夫婦になっていきましょう
17 雨にうたれて
マルーシャはグズるミュシカを膝に抱き、体を揺らしてあやしていた。
あやされるにはもう大きい、五歳のミュシカ。でも泣いてしまえば赤ん坊とさほど変わらない。やや重いけど。
何故泣いたかというと、馬車の座席から転げ落ちたからだった。
「お父さまが、お母さまをひとりじめするからいけないの」
「僕……?」
スンスンいいながら訴えられてダニールは困り顔になった。マルーシャではなく、ダニールだけなのか。
馬車に揺られながら両親が寄りそって眠ってしまい、つまらなくなったミュシカは自分も寝ころがった。向かいの座席の上でだ。そしてウトウトするうちに、足元に落っこちたのだ。ダニールのせいというのはまあ、立派な八つ当たりだった。
「空が暗いわね……」
よしよしとしながら外をうかがってマルーシャはつぶやいた。ミュシカも胸から顔を上げる。
夕暮れが近い時間だが、雲も厚くなっているようだ。今夜は雨だろう。
まもなくパルバという町だそうだ。マルーシャが生まれ育ったクローシュ公国の端にある町。ここを過ぎると、じきにバルテリス王国に入る。
「宿に着く前に降りそうだな」
「え、ラリサたちが濡れちゃう」
馭者台にも屋根はあるが、足はどうしても雨にあたる。今日はずっと手綱を任せてしまって申し訳ないと思っていたのに、その上濡らしてしまうなんて。
「雨よけのおまじない付きな膝掛けがあるんだ」
「便利なのね」
マルーシャが目をまるくすると、それだけでダニールは嬉しそうだった。
「それは、雨をどうするの?」
「はじいているだけだよ。布が濡れないように」
普通の膝掛けやマントがだんだん湿ってきてしまうのと違い、薄地でも快適らしい。
「
「……あれ、痛いの飛んでけと似てる」
マルーシャは母に習ったおまじないを思い出した。あれはオシュ アン イディ イディ。
「水よ去れ、だから。痛みを去らせるのと共通部分はあるよ」
「あらあ……」
飛んでいけじゃなくて、去れだったのか。母は子ども向けに調子をととのえて翻訳してくれたらしい。だがミュシカが首を振った。
「ううん。いたいのいたいのとんでけって、みんないう」
「ファロニアでは誰でも使うおまじないなんだ。子どもに使うことが多いだろう? だからそういう言い回しで教えるんだね」
よいしょ、とミュシカは膝からおりた。気がすんで、おまじないの話に加わりたくなったようだ。
新しいおまじないを覚えたい、好奇心いっぱいのミュシカ。マルーシャと同じく四季の姫の力を持っている。二人はこれから共に学んでいく仲間でもあった。
「お母さま、いたいのなくしたんだよねー」
「そうね。あの子、痛くないって言ってた」
「そんなに効いたのか?」
ダニールが険しい顔をした。
「……まずかった?」
「いや……普通は楽になる程度なんだ。痛みがないと治療もしなくなるし、むしろ良くない」
「あ、ラリサが手当てするように注意してたの、そういうことなのか」
「お母さまはつよいの!」
にっこりするミュシカだが、その言われ方には微妙な気分になった。暴力的な意味のようにも聞こえる。あるいは夫を尻に敷いているとか。
「……新しいおまじないを覚えたいと思ったけど、加減もできるようにならなくちゃいけないのね」
「数をこなさないと、手加減だってきかないよ」
優しく言ってくれるダニールに励まされ、マルーシャはひとまず口の中でつぶやいた。
オシュ アン ボルシス。
ひとつ、覚えた。機会があったらやってみよう。
ポツリ。ポツポツ。
パルバの町に入る直前、ダニールの言ったとおり雨が降りはじめた。
「ちくしょう、あと少しだったのに」
イグナートが毒づく。
それを笑うように雨足は強まった。ぎりぎり泥にはまることなく石畳の通りにたどりついたが、町は薄暗い。外仕事の人々がいまいましげに片付けに追われていた。
「行きに泊まった宿でいいよな」
小窓越しに声を張り上げて、イグナートは手綱をあやつる。町の中で速度を上げるわけにもいかずゴトゴトと進んだ。
カッ!
空に光が走った。
「やあんッ!」
ミュシカが泣き声をあげ、雷鳴がとどろく。
それとかぶるように、外でも太い悲鳴が聞こえた気がした。
ダンッ、バキバキッ!
物が壊れる音。
「何?」
マルーシャはミュシカを抱えて青ざめた。馭者台でラリサが雨音に負けずに叫んだ。
「誰か屋根から落ちたわ! 下の物置小屋に突っ込んだみたい!」
イグナートは手綱を引き馬車を停めた。すぐそこが目当ての宿だ。ダニールが目を細めて窓からうかがう。雨が強い。
「家の者が出てこないな」
派手に落ちたはずだが、物音が雷鳴にかき消されたのだろうか。マルーシャはそれを聞いて扉に手をかけた。
「マルーシャ?」
「助けなきゃ」
とめる間もなく飛び出していく。ダニールは慌てて追った。
「マルーシャ!」
転落したのは目の前のパン屋の屋根からのようだ。横の薪小屋の屋根がひしゃげている。
店の入り口へと走るマルーシャがどんどん濡れていき、ダニールは急いで唱えた。
「
「すみません! 屋根で仕事している人がいませんでしたか!」
おまじないをかけられたことには気づいただろうか。振り向きもせずマルーシャはパン屋の戸を開け声をかけた。
泡をくって出てきた店の人々により薪小屋から屋根修理の男が助け出される。怪我はしているが生きていた。だがそこで店主だろうか、恰幅のいい男が叫んだ。
「薪が濡れちまった! 明日のパンが焼けないぞ!」
関係者たちが凍りつくのがマルーシャにもわかった。それは死活問題。
下の方の薪は無事かもしれない、と店の者総出で薪を取り出しにかかる。だが作業するその上にも雨は無情に叩きつけていた。
あ、と思いついてマルーシャはそちらに近づいた。
「
静かに手をのべ小声で唱える。
するとおまじないがフワリと薪小屋を包んだ。
「――!」
ダニールは一瞬迷った。人がおまじないに気づくと厄介だ、解いてしまおうか。
だがすでに薪の表面はずぶ濡れなのだし、働く人々も同様。たぶんバレやしない。せっかくのマルーシャのおまじないをないがしろにしたくはない。
そのマルーシャは、試してみたおまじないが成功し立ち尽くしていた。
できた。三つ目の、おまじない。
――少しでもパン屋さんの役に立てるかな。
雨よけのおまじないをかけても先に濡れた分はそのままだ。マルーシャの服も濡れていて、髪からはポタポタと水が垂れている。
ため息をついたダニールは上着を脱ぐと、マルーシャの肩にかけた。
「あ、ダニール……」
「何をするかと思えば」
ダニールの眉間にしわが寄っていることに気づいてマルーシャはハッとなった。
「ごめんなさい、あなたまでびしょ濡れ」
「……僕はいい」
「おーい、さっさと来い!」
イグナートが呼んだ。馬車を宿の前につけ、ミュシカと荷物をおろしている。さっさと部屋を取って、服も体も乾かさなくては。
ダニールは目をそらしたままマルーシャの肩を押し、早足で宿に入った。
いつも穏やかなダニールが、ぶっきらぼうだった。マルーシャは宿の主人と話すダニールの背中を見ながら不安にかられる。
勝手をしすぎただろうか。馬車を飛び出したことも、おまじないを一人でやってみたことも。
――嫌われたらどうしよう。
そう思いついてしまって、マルーシャの胸はきゅっと痛んだ。
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