4 野心
間もなく、レネは帰ってきた。
ソルは力を解放して人間の少女大の大きさになると、レネの身体をじっくりと検分した。武器を持ち込んでいないことを確認してから、彼が長椅子に腰掛けるのを許す。その間も、ソルはレネをエメリに近づけさせなかった。
すっかり冷めきったティーセットを囲んで、エメリはレネの向かいに腰を下ろす。ソルは警戒心を剥きだしにして、レネがひと息で手が届かないよう、離れたところにエメリの椅子を動かした。
「無事でなにより。怖い思いをさせて悪かったね」
「わ、わたしこそ、へまをして……かばってくれて、ありがとう」
エメリの心からの礼に、レネは微笑する。
「ど、どうして言ってくれなかった、の。侯爵が、ひどい人だって。そうしたら、わたし、あなたを閉じ込めたりは――」
「そうかな。あのとき僕がなにを言ったところで、きみが僕の言葉を心から信用することはなかったと思うよ」
そんなこと――と言いかけて、エメリは唇を引き結ぶ。
たしかにそうかもしれない。あの時点ではエメリは侯爵を信用していた。
侯爵はエメリを殺すつもりだ、などと言われたところで、レネが正体をばらされたくないためについた急ごしらえの下手な嘘だと思っただろう。
ましてや侯爵が六年がかりの簒奪劇を演じようとしているだなんて話を真面目に取り合ったかどうかは、自信がない。
それどころかエメリはのこのこと侯爵にその話を報告に行って、自分の身を危うくしていたかもしれない。
「レネも、このお城に囚われてるの? 六年前、から?」
「そうだよ。白状するけど、僕は本当は王子なんて柄じゃない。貧しい家の出でね。十三のときにここにさらわれてきた」
「お、お父さまや、お母さま、は?」
「さあね。もう顔も思いだせないな」
レネは淡々と言ったが、その藍玉の眸は感情を隠すように長い睫毛の下に伏せられる。
エメリが店をもったのは十五のときだ。それまでは父にいつも守られていたし、今でも父は山から帰ってくるたびにエメリを甘やかしてくれる。
彼はたった十三のときにあたたかい家を奪われて、名までも奪われた。
(……ひどい)
侯爵は女王を廃し、金剛碑文を利用して傀儡の王を据えるために、王家の子と特徴のよく似た子どもをさらってきたのだろう。
本物のレネ・リュークストンが失踪してから、宝石郷から帰還するまでの七年間は替え玉の王子を準備するための期間に充てられる。レネは本物のレネが失踪した一年後にさらわれ、それからの六年間を本物に成り代わるための教育をほどこされて過ごした――というところだろうか。
失踪当時の第四王子は十三歳。それから七年も経てば、多少顔が変わっていてもそれほどおかしなことではないし、宝石郷に逗留していたことにすれば記憶が曖昧だと言ったところで免罪符になるだろう。
――クラウンジュエルさえ、本物ならば。
レネ・リュークストンに特徴の似たうるわしく弁の立つ男がクラウンジュエルをたずさえて王宮に帰還すれば、女王に反感をもつ勢力は、第四王子派に傾いてもおかしくはない。
「あなたの、ほんとうの名前は?」
「もう忘れた。忘れなければ、真っ暗な牢に何日も閉じこめられたからね」
エメリの瞼裏に、クラウンジュエルを見に行くときに通りがかった地下牢の闇がよみがえる。
あんな場所に、ほんの子どもが何日も。真っ暗ということはそこにはきっと、蝋燭のか細い灯火すらなかったのだろう。
誰の声も光も届かない、ただだだっ広く広がるうつろな闇を想像して、エメリは震える。
たとえそれが三日のことだったとしても、その闇に囚われた者にとっては永遠のことのようだったにちがいない。
「逃げよう、レネ。いっしょに」
エメリは、腰を浮かしてまっすぐにレネの眸を見つめて言った。
レネは驚いた様子で目を瞠る。その眸がエメリの視線から逃れるように虚空をさまよう。
「きみたちはともかく、僕は逃げてもどうしようもない。きっともう、帰る家もない」
それはひょっとすると、侯爵がレネの家族を口封じのために始末したということかもしれない。
すでにエメリを殺す算段をしている侯爵が、レネの家族を生かしておくとも思えなかった。
