第2章 ふたつの顔をもつ城

1 ハイネブルグ城

「ひえ……」


 生まれたての小鹿のようにぷるぷるとふるえながら、エメリは眼前に広がる夢のようにきらびやかな光景に立ちつくす。

 クラウンジュエルは安全な場所に隠してある。そう言われるがままに連れてこられたのはなんと、ハイネブルグの街を見渡せる高台に聳えた城館、ハイネブルグ城だった。

 きれいなものに目がないエメリは、もちろんこの幻想的で真珠のようにうつくしい城に憧れを抱いていた。無数の円錐形の塔や尖塔、明かりとりの窓が建ち並ぶ様は優美で、さながら御伽噺のなかに迷いこんだような気分にさせられる。

 それもそのはず。王国の西の最果てにあるこのハイネブルグは、文字どおり神代の神話と隣り合わせの街なのだ。

 エミテルレーシアの西方の海の彼方には、石精たちの楽園と呼びならわされる幻影の島、宝石郷ほうせききょうがあるという。

 それゆえにハイネブルグでは多くの宝石が産出され、宝石にまつわる産業が盛んで、俗に宝石領と呼ばれるまでに発展を遂げてきた。

 宝石郷の存在が御伽噺ではなかった時代は、石精との相次ぐ戦が繰り広げられ、宝石領の主には宝石郷と王国のあいだの調停者としての役割が課せられていたという。


「ほら、エメリ。これが初代フィガルテ公を描いたレリーフだよ」


 レネはまるで物見遊山かなにかのように広い城内を歩きながら、道すがら通路の壁にほどこされた浮き彫り細工を指さす。

 初代フィガルテ。彼の打ち立てた偉業は、こう伝わる。

 石精との激しい戦いから人間を守ったのだとも、あるいはその逆で、石精と親交を結び争いを遠ざけたのだとも。

 その偉業の内容はどうであれ初代フィガルテは英雄となり、宝石騎士なる名誉を授かった。その後、功績を称えられ、当時の国王から侯爵位をも授与されることとなる。

 そういうわけで、宝石領の爵位継承は特例として建前上は世襲ではなく、宝石騎士の称号を継ぐ者に与えられることになっている。

 初代の没後も次第にその領地は拡大し、今では西方のアヌシア地方一帯を治める大貴族として権勢を振るうまでになった。

 だがそんな浪漫に胸を躍らせながら城内見物と洒落こめるほど、エメリの肝は据わっていなかった。


(……嘘、つき)


 エメリは恨めしい思いで、レネのぴんと伸びた背中を凝視する。

 夜翠玉で依頼を持ちかけてきた彼は、きみしか頼れる人はいないと言わんばかりの勢いだった。まるで僕はずっと独りだとでも言いたげな悲愴感をただよわせていて、この人にはわたししかいないんだから、などと柄にもない自意識過剰なことを思ってしまった。

 それなのに、レネにはこんな立派な後ろ盾があったのだ。

 彼から実は侯爵に匿われていると聞いたときは、エメリは腰を抜かすかと思った。

 侯爵がついているのなら、エメリのような駆けだしの職人の出る幕などない気がする。

 勝手な想像をしたのはエメリだが、レネは確信犯のように思えてならない。


「お手をどうぞ、かわいい人」


 レネは芝居がかった仕草で振りかえると、エメリに手を差しのべた。

 城館の階段ホールには水晶でできた豪奢なシャンデリアが吊るされ、眩い光を放っている。その光に照らされて、青と白を基調にした絨毯の幾何学模様がよく見えた。

 汚したらどうしようと青ざめるエメリの横で、レネは涼しい顔だ。こうも感覚がちがうとなると、やはりレネは高貴な生まれなのかと思わざるをえない。


「じ、自分で歩ける、から」


 なんとかそう跳ねのけたが、レネは差しだした手を引っこめない。うかうかしていると、すぐに彼のペースに巻きこまれてしまう。

 エメリは彼を振りきるように歩きだしたが、三歩目で足を引っかけてつんのめった。


「おっと」


 レネは涼しい顔で、お腹に腕を回して受けとめてくれる。

 すぐに放してくれたけれど、みっともなさと恥ずかしさで顔から火をふきそうになった。


「そうやってぷりぷりしている姿もなつかない子猫でも相手にしているみたいで楽しいけど、できたらもう少し僕のことを頼ってくれたら嬉しいな」

「きゃあ! 殿下ったら、甘ーい、やさしーい!」


 ソルが勝手に盛り上がってレネをたたえる。

 いつもだったら、妙なちょっかいをかけてくる男の人はいくら相手が小金持ちでも愛想のない顔で追っ払ってくれるのに、今日の彼女はエメリに救いの手を差しのべてはくれなかった。

 王子の肩書というのは、石精相手にも効果は絶大らしい。

 エメリはこわごわレネに向きなおった。


「あ、あり――ありが、とう」

「どういたしまして。それでこの後の予定だけど、フィガルテ侯爵に会ってもらうよ」

「こ、侯爵さまに?」


 エメリはたじろぎつつも目をかがやかせる。


「嬉しそうだね、なんだか妬けるな」

「だ、だって、フィガルテ侯爵さまは、宝石細工師におやさしい方だって——」


 宝石領に店をかまえる職人で、フィガルテ侯爵家の世話になっていない職人はいないだろう。

 代々の侯爵が宝石細工師たちに目をかけて庇護してきたがために、このハイネブルグの街はエミテルレーシアでも随一の宝石細工の産地として発展した。その歴史は、職人なら誰もが知るところだ。単に宝石の産地として胡坐をかいているだけだったなら、この国の宝石細工技術の成熟は、もう少し時代を下ることになっていたにちがいない。

 とくに現侯爵ヘクターは、エメリも憧れの人物である。

 街の人たちの口の端によくのぼるのは、宝石産業の生みだす富を狙って犯罪者集団が跋扈していたこの街から罪人たちを一掃し、さらには私財を投入して孤児院を設立したという辣腕ぶりと慈善家としての一面だが、エメリが注目してしまうのはもっと別のことだ。

 彼は、石精たちを非道に扱い、呪いの宝石細工と呼ばれる危険な宝石細工を売りさばいて暴利を得ていた悪徳宝石商のアジトを突き止めたことでも知られる。

 石精たちにむごい仕打ちをする悪徳宝石商に日頃ふくざつな思いを抱いているエメリにとっては、英雄そのものといっていい。


「それに、宝石騎士だものね」


 レネに見透かすような視線を向けられ、エメリはふたたび頬を赤らめる。

 宝石騎士というのは、三人の石精と親交を結んだ騎士のことである。

 石精と人間の一般的な関係というのは、ダンカンがそうしようとしたように、人間が石精の核を取り上げることで支配するという一方的なものだ。

 しかし、宝石騎士と石精の関係はそうではない。

 友愛や尊敬や信頼で結ばれた、対等な関係。

 エメリがソルとそうありたいと願う、人と石精のありかたを形にしたらきっと、宝石騎士の形をしている。

 もっともエメリも、それが埃をかぶった御伽噺にすぎないことは知っている。

 エメリのように石精を友とする人間など、今まで父以外に見たことはない。

 フィガルテ家は代々宝石騎士を輩出してきたが、それはあくまでも爵位継承のための建前にすぎない。この城には石精が何人かいるはずだが、彼らの核は侯爵に握られているはずだった。

 それでもやはり、宝石騎士と聞けば胸がきゅんとなってしまう。


「紫水晶亭にも出入りしてたなんて、し、知らなかった。気さくな方、なんだね」


 お酒はあまり得意ではないけれど、エメリも紫水晶亭で蜂蜜酒なら飲んだことがある。

 先ほどのレネの話では、フィガルテ侯爵は常連という話だった。侯爵というまるで縁のない身分の方でも、そんな話を聞けば親しみも覚える。


「え? ああ、あれは嘘だよ」


 あっけらかんと告げられて、エメリは顎を外すかと思った。


「う、嘘?」

「侯爵ともあろう者が、そんなところを護衛もなくうろつくはずがないじゃない?」

「じゃ、じゃあ、さっきのは、全部、嘘とでたらめ?」

「全部じゃないよ。でたらめってわけでもない。僕が変装して紫水晶亭であの話の一部を聞いていたのは本当だし、そこから彼らの素性を調べ尽くしたってだけ。その話を侯爵に告げ口すれば、同じような話にもなっただろうしね」


 エメリは開いた口がふさがらなかった。

 平気で嘘をつくことのできる人だとは思っていたけれど、ここまで平然と嘘をつかれると、彼の発言のなにが本当でなにが嘘なのかまるで分からない。

 そもそも、冷静になってよくよく考えてみると、レネはダンカンたちの企てや様々な事情をすべて承知のうえで、偶然をよそおってエメリに近づいてきたことになる。

 種明かしをしてくれたから騙されたとまでは思わないし、ああすることでエメリの宝石細工師としての力量や人柄を見たかったのかもしれないけれど、心臓に悪い。

 最初から助けてくれるつもりなら、はじめからそう言っておいてほしかった。

 だけどなんであれ、彼が恩人であることに変わりはない。

 ひとまずはレネへの文句をこらえて、エメリは脇道に逸れかけた話を本題に戻すことにした。


「それじゃあ、侯爵さまはほんとうは、どんな方、なの?」

「……そうだね。一途な人だよ」

「いち、ず?」


 思いもかけない言葉に、エメリは目をまたたく。


「そう。理想主義の、変革者ともいうべき人だ」


 レネの言葉の意味を図りかねて、エメリは眉根を寄せる。

 けれどたしかに、レネが本当にクラウンジュエルをもつ正統な王位継承権保持者であるならば、クラウンジュエルをもたない女王ではなく、彼を庇護している侯爵は正義を追い求める理想主義者といえるだろう。


「まあ、今に分かるよ」


 レネの言葉にうなずいて、エメリは先を急いだ。

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