5 誘惑と寝かしつけ

「これは、行かないでっていうサイン? 意外と僕は、きみのお気に召したって思ってもいいのかな」


 どう話を切りだそうかと迷っていると、よく分からないことを尋ねられる。レネの視線は、エメリの手にそそがれていた。

 見慣れた黒ずんだ指先は、ひしっと彼の上着の裾を掴んでいる。

 ソルが一緒にいるといえど、たしかにこんな夜に男の人を呼びとめるなんて、勘ちがいされてもおかしくはない振る舞いだった。


「ち、ちが……」


 レネは愉しげに口元をほころばせると、エメリに向きなおってその身体を抱き上げた。

 いわゆるお姫さま抱っこだ。


「ちょ、ま、まって! レネ、さん!」


 レネはまるで重さなど感じていないような足どりで、エメリをベッドの上に丁寧に下ろした。真新しいシーツに皺が寄って、寝台が軋む。すぐさま起き上がろうとするけれど、左肩にレネの右手が掛かっていて、起き上がると間近で接触してしまいそうになる。

 けれど起き上がろうとしなくても、三つ編みの下からのぞいた耳にレネの艶めいた息がかかって、大変にまずい状況だ。


「レネでいいのに。……かわいいね、エメリ」


 レネの指がすべって、エメリの髪紐をとく。

 何度か髪を梳かれると、寝台の片側半分におさまりの悪い髪が広がった。

 まさかレネのように華やかで高貴な人が、エメリのように地味な職人の娘を相手にするはずがない。こんなのはたちの悪い冗談だ。そう言い聞かせながらも、ひょっとしたらという思いがじわじわと身体をこわばらせていく。

 レネの胸を押し返そうと、手のひらに力を込める。

 けれど、彼の身体はびくともしない。

 きれいな顔立ちにばかり目が行っていたけれど、こうして間近で見ると鍛え上げられた肉体をしているのが分かる。

 男の人の身体だと今さらに思う。

 エメリが泣いてわめいて暴れたところで、その事実からは逃れられない。


「で、殿下! まだちょぉっと早いんじゃないかしら! そう! こういうのは順序と気持ちの確かめ合いってものが大切で――」


 さすがにあせった様子で、ソルが間に入ろうとしてくれる。

 エメリは肩掛けの袷をぎゅっと掴んで、固く目をつむって歯を食いしばった。


「……きみに泣かれると弱るな」


 どこか苦い、擦れた声がして、肩や脚に掛かっていた圧迫感が消失する。

 おそるおそる見上げれば、レネはくしゃりとみずからの髪を乱して寝台を降りたところだった。

 まなじりにそっと、躊躇いがちに彼の長い指が触れる。どうやら涙をぬぐわれたらしい。


「ごめん、こわい思いをさせた。ソルの言うとおり、きみの気持ちも考えずに急ぎすぎたね。……それで本当はなんの用だったのかな」


 少しくたびれた様子で、レネは微笑む。

 慎重に空けられた距離にほっとして、エメリは戸惑いつつもいそいそと上体を起こした。


「クラウンジュエル、は……明日、見せてくれ、る?」


 クラウンジュエルは本物なのか。本当に石精の核になっているのか。瑕疵はどれほどのものなのか、どのような地金が使われ、どういった意匠を凝らしているのか。

 それを確かめないことには落ちつかない。自分の宝石細工師としての腕には自信があるけれど、エメリの知らない技術が使われている可能性もないとは言えないのだ。

 それに、なにより。


(そうじゃなきゃ、この人を信用していいのか、わからない)


 何度も聞いてしつこいといやがられるかと思ったけれど、今度は彼も話をうやむやにしなかった。


「明日見せてあげられるかはなんとも言えないな。これには、タイミングというものがある」

「タイミング?」


 この城のどこかに保管してあるならば、ただそこに案内すればいいだけではないか。エメリはそう思うのだが、レネには考えがあるらしい。


「そうだね、きみにとって安全なときを選ぶつもりだよ。僕としては、何日か先がいいと思ってる。それまではペンダントの修理や好きな宝石細工をしているといい。明日の朝、必要なものを持ってくるから」

「あ、ありが、とう……」


 エメリははにかんだ。

 昼間の騒ぎで壊れてしまったペリドットのペンダントは、巾着袋に入れて持ち歩いていた。このペンダントには複雑な思いもあるのだが、エメリとソルとをつなぐ大事な宝石細工だ。それを気にかけてくれる人がいたのだと思うと、胸がぽっとあたたかくなる。

 しかしそのおかげでエメリは、クラウンジュエルを見るのに安全ではないタイミングがあるのかという疑問が湧いたことをすっかり忘れた。


「さて、そろそろ淑女たちの部屋からお暇させていただくわけだけど、その前にひとついいかな」


 レネはエメリを手招いた。訝しみつつも、彼の求めに応じる。

 レネは内緒話でもするみたいにエメリの耳に甘くささやいた。


「おやすみのキスをしてくれない?」

「おや!? キ、ひぃ! な、なに、を、言って、いる、の!?」


 エメリはパニックを起こして枕をぶん投げたが、それはいともたやすくレネによって受けとめられる。


「さっき、きみに自己中心的で底意地の悪い詐欺師と言われて、僕の自尊心は大変に傷ついた」

「…………そこまでは言ってない、と思う」


 直すべきところを教えてと乞われたときのことだろう。

 たしかに似たり寄ったりなことは言ったと思うが、もう少し表現をぼかした言いかたをしたはずだ。


「僕の心には今、土砂降りの雨が降っている。これではとてもとてもとても安眠できそうにない。ああ、きみが僕にキスをしてくれたらきっと、すぐにでもやさしい夢を見ることができるのに」