「僕はもう、レネ・リュークストンとして生きることしかできない」
重い塊を吐きだすように、レネは言った。
そこまで思いつめさせるほどの絶望を何度も与えながら、侯爵はレネの心を少しずつ支配していったのかもしれない。名や家や、ここに来る前のありとあらゆる彼を構成していたものを奪って、まんまとこの道しかないと思わせた。
絶望は、人の心を凍らせる。これでは、レネは逃げようもなかっただろう。
――けれど。
「なら、どうしてわたしをここに、連れてきた、の?」
「クラウンジュエルを修復してもらうためだよ」
エメリは頭を振る。
エメリは、お客さまが心から望む形しか作ることができない。
レネが心の底から望んでいれば、あのクラウンジュエルを修復することもできるかもしれない。けれど今、それができるという職人としての感覚はまるでない。
レネは、クラウンジュエルを冷たい目で見つめていた。
あの形を心から欲しがっているようには、エメリにはとても思えなかった。
「もし、クラウンジュエルを修復できたとしても、本物のレネ・リュークストンじゃないと分かれば、あなたは、無事じゃ、すまない」
「嘘は得意だからね。きっと国中を騙しぬいてみせるよ」
「わたしにほんとうのことを、教えたのは? ほんとうは、あなたは、侯爵に抗いたかったはず。だから、侯爵に嘘までついた」
レネの眉間に苦しげに皺が寄る。レネは沈黙を埋めるようにティーカップを手に取り、冷たい紅茶を啜った。
ソルと機を見てこの城を逃げだすにしたって、レネを置いてけぼりにしたらエメリはきっとそのことを悔やむ。
「エメリ、危険よ」
痺れを切らしたソルに首根っこを掴まれて、エメリはほとんどレネの手の届くところまで近づきかけていた身体を椅子の上に引き戻される。
だけど、ここでレネに信頼をしめせなかったら、きっと彼もエメリを信用しない。
エメリはかまわずにレネに駆け寄った。
「あなたは何度も、わたしを助けてくれた。わたしのつくった宝石細工を、大切にしてくれた。わたしはあなたを、……やさしい人だと思ったよ」
エメリはそっとレネの腕に手を伸ばす。
「もう、嘘をつく必要なんて、ない」
「そうだね、エメリ。——たしかにもう、嘘をつく必要はない」
パリン、となにかが砕ける音がした。
なにが起こったのか分からない。ただ茫然と、目の前の光景を見つめる。
レネが持っていたティーカップが机に叩きつけられて割れていた。彼の手からは、目を背けたくなるほど真っ赤な彼自身の血がしたたっている。
「エメリ!」
ソルが叫んで、駆け寄りかける。
「おっと、ソル。動かないほうがいい。でなければ僕の手がうっかり滑って、エメリの首筋を切り裂いてしまうかもしれないからね」
レネは後ろから腕を回して、エメリの首筋に陶器の破片を押し当てた。ぽたりぽたりと落ちるレネの血が、エメリのレース飾りのついた肩掛けを赤く染め上げていく。
頭も心も凍りついたように時を止めていたが、首筋に押しつけられたひんやりとしたその感触が、自分の命を奪いうる凶器なのだということはかろうじて理解できた。
「……なん、で」
段々と自分の置かれた状況が理解できてきて、小刻みに身体が震えだす。
そんなエメリを抱きしめていたわるように、レネは身体を寄せた。
「ありがとう、エメリ。本当はきみをたらしこんで言いなりになってもらうつもりだったんだけど、そっちは思いのほか上手くいかなかったからね。きみが馬鹿みたいなお人よしで助かったよ」
レネはからからと嗤う。
口調こそやわらかなのに、まるで人の情というものを感じさせない声だった。
「僕はたしかに侯爵を出し抜きたかった。だけどそれは、ここから逃げるためじゃない」
布越しに触れる体温も、まるでエメリをあたためない。
レネはエメリの耳朶に触れるほどの距離で、噛んで含めるように続ける。
「僕は玉座が欲しい。侯爵のものだった野心は、今や僕自身のものになった。だからきみにはここにいて、クラウンジュエルを修復してもらわなければ困る。エメリ、きみはそれを侯爵ではなく、僕に捧げるんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます