2 銀雪と藍玉の貴公子
(……なんて、透きとおったきれいな眼。アクアマリンみたい)
山嶺に戴かれたけがれを知らぬ雪のような銀の髪に、遠浅の海の青をひとしずくこごらせたような薄い青の眸。長く濃やかな睫毛は眸に艶のある影を帯びさせ、少し目を伏せただけで悩ましいような気分にさせられる。
フロックコートは、仕立てのよい濃色の絹ビロード。腰まわりにぴたりと寄り添うウエストコートは布地とほとんど同色の光沢のある糸で細やかな刺繍がほどこされ、洗練された印象を抱かせる。一点の曇りもない白のクラヴァットは、品のある形に結ばれていた。
職業柄貴族に会うこともたびたびあるが、これほど気品のある貴公子にお目にかかることはそうない。
ひょっとすると、石精だろうか。
しかしその考えはすぐにひっくり返された。
(あ……)
いっそ神々しいほどのうつくしい眸と目が合う。きれいすぎてどこか冷淡に見えた眸が、途端に人の体温をまとった。
年の頃は二十歳かそこらだろうか。
口元には蜂蜜のように甘い笑みがきざまれ、それが花ひらくようにほころぶ。
「こんにちは、レディ。エメラルドの眸の、うつくしいお嬢さん」
「……え?」
エメリはきょろきょろと店内を見回す。
「あんたのことよ。エメリ」
ソルに脇で小突かれ、エメリは目をみひらく。
今、この貴公子はエメリに向かって言ったのだろうか。誰から見ても完璧にうつくしくて自信に溢れたソルではなく、陰気で冴えなくて、やることなすことみっともないエメリに?
しかも。
(エメラル、ド?)
まさかエメリの眸を、そんなうつくしい石にたとえる酔狂な人がいるなんて。
娘に甘い父が冗談めかして言うことはあったけれど、父のはあくまで親馬鹿であって客観的な評価ではない。
「い、いいいいいいいらっしゃいませ。な、なななにをお求め、ですか」
動揺からかいつも以上につっかえてしまって、みっともなさで頬が熱くなる。
にぎった手のひらが汗ばんで気持ちが悪い。エメリは人自体得意ではないが、男性のお客さまはもっと苦手だ。
エメリの作品は若い令嬢には買い手もそこそこついてきたが、男性にはさっぱりだ。そもそも男性客はどうしてもと令嬢に乞われた父親や使用人を除けば、この店にくるのは稀だった。彼は妙齢の令嬢の父親にしては若すぎるし、かといって使用人とも到底思えない。
(そんな人が、どうしてわたしの店に?)
エメリはそっと青年の後ろを覗いてみるが、妹や恋人や姉のようなたぐいの女性は見当たらない。客は彼ひとりきりだ。
エメリの言葉のつたなさを嘲笑う様子も、おしゃべりなソルに対して白い目を向ける様子もない。
「腕のいい宝石細工師がいると聞いてね。大通りから足を伸ばしてみたんだ」
エメリの疑問に答えるように言って、青年は店内を見わたす。
陽の光を透かしたようなペリドット色の壁と天井には、白い塗料で植物の蔓が繊細に描かれている。つるりとした大理石の床はそれらを反射して、淡いオリーブグリーンの影がやわらかく落ちていた。
店の中心に置かれたトルソーには、ペンダントもなにもかかっていない。マホガニーの陳列棚にも閑古鳥が鳴いていた。
『夜翠玉』は商品を陳列しない主義というわけではないが、ビスポーク――お客さまと話をしながら作品をつくりあげていくのが基本の店だ。ソルが石の買い付けの手伝いや売り子をしてくれているとはいえ、デザイン、研磨、彫金、仕上げといった宝石細工の制作過程はほとんどひとりで切り盛りしていることもあって、なかなか量産は難しい。いつもお客さまの注文を仕上げるのがやっとで、陳列用の商品にまでは手が回らない。
青年は少し困った様子で首を傾けたが、エメリが手に持っていたモルガナイトの指輪に気づくと、興味を引かれたように視線を寄越す。
「見てもいい?」
エメリは操り人形になったみたいにこくこくと頷いて、青年に指輪を差しだそうとする。
だが、その手を取られて引き寄せられる。
爽やかなシトラスの香りがはじけたかと思うと、シャープなラベンダーとまろやかな花々のにおいが立ち上がってくる。その下から微かに鼻腔をくすぐるのは、樹木の刺激だ。
先ほどまではにおいに気づかなかったから、浴びるように全身に香水を纏っているわけではない。それがこれほどあざやかに香っているのは――エメリと彼の距離が一気に近づいたからだ。
「あ、あの! お、お客、さま!」
ほとんど悲鳴のような声をあげて、半泣きになりながらエメリは青年を見上げる。間近で藍玉の眸と目が合った。そのことにますます動転して、両手で彼の胸を勢いよく押し返す。
しかし後ろによろめいたのは、押された青年ではなくエメリの方だった。なんとか体勢を立て直してから、自分のしでかしたことに気づいてさっと青ざめる。
「あ……すすすすみません! し、失礼な真似、を……」
身なりからして、相手は上流階級だ。そんな相手を突き飛ばしたとあっては、こんなちいさな宝石細工店など吹き飛びかねない。
「気にしないで。僕も礼儀がなっていなかったね」
青年の朗らかな笑顔にほっとしたのも束の間、そっと手が伸びてくる。それがあんまり自然なしぐさだったので、思わず見とれる。
骨ばって長い、きれいな指だ。
エメリの指先は研磨材と金属の粒子がこびりついて、いつだって黒ずんでいる。だから自分の指に指輪をはめたいと思ったことはない。
だけど、この指に繊細な銀細工をほどこした指輪を通したら、さぞや映えるだろう。色石は、何がいいだろう。華やかな人だから、きっとどんな石でも似合う。でも、わたしなら——。
職業病のようにそんなことを思っていたら、髪の先をそっと掬い上げられてぎょっとした。艶のある薄い唇が髪に寄せられそうになって、卒倒しそうになる。
「な――なに、して――」
「ああごめん。きみがあんまりあいらしくて、つい」
涙まで浮かべたエメリが気の毒になったのか、青年はまるで降参とでも言うように両手を上げて手を放した。
(な、なんなの、この人)
ちょっと道を歩けば令嬢たちから黄色い声を上げられそうなこのきれいな人に、エメリを口説くことに利益があるとは思えない。
男の人に慣れていないエメリを揶揄って楽しんでいるんだろうか。それとも女と見れば誰でも甘い言葉をささやくのが、この青年の流儀なのだろうか。店の外では勝手にすればいいと思うけれど、エメリを巻き込むのはやめてほしい。
(だけど、この人はお客さまだ。わたしの指輪を見たいって言った)
そんな人を、むげにはできない。
エメリはおそるおそる、薔薇色の初恋めいた形をかたどった指輪を青年に差しだした。
「あ、あの! こここここれ! どうぞ!」
それだけ言うと、エメリはドレスの裾をひるがえして小走りにカウンターの奥へ引っ込む。はしたないという自覚はあったけれど、これ以上の譲歩はエメリには無理だ。
(期待は、しちゃだめ)
エメリは自分に言い聞かせる。
彼は先ほどこの店の評判を聞きつけたような口ぶりだったが、その噂も本当のところはろくでもないものにちがいない。
なんでも、エメリの宝石細工は少女趣味が過ぎるらしい。
立派な貴族は、娘や妻や恋人の宝石細工にエメリの店を選ばない。
宝石細工はこの国で神聖な意味を持っていて、神聖な仕事というのは女のするものではないというのが大方の認識だった。
もっと現実的なことを言えば力が物を言う仕事なので、女性には
貴族の父や夫たちは、たとえ気まぐれに女たちのわがままを聞いてやったとしても、子どもだましのくだらないおもちゃだと皮肉って店を出て行くのがいつものことだ。モルガナイトの指輪だって、さる名家の令嬢とその母親が注文をしにきてくれたのだが、父親が途中でこんな非常識な店の指輪は買えないと契約を破棄してきたために、買い手のいなくなってしまった指輪だった。
もしまた面と向かって作品を貶されたらと思うと、足がすくむ。
青年は指輪をじっと見つめていたが、やがてつめていた息を吐きだすように甘く切ない吐息を落とした。
「いいね。プディングみたいに甘い、宝石細工だ」
そこに嘲るような色がひと匙でも忍ばされていたなら、エメリは勇気を振りしぼって玄関の扉をあけて、出て行ってくださいと青年に迫ることもできただろう。
この人はたぶん、エメリとちがって自分を着飾ってよく見せるのにも、言葉を飾り立てるのにも慣れている。息を吸うように嘘がつける人だ。
なのに、その言葉にだけは嘘がないと感じた。
少女趣味と馬鹿にされるのとさほど変わらない言葉なのに、どうしてかエメリの胸のいちばんやわらかいところに沁みいって、鼻の奥がつんと熱くなる。
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