5 夜の底

「——この、腐れ外道。その汚い手を放しなさい」


 ソルが凍てついた静かな声で言った。

 その声で、エメリは完全に目がさめる。


(嘘、だったんだ)


 やさしくしてくれたのも、傷ついた姿が弱々しくすら見えたのも、エメリの宝石細工を大切に扱ってくれたのも。

 すべては、王位を手に入れるため。

 この人は、エメリをそのための駒だとしか思っていない。

 嘘が巧いことも、たくさんの嘘をつかれていたことも分かっていたのに、いつの間にかエメリはレネに同情して、この人をなんとしてもこの夜の底のように冷たい城から掬い上げなければいけないなどという、馬鹿げた妄想に憑りつかれてしまった。


(……ソルが、あんなに言ってくれたのに)


 エメリが彼女の忠告をきちんと聞いていたら、こんなひどい事態には陥っていなかっただろう。

 自分の愚かさが情けなくて仕方なかった。


「……わたしは、あなたみたいな人に、宝石細工をつくらない」


 地下室で同じことを言ったときよりもずっと強く、エメリは拒絶をしめす。

 たとえ今喉を掻き切られたとしても、こんな卑劣な野心と欲望にまみれた男に、正統な王位継承者の証であるクラウンジュエルの宝石細工など、つくりたくはなかった。


「だったら作りたくなるように、きみもあの暗い地下牢に何日か閉じ込めてみようか。それとも、きみのこのきれいな白い肌に似合う血染めの文様でも彫ってみる?」


 僕にそういう才能があるのかは分からないけれど、と酷薄な冗談を言いながらレネは笑う。

 ソルが明確な殺意を込めて、レネを見つめる。レネはますます強くエメリに陶器の破片を押しつけて、それを牽制した。

 エメリは静かに息を吸う。次に告げる言葉に迷いはなかった。


「好きに、すればいい」

「そう。——なら、このペリドットを砕こうか」


 人のものとも思えない言葉に、血の気が引いた。

 レネは、エメリの首に提げられたペンダントの金具を器用に外す。エメリを強引に引きずって窓辺までやってくると、手に掴んだペンダントを窓ガラスに押し当てた。

 城の窓には星石が混じっている。叩きつけられれば、石が傷つく。悪くすれば、レネの言うとおり、石が砕け散るだろう。砕け散れば、永遠のときを生きる石精であるソルも消失する。


「やめて!」


 エメリは金切り声を上げる。


「やめて……」


 ほとんどすすり泣きながら、うわごとのように繰り返す。


「だったら、どうすればいいか分かるね?」


 レネはまるで慰めるようにエメリの髪を梳くと、つむじの辺りにキスを落とした。

 少し前までだったらどきどきして真っ赤になっていたにちがいないのに、今はもう心が砂漠のように乾いてなにも感じない。


「エメリ。こんな下衆の話を聞く必要はないわ」


 レネを睥睨しつづけていたソルが、エメリだけを見つめて言った。


「あたしの核が砕けるなら、その窓ガラスも無事じゃいられない。窓ガラスが割れれば、侯爵が駆けつける。そうしたらこいつの裏切りに気づいて、混乱に乗じてあんたは逃げられるかもしれない」

「そんなこと――!」


 できるはずがない。

 ソルの言葉の意味は、彼女の命を犠牲にしてエメリだけ逃げおおせろと言うことだ。


「さっき、ソルだって言った。死なばもろとも、って。それに、こんなことになったのはぜんぶ、わたしのせい」


 ソルは充血した目でエメリを睨みつける。エメリも真っ向からそれを見つめ返した。

 レネは突然はじまった不出来な余興でも眺めるみたいに、乾いた笑いをこぼす。


「水を差すようで悪いけど、それは無理かな。石精たちはすでに侯爵ではなく僕の手のうちにある。音を遮断する石精もね。きみたちが断末魔を上げたところで、侯爵はこの騒ぎに気がつかない」


