3 もうひとつの嘘
レネが石精を遠ざけたらしく、エメリたちは難なく侯爵の執務室のある三階に辿りついた。
間もなく、レネの背中が明かりの漏れた部屋のなかに消える。ソルは慎重に室内の様子を探って異常がないことを確認すると、エメリを手招いた。
わずかにひらいた扉から、細く人の話し声が聞こえてくる。
「さて殿下、城を空けてばかりでご不便をおかけしますな」
最初に耳に飛び込んできたのは、侯爵の声だった。
「やめてください、侯爵閣下」
続けて、レネの苦笑が響く。
今、レネは侯爵閣下などと他人行儀な呼び方をした。レネは侯爵のことをファーストネームで呼んでいたように思うが、記憶ちがいだろうか。
「せっかく目星をつけていた職人も、次々にさらわれているせいでこちらは後手に回っておる。ブリンドル宝飾店の次は、シアースミスときた」
紙になにかを書きつけるような音が響く。おそらく侯爵は机にハイネブルグの地図でも広げているのだろう。
話題はどうやら、宝石細工師の失踪事件に関することらしい。
ブリンドル宝飾店もシアースミスも、星生みの宝石細工師を擁する一流宝石細工店だ。ひょっとすると、失踪している職人というのは単なる宝石細工師というわけではなく、とりわけ星生みが狙われているのかもしれない。
ともあれ、その口ぶりを聞くに、宝石細工師の失踪にこの城は無関係と見ていいだろう。この城が一枚嚙んでいる可能性も考えていたので、黒幕が別にいると分かってほっとする。
だが、胸を撫でおろしたのも束の間、別の火種が投げこまれた。
「——早いところ奴を始末しなければ、私もおまえも窮地に立たされよう」
エメリはソルと唖然と目を見合わせる。
今の発言は聞き間違いでなければ、侯爵のものだ。
つまり、『おまえ』とはレネのことである。
先日レネについて語った侯爵は、まるでレネ・リュークストンの信奉者ともいうべき有様だった。その彼が、忠誠を捧げたと豪語した相手に対して『おまえ』呼ばわりをするとは、いったいどういう了見だろう。
「エメリがクラウンジュエルを修復してくれさえすれば、脅威ではありませんよ」
レネの猫撫で声に、侯爵は鼻を鳴らした。
「あの娘は、クラウンジュエルを扱いきれる技量の持ち主なのであろうな」
「腕はたしかかと」
「どうだかな。聞けば、鉱物学者の娘であるとか。いっぱしの職人のような口を利いているが、しょせんは女だ。父親のお膳立てで、その気になっているだけの娘であろう。石精は、まぐれでも巡り合わせ次第で喚べるという話だからな」
その言葉に、冷や水を浴びせられた心地になる。
今までにも、いくらだって聞いてきた言葉だった。
でも、侯爵は駆けだしの職人でしかないエメリをこの城に置いてくれた。エメリの腕に期待をかけてくれているのだと思っていた。
それは、まったくの思いちがいだったらしい。ちょうどよく星生みの失踪事件など起こっていなければ、エメリのような小娘などお呼びでなかったにちがいない。
エメリは殺気立ったソルの身体を抱いて、その怒りをなだめた。
「そう仰らず。彼女のつくる宝石細工は、うつくしいですよ」
「うつくしい、か。理解できぬ感傷だな。すべては石精を喚べるか、いなか。クラウンジュエルを手にし、王権を物にできるか、だ」
その言葉で、宝石細工を愛する主と言われていたはずの侯爵が住まうこの城で感じていた違和感が腑に落ちる。
この侯爵は、宝石細工を道具としてしか見ていないのだ。
「それで、クラウンジュエル修復の首尾は?」
「エメリには見てもらいました。明日からでも、作業に入ってもらえるかと」
「怪しまれることはなかっただろうな」
「ええ、もちろん。六年、あなたに手ずから育てていただいた僕に手抜かりがあると?」
(六年?)
