う、ネレウス」
エメリは瞠目する。石精と対等に口を利こうとする人間は少ない。それなのに、レネは彼に対して敬意を払っている。
それに、ネレウスとは石精の名だろうか。たいていの人間は蔑称やよくて石の名で呼ぶのがほとんどなのに。
(そういえば……)
一連の騒ぎでそれどころではなくなってしまったが、彼は侯爵が石精としか言わなかったイシュムのことも名で呼んでいた。
石精を名で呼ぶ。
エメリにとっては当たり前の、たったそれだけのことなのに、胸がざわりと騒ぐ。
「改まってなんですか。たった六年でここまで見ちがえるとは、人間というのは驚嘆すべき生物ですね」
今の発言はネレウスだろう。
エメリと接していたときはただ、物腰柔らかで洒脱な印象ばかりを受けた。だが今の彼には、どこか慇懃無礼さと老獪な雰囲気がある。本来の彼の人格は、こちらに近いのかもしれない。
「ところで、レネ。どうやら招かれざる客人が見えているようですが?」
エメリはぎくりとして身を隠すが、もう遅い。
腕を掴まれて、後ろに引かれる。転びかけたところを抱きとめられてすぐ、その腕がレネのものであると気づいた。エメリは反射的にもがいたが、腰と肩に手が回っていて抜けだせない。
「立ち聞きだなんて悪い子だね、エメリ」
耳朶に触れた吐息の熱に、エメリはひっと悲鳴を噛み殺す。
レネは興がさめた様子で、すぐにエメリを解放した。
「きみもだ、ネレウス。気づいていたなら先に言え」
「さて、なんのことやら」
ネレウスはそう言ってとぼけたが、エメリに向かって片目をつむった。
ひょっとすると、彼はレネの言うとおりエメリの盗み聞きにとっくに気づいていて、それを黙っていたのは昼間の“借り”を返してくれたつもりなのかもしれない。
レネは苦虫を噛みつぶしたような顔で悪態を吐く。
「……きみはやっぱり、たちが悪い」
「あなたにだけは、言われたくない言葉ですね」
ネレウスは肩をすくめた。どこかレネを彷彿とさせるその仕草を眺めながら、エメリはあっと声を上げる。
ネレウスの手には、傷ついたトルマリンの宝石細工がある。剣を模したブローチだ。
(じゃあ、さっきレネが渡したのは……)
レネは、ネレウスに侯爵が取り上げていた宝石細工を返したということだろうか。
今朝、エメリがトルマリンの石精の処遇を聞いたときには、レネはそんなことと取り合わない様子だったのに。
「レネは、ネレウスさんを、逃がすつもり、だった?」
「侯爵の言うとおりにするのは癪だったからね」
レネはもっともらしく微笑んだが、先ほど盗み聞きした話のことを思えば、とてもそれだけが理由とは思えなかった。
エメリは助けを求めるようにネレウスを見つめる。
ネレウスは取り澄ました顔をしていて、エメリの疑問に答えてくれる様子はない。もうこれ以上、借りの清算をしてくれるつもりはないらしい。
エメリとしては、どうしてレネがわざわざせっかくの善行をはぐらかすような真似をするのか、意味が分からない。悪事をごまかすならまだ理解できるのに、彼は嬉々として悪行を行い、垣間見せた善意を否定する。
レネがこの上なく厄介かつ難解な男であることは、今に始まったことではない。
エメリはひとまずレネのことは脇に置いて、ネレウスを見上げた。
「あの、あなたの宝石細工のリカットをさせてもらえません、か?」
エメリの申し出に、ネレウスは片眉を上げた。
彼はエメリの目前に、剣のブローチをかかげる。
「あなたが腕のよい宝石細工師とは伺っておりますよ。しかしご覧のとおり、私の核は元々内包物も多く、傷も深い」
エメリはまじまじとネレウスのブローチを覗き込んだ。
バイカラーのトルマリンが中央に配され、剣を模した緻密な銀細工がほどこされた技巧の凝らされた一作だ。
刀身にあたる中石は細長い長方形をしているが、剣先にあたる先端が尖っており切子面がおよそ二十ほどある。切子面が少ない分輝きは控えめだが、その分冴え冴えとした透明感があって、ネレウスの硬質な雰囲気によく調和していた。
彼の言うとおり、内部には縦方向にいくつかの筒状の内包物が見えた。まるで流星群のように降りそそぐ条線が石に豊かな表情を与えていて、見ていて飽きない。
だがたしかに、内包物の多い石は衝撃に弱く割れやすい。丈夫な石の欠けた傷を再度研磨するだけならまだしも、このトルマリンとなると骨が折れるだろう。
「すでに死は覚悟の上ですが、あなたのような方にとどめを刺させるのは、いささか心苦しいですね」
「……わたしの、ような?」
「ええ。レネに苦手意識を抱かせるような稀有な方ですよ、レディ」
(苦手意識?)
変幻自在に幾色にも自身を変えられるレネには、苦手なものなんてないように思える。それがエメリのような、騙されやすい世間知らずの娘ならなおさらだ。
エメリは驚いてレネを振り返った。
「人聞きが悪いな、ネレウス。僕ほどの博愛主義者はいないというのに。それが女性ならなおさらだ」
レネはそれはそれでどうなのだろうと思わせる、ろくでもない発言をしている。
エメリはレネの真意を探るようにまじまじと彼の藍玉を覗き込んだが、彼は珍しく目を合わせなかった。
エメリはネレウスに向きなおる。
「正直に、言います。絶対に、失敗しない、とお約束することは、できません」
もしそう告げる職人がいるとしたら、それは欺瞞だとエメリは思う。
宝石細工師は核石を扱うとき、命の重みを負う。
その重みを前に、どれほど自分の腕前に自信があったところで嘘いつわりは差しだせない。
「だけど、わたしに力を尽くさせては、もらえませんか」
ネレウスは微笑んだ。なるほど、とひとりごちて、意味ありげにレネを見やる。
レネは束の間、彼のものとは思えない苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「では、あなたに命を預けるといたしましょう」
「ありがとう、ございます!」
エメリはぱっと顔をほころばせた。
だがすぐに第一の依頼人がいることを思いだして、エメリはこわごわレネを向いた。
「あ、レネ。あの……二重に仕事を受けることに、なっちゃうけど、でも、たぶん、夜のあいだにはできるから、だから……」
「いいよ。だめと言ったところで、きみは聞かなそうだからね」
「ありがとう。えっと、その。ソルを、呼んでも、いい? いつもお店では、ソルにいてもらうの。今回は、ソルの石精の力は必要ないけど、お守りみたいなものっていうか……」
このブローチのリペアには、万全の状態で臨みたい。
エメリがそんな思いを込めて言えば、レネは小さくため息をついた。
「どうぞご勝手に。ただし、きみの友だちの核は僕の手にある。そのことを肝に銘じておくことだね」
エメリは神妙にうなずいて、ひと足早く作業場へ向かった。
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