 ソルは嗤った。


「それも、あんたのはったりかもね」

「どうかな。でも、エメリはもう心を決めてくれたようだよ」


 レネの言葉にはっとした様子でソルはエメリを見つめる。

 エメリはソルのほうは見ずに、レネを真っ向から見据えた。


「——あなたの望む宝石細工を、つくる。だから、ペンダントに手出ししないって、約束して」


 レネは、満足そうに喉を鳴らした。


「だそうだよ。ソル、きみはこれからは監視つきで過ごしてもらおう。エメリ、きみは僕と一緒だ。恋人のようにと侯爵にも伝えたからね。誰も疑わない」

「このドクズ野郎! 地獄に落ちろ!」


 ソルは唇をわななかせて罵る。だが、レネはまるで気分を害した様子もなく歌うように軽やかに言葉を続ける。


「ソル、いいね。きみが妙なことをしでかしそうになったら、僕は迷わずエメリの喉を裂く。どうせひとりで地獄に落ちるなら、この子を道連れにする。きみは利口だと思ったけれど、まだ理解できないかな」


 レネは、少し困った様子で首を傾げた。芝居がかったその態度に、ソルのこめかみに青筋が浮かぶ。

 けれどソルは、それ以上は反駁しなかった。


「……分かったわ。だけどあんたも宝石細工を望むなら、エメリにこれ以上めったな真似をするのは得策じゃないと心得なさい。エメリは宝石細工師よ。職人として、尊重して。でなきゃ、あんたの欲しいものはぜったいに手に入らない」

「親切な忠告として受け取っておくよ」


 レネは薄ら笑いを浮かべてひらひらと手を振ると、ソルを部屋から追いだす。

 ぱたん、と音を立てて扉が閉まる。突きつけられていた陶器の破片の感触が消えて、軽く背を押される。

 エメリはソルの前でなんとか掻き集めていた虚勢を手放すと、くずおれるようにその場にぺたりと膝をついた。


 ◇


 果てない海をのぞむ窓の外は、暗黒にのまれていた。

 月もなく、星もない暗夜。寄る辺などどこにもなく、自分の存在さえもが心もとない。

 肌にじかに触れる床はきっと冷たいのだろうが、その感覚すらあやふやだ。感覚という感覚がとざされて、すべてがぼんやりと曖昧にかすんで、輪郭をもたない。

 暇さえあれば宝石細工のことを考えていたのに、今はなにも考えたくない。

 叶うなら、あの夜闇の向こうの海の底に沈んで終わりのない眠りについてしまいたい。願うのはただ、それだけだった。


「エメリ」


 呼び声に、閉じていた意識がひらく。ずっとぼんやりしていられたらよかったのに、どうしてかそのいちばん聞きたくなかったはずの声を耳にとめてしまった。

 エメリは顔を上げなかった。ただ、床に落ちた男の影が揺らめくのを見とめた。

 彼はエメリのすぐそばに膝をつく。


「そろそろ休まないと、身体にさわるよ」


 彼は、心底から心配そうな声音で言う。

 朽ち木のようだった身体に、怒りが火を灯す。


(どの、口で)


 エメリが身体を壊してクラウンジュエルを作れなくなるのは、たしかに彼も困るだろう。代わりの宝石細工師を探さなければいけない。

 けれど、それだけだ。彼はソルの核を今も握っていて、なにかあればエメリを迷わず殺すと宣告している。その言葉だけは、真実の言葉であるはずだ。

 それなのに舌の根も乾かないうちから、よくもそんな言葉が吐ける。


「…………ここで、私が休まると思っている、なら、あなたは、おか、しい」

「弁解をさせてもらえるなら、僕はきみみたいにいたいけでけなげな子をいたぶる趣味はないんだ。もしきみがいい子にしてくれるなら、やさしい夢をあげるよ」

「……やさしい、夢?」


 レネは甘ったるい笑みを浮かべた。


「きみに恋をして、夜ごと愛をささやいてあげる。もう二度と怖い思いをしないように、いつくしんで守ってあげる」

「——ソルの命を、握って、おいて?」


 エメリはソルのような乾いた笑いをこぼそうとして、失敗した。心を凍らせようと思うのに、上手くいかない。

 レネはその間にも滔々と言葉を続ける。


「きみは少しのことに目をつむって、それに気がつかない振りをすればいいだけだ」

「……少しの、こと……?」


 エメリは立ち上がった。レネを見下ろす形になる。そのまま手を振りかぶると、レネの頬に向かって思いきり振り抜いた。

 乾いた音が響いて、遅れてじんじんと手のひらが痛みだす。


「ばかに、しないで……!」


 エメリは痛みを訴える手のひらをぐっと握りこんで、レネを睨みつけた。

 これならば、エメリの愚かさを嘲笑われた方がましだった。

 レネはソルのことは警戒すべき相手として認めたが、エメリのことはなお、憐れみをかけてやる相手として認識している。甘い嘘を差しだせば、それに乗ってくると思っている。彼の腕の庇護を求めると思っている。

 そのことが、我慢ならなかった。


「……いらない」


 エメリは眸に涙をためて、ますます強くレネを睨みつける。


「あなたのくれるものなんて、なにひとつ、いらない!」

「……嫌われたものだな」


 レネはほつれた髪を掻き上げると、いかにも愉しげにくすくすと笑う。

 その頬は打たれた衝撃で、少し赤くなっていた。

 そのことに、エメリは青ざめる。考えなしに叩いてしまったが、ソルのペンダントは今、彼の手にあるのだ。


「あ……今のは、罰するのは、わたしにして。ソルの核に、触らないで!」

「どうしようかな――と言いたいところだけど、僕もそれほど狭量じゃない。これくらいは甘んじて受けよう。きみにこれ以上嫌われて、仕事を放りだされても困る」


 レネは立ち上がるとベッドに歩み寄り、シーツを糊のきいた新しいものに替えた。

 それから繊細な彫刻のほどこされた衝立をベッド脇に配置すると、エメリの手にゆったりとしたリネンの夜着を握らせた。


「きみはこっち。僕はあっちだ」


 そう言って、レネはエメリにベッド側の衝立の向こうを示した。つまり、エメリにベッドで寝ろということだろう。


「え……?」

「きみの友だちに職人として尊重しろと言われたからね。きみの身体には指一本触れない。僕の誓いなんて、きみにとってはごみ屑も同然だろうけど、伝えておくよ」


 レネはそう念押しをしたが、エメリが驚いたのはなにも貞操の危機について心配していたからではない。

 レネの側に長椅子しかないこともそうだし、なにより彼はエメリをこのまま朝まで自由にしておくつもりのようだ。鎖に繋がれるなり、両手両足を縛られるなりのことはされると思っていた。

 レネは職人を極力失いたくないが、エメリはといえばそんな事情はない。レネの寝首を掻こうと思えばエメリにだってできなくはないのだ。

 彼を傷つけられずともソルのペンダントさえ奪い返すことができれば、ふたたび立場は逆転する。


「悪いけど、妙な気配には敏感でね。望みを果たせるとは思わないほうがいい」


 レネはエメリの疑問を引きとって、薄く笑う。

 本当のところはどうか分からないが、レネがエメリの懐柔策に打って出て、小娘にはなにもできないと高をくくっているなら好都合だ。

 隙を見て、ペンダントを盗みだすこともできるかもしれない。


(今日の今日じゃ、きっと警戒されてる。油断させて、機会を待とう)


 エメリは義務的に夜着に袖を通してやわらかなベッドに横たわると、意識のほんの表層をなぞるような浅い眠りに身をゆだねた。

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