 彼お得意のスマートな嘘とちがって、明らかに嘘だと分かりきった、ろくでもない嘘だった。けれど、エメリも本人の前で悪口をぶちまけた自覚はあったので、うっと口ごもる。

 たしかにちょっとだけ、エメリも悪かったかもしれない。

 たとえ本当のことであれ、伝えかたというものがある。

 それにもしレネの正体が彼の言っているとおりなら、エメリという女王側に寝返る可能性のある不穏分子が入り込んできたことで、彼の胸中は穏やかではないはずなのだ。


(……わたしのせいで寝られないのは嘘じゃない、かも)


 そういうエメリの機微を理解してやっているのだろうから、なおさらたちが悪いとは思うけれど。

 エメリはレネに色々と借りがある。その借りを返さないまま、レネを邪険に扱いつづけるというのも心苦しい。

 だが、おやすみのキスなどもってのほかだ。だが借りが。レネの安眠が。

 エメリの頭のなかは爆発寸前だった。


「——あ、あなたの、お部屋は、どこ!?」


 エメリはひっくり返った声で叫んだ。ベッドに置いてあった大きなうさぎのぬいぐるみを、むんずと片腕に抱きかかえる。

 そのまま、こっちだけど、と困惑ぎみに指さすレネの背中をぐいぐい押して廊下に出た。彼が指さすほうへずんずん歩いて、レネを部屋にぽいと放りこむ。


「はい、ベッドに、寝て!」


 コートと靴を脱がされて、レネは呆気に取られていた。

 なかなか自分で動いてくれないので、仕方なくエメリはレネをベッドに座らせて、そのままよいしょと彼の身体を横たえる。

 レネはしみじみと「きみって案外大胆なんだね。自分からいくのはありなんだ」とかなんとか言っているが、エメリは聞いちゃいなかった。


「おなかは、冷やしちゃ、だめ」


 エメリはレネの捲れそうになっている腹のあたりに毛布を掛けてやる。それからなんとなく物寂しげに伸ばされているレネの腕に、うさぎのぬいぐるみを抱かせてやった。

 我ながら、いい仕事をしたと思う。

 レネの身体はもこもことした清潔な寝具に覆われていて暖かそうだし、かわいいうさぎがいて寂しくなさそうだし、すごくとても夢見がよさそうだ。

 ソルはなぜか肩をふるわせながら、顔を腕にうずめて何度も咳払いをしている。レネはどこか遠い目をして彼女を見やって、「なるほど」となにかを悟ったように重くつぶやいた。


「そうだ。あ、あたたかい、ハーブティーは、いる?」

「……今日はいいかな」


 いくらか疲れた声でレネは言った。

 エメリはそっか、と肩を落とす。寝心地はよさそうなのに、レネの反応はいまひとつだ。

 ほんの幼い頃、寝つけない日に父がよくしてくれた寝かしつけのルーティンを思いだしながらやったのだが、あまり彼には効果がなかったらしい。父は鉱物の図鑑も読んでくれたのだが、寝る前に難しい化学組成の話などされて、石好きのエメリでも頭が痛くなるばかりだったのでやめておいたのだ。だが、意外とあの鈍器のような図鑑が安眠の鍵だったのだろうか。


「なんていうか色々言いたいことはあるけれど、きみの熱意は伝わったよ。ありがとう。おやすみ、エメリ」


 やわらかなねぎらいの言葉に、エメリはぱっとうつむけていた顔を上げる。


「おやすみ、なさい、レネ。たくさん寝てね。いい夢を」


 キスの代わりに、そっとレネの乱れた髪を撫でる。

 鬱陶しそうにしつつも屈託のない笑みがこぼれるのを見て、エメリの心臓はわけもなく奇妙に跳ねた。

 レネの顔が見えないようにぐいぐい毛布を上げてから、ベッドを離れようとする。

 だが、ある物を見つけてエメリは立ち止まった。


(あ……)


 ベッドサイドには、エメリのつくったガラスの宝石細工があった。几帳面にサイドテーブルの上のシルクの布の上に置いてある。夜翠玉から持ち帰ってくれたのだろう。

 うぬぼれでなければ、やはり彼はあの自分で身につけることもできない宝石細工を大切にしてくれているように思える。


(どうして?)


 百面相をしながら、与えられた客室への道を引き返す。着替えてベッドにもぐりこんでからも、頭のなかにそのことばかりが次々に浮かんでくる。

 それほどレネの気に入る形をしていたのだろうか。どうせなら、男性でもつけられるように作り替えリフォームしようか。

 いやでも、もしエメリが彼に宝石細工をつくるならもっと――。

 そこまで思ったところで、エメリの意識は夜闇に落ちた。

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