エメリは絶句した。
前に聞いた話では、ふたりはひと月前に出逢ったばかりという話だった。
だが今、レネは六年、侯爵に育ててもらったと言った。侯爵の子は亡き夫人の産んだ嫡男だけだが、夫人ともども不幸な事故に遭って亡くなっているので、ふたりに血のつながりはない。侯爵の遠い親戚たちは後継ぎ候補として子弟らを送り込みたがったというが、侯爵はいまだ彼らをひとりも城に迎え入れていなかった。
つまりレネは六年前にどこからか連れてこられた、縁戚には当たらない出自の子である可能性が高い。
六年も前に親元を離れたならば、レネはその頃まだほんの子どもだったはずだ。本物のレネ・リュークストンと同い年かそうでないかはさだかではないが、せいぜいその頃十三、四歳くらいではなかっただろうか。
(もしかしてレネは……侯爵に利用されている、だけ?)
今までの発言内容からして、どう考えても侯爵はレネの嘘に共謀している。むしろ首謀者はレネではなく侯爵の方だろう。
なにがどうして本物のクラウンジュエルがここにあるのかは依然として分からないが、侯爵は少なくとも六年前からこのような恐ろしい計画を練っていたということになる。
六年前といえば、本物のレネが消えた一年後。第四王子が失踪して一年も経てば、おそらく亡くなったと想像はつく。そんな折に、こんな突拍子もない替え玉作戦を思いついたのかもしれない。まだ第一王子や第三王子が存命の頃だが、伝承のとおり七年後に帰還した王子候補を堅牢王の魂の継承者に見せかけることができれば、彼らを引きずり落として王位が手に入る。
冷静になって考えてみると、荒唐無稽で夢みたいに実現性に乏しい話だ。けれど現にクラウンジュエルと贋の第四王子候補が存在している以上、それを事実と見るのが自然だろう。
「まあ、露見したとて牢につなぎ、クラウンジュエルの修復を終わらせたあとで、野犬の餌にでもすればよい。どちらにせよ、あの娘はお前の戴冠前に屠るつもりだった」
エメリは思わず漏れそうになった悲鳴を噛み殺した。
必死に、息の乱れた自分の口元を押さえる。
「それまでは気分よく仕事をさせてやれ。お得意の、娼婦のようなふるまいでな。——ごみ山の王の肩書も、案外役に立つではないか」
「ええ、恋人のようにふるまいますよ。なにせ僕の取り柄はこの顔と身体だけですからね」
レネは侯爵の侮辱に怒るどころか笑って答える。
その笑い声を聞いているのが、なんだか苦しい。
それに。
(ごみ山——)
聞きおぼえのある言葉だが、なんのことだったか思いだせない。
ただ、侯爵がレネをまっとうに扱っていないということはよく分かった。
「くれぐれも孕ませるなよ。作業に支障が出ては困る。ああそれと、次に帰るまでにあのトルマリンは処分しておけ。役立たずはいらぬ」
ついにエメリの口から、ひゅっとかすかに音がまじった吐息が漏れる。
ソルが慌ててエメリの口を塞いだ。
「……なにか今、妙な音がしなかったか」
「ああ、靴を新調したもので。嫌な音が鳴るんですよ」
レネがそう言うと、床に靴の踵を擦りつけるような甲高い音がした。エメリの上げかけた悲鳴に似ている。どうやら機転を利かせて庇ってくれたようだ。
侯爵はそれで納得したらしい。
エメリは青ざめながらも裸足になってその場を離れた。
◇
足音を殺して、暗い城内を駆ける。
二階から一階へ続く踊り場に差しかかったところで、ソルは堰き止めていたものを吐きだすように口火を切った。
「エメリ、あの侯爵がど腐れ畜生だって分かった以上、もうこれ以上この城に留まる理由はないわ。早く逃げ――」
階下で揺らめいた光に、ソルの声がぎくりと固まる。
エメリも目を凝らして、息をのんだ。
夜陰に、深海のような青の深いかがやきがあった。トルマリンの石精だ。
こちらにはまだ、気づいていない。
エメリとソルは、咄嗟に姿勢を低くする。
(だめだ。今一階に降りれば、石精に見つかる。見つかれば、あの紅玉の石精を喚ばれて、戦いになる)
相手が格上でも、ソルひとりなら善戦して逃げおおせることもできるかもしれない。しかし、エメリを守りながらでは話が別だ。エメリは確実にソルの足手まといになる。
もし幸運が重なってこの城を逃げおおせたとしても、相手はアヌシア地方一帯を治める大貴族だ。藍玉宮にも兵力はあるだろうし、侯爵の鶴の一声でアヌシア中の騎士が押し寄せることは目に見えている。
エメリの家は知られていて戻ったところでどうにもならず、かくまってくれるような伝手もない。父は山に籠もっているだろうが、父を頼れば確実に危険に巻き込む。父は山に分け入る体力と根気と石への執着心だけは人一倍あるがエメリに似て運動音痴で、戦いとは縁がない。
助かるとすれば、誰にも見つからずに距離を稼ぎ、ハイネブルグを逃れ一刻も早く女王の勢力に合流するしかない。
(だけど、ソルひとりなら……)
ソルひとりなら、この領内から逃げだすこともできるはずだ。
「ばかなこと考えているんじゃないでしょうね?」
四つん這いになって二階の廊下の柱の影に逃れたところで、ソルのひそめた声がした。
「あたしたちは死なばもろともよ。あんたが逃げないのなら、あたしも逃げない」
「な、なにも死ぬ気はないよ。ソルが助けを呼んでくれれば――」
「あんたひとりでダイヤモンドの細工ができる? エメリがクラウンジュエルを修復できないと分かれば、侯爵は平気であんたを殺すわよ」
その通りだ。
ダイヤモンドの宝石細工は困難をきわめる。男性の宝石細工師にくらべて握力や腕力の劣るエメリは、ことダイヤモンドの宝石細工をするときはいつも、彼女の力を借りている。
戦いのすべがないどころか、宝石細工においてもエメリは半人前だ。侯爵がエメリをしょせんは女と称するのも、無理もないのかもしれない。
「とにかく機を伺いましょう。侯爵はあの分ではまた城を空けるわ。そのときを狙えば、突破口はある」
ソルの冷静な声にはっとして、エメリはうなずく。
くよくよしている場合ではない。こういうときこそ、自分にできることを探さなくては。
「……ひとつ大事なことが分かった」
ソルは怪訝そうな顔をして、エメリを見上げた。
「レネは、侯爵に嘘をついている。あのふたりは同じ嘘でわたしたちを騙したけれど、一枚岩じゃ、ない」
もしレネが侯爵に利用されていて、その支配を逃れるために嘘をついたのなら、彼と手が組めるかもしれない。
レネがそれを狙ってエメリたちにわざと本物のレネ・リュークストンでないと気づかせたのなら、彼の不可解な行動のつじつまが合う。
「たしかにね。あの贋物は狡猾に侯爵を出し抜こうとしている感じがした。だけど、ならなんであいつはさっさとこの場所から逃げださないわけ? うちの店に来た日、あいつはひとりだった。城の留守も任せられるくらいには信用されてる。あたしたちより、逃げるのはたやすいはずよ」
「それはなにか……逃げだせない理由が、あるのかも」
「ええ、そうかも。だけど、奴は底が知れない。簡単に信用するのは危険よ」
ソルはエメリに同調しつつも、そう釘をさした。
ここで話し合っていてもしょせんは推論でしかなく、らちが明かない。
レネの帰還を待って、説明を乞うべきだ。
エメリはソルとうなずき合うと、ドアベルの細工のされていない彼の部屋に逃れた。
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