35 あなたとわたしのおまじない
ザラエでの最後の夜、マルーシャとダニールは二人きりだった。いや、昨夜も二人だったが、ろくに話す気力もなく倒れるように寝てしまった。
久しぶりの夫婦だけの時間。
今夜は。今夜なら。今夜こそ。
二人とも、じんわりと胸が高鳴っている。
――ヒラヒラ、ちゃんと着たわよラリサ。
「ダニール――」
「あ、ああ」
着替えたものの身の置きどころに困ったダニールは、書き物机の椅子に座ってしまっていた。
ガウン姿のマルーシャは、離れて立ったまま笑いかける。自分のために戦ってくれた頼もしい夫に、まだちゃんと言っていなかった。
「……あの時、すぐに来てくれて嬉しかった。ありがとう」
マルーシャはそっと指輪を示した。ダニールが目を細めてかすかに笑う。
「あたりまえだろう。でも――二度とごめんだな」
心臓に悪すぎる。
消えた妻を追うなんて、そんな物語のようなことは向いていない。自分はただの学者なのだ。
マルーシャを取り戻せてダニールは心底安堵した。だけど実は、少しだけマルーシャに確かめたいこともあるのだった。訊いてみてもいいだろうか。
「マルーシャ、あの――連れ去られた時、何もされなかったか」
「――なにも?」
言いにくそうなダニールにマルーシャは訊き返した。その素直な声でダニールはうろたえる。
「いや、だから、その」
メレルスは性根のゆがんだ粘着質の男だ。そんな奴にマルーシャが連れ去られて胸がどす黒く染まったのを思い出したのだった。
口ごもるダニールに、マルーシャは心臓がキュ、となるのを感じた。もしかして不埒で卑猥なことをされたと疑っているのだろうか。
「え、と」
ちょっと悲しくなりかけて気を取り直す。
これはダニールなんだから。疑うとかじゃなく心配しているだけ。きっとそう。
「あのね」
「あ。いや、いいんだ」
ダニールは言葉をさえぎり片手で顔をおおってしまう。尋ねたくせにマルーシャがためらうようにしたら聞くのが怖くなった。
「そうだよな、連れて行かれたんだから何もってわけにはいかない。わかってるから」
「ちょ、ちょっと」
勝手に納得しないでほしい。夫に後ろめたいようなことは何もなかった。誓って。
「――指一本、ふれられてません!」
キッと言い返してしまった。だって腹が立つ。何もないのに思いこまれるなんて、嫌。
「ゆび、いっぽん――?」
「そうよ」
ダニールがきょとんとした。そして眉を寄せてグルグル考え始める。
「いや、だって。誘拐だぞ? そこはほら、腕をねじあげるとか、叫ばれないよう口をふさぐとか、抱えて引きずっていくとか――」
「は?」
ひと言を口にすると、堰をきったようにダニールは気持ちを吐き出した。
「――あいつがマルーシャにさわったかと思うと僕は苦しくて悔しくて。そりゃいちばん嫌で気持ち悪かったのはマルーシャなんだから僕がそんなことを言っちゃいけないと思うんだ。だけどあいつがマルーシャの手首をつかんだなら僕はそこに清めのおまじないをかけたいし僕が同じところをそっと握り直すし撫でるし口をふさいだなら僕はやっぱりそこ」
「待って! 待ってよダニール」
目をそらしたまま流れるようにブツブツ言うダニールをとめる。
「ダニール、なにも……って、そういう?」
「え……そういう、ってどういう?」
「や、あの」
マルーシャはもごもごした。はしたなくて言えない。婦女に対する暴行じゃなく普通の暴力のこと? なんて。
「……本当に、なにもないの」
もじ、と小さく言ってうつむいていると心配そうにダニールが近づいた。マルーシャの顔をのぞきこむ。
「マルーシャが嫌な目にあってないなら、いいんだ」
「平気よ」
「じゃあ心細そうにしないでくれ。こわいよ」
隠し事をしているように見えるのだろうか。目を上げると黒い瞳があたたかくマルーシャを包んでいた。
ああこの人は、もう――。
「ダニール」
一歩出て、マルーシャはポフ、と夫の胸に頭を預けた。ダニールがおそるおそる腕に入れてくれる。
「――もし口をふさがれてたら、どうしてくれるの?」
どうしても世間とずれている夫のことがおもしろくて愛おしくて、マルーシャは試すように訊いた。胸から上目づかいで見上げる。
「え」
「今、言いかけてた。気持ち悪いの、どうやって治してくれる?」
マルーシャの照れたような微笑みで、さすがのダニールもわかったらしい。
これはいたずらだ。新妻なりの、精一杯の。
「うん――」
ダニールは手のひらでマルーシャの頬にふれた。そっと親指でくちびるをなぞる。
「――」
ピクリと震えたマルーシャが目を伏せると、背に回っていた腕に力がこもった。
手が耳の後ろにいく。髪に指を入れて抱きよせる。そして、くちびるがふさがれた。
繰りかえし、繰りかえし。
これは本当におまじない。
もう何も考えられない。何もこわくない。
熱い吐息と手のひらに、わけがわからなくなる。
それでもマルーシャはせめてもの言葉をつむいだ。
「ダニール……」
「ああ」
「だい、すき」
ダニールの返事は、言葉ではなかった。
* * *
マルーシャは黄金色の陽光が降る庭園の小径をたどっていた。そこかしこが紅葉し、木の実を小鳥がついばみに来ている。
「素敵な庭――」
「ここでミュシカもよく遊んでる」
隣で言ったのはダニールだ。二人そろって身なりをととのえ、やや緊張した表情。今日はファロン侯爵に会いに来たのだった。
やっとたどり着いた旅の目的地、ファロニアで侯爵邸を訪ねると、二人は庭園へと通された。執務室などではなく家族と過ごすくつろぎの場所でマルーシャを迎えたい。侯爵はそう言ってくれたそうだ。
「お祖父さんに会えるのね……」
「やっと任務が果たせるな」
ダニールがここを発った時にはその旅が新婚旅行になるとは思いもしなかった。しかもマルーシャと二人で事件を解決して帰るだなんて。
マルーシャだって最初はただ、母アレーシャが生まれた国を見てみたいと思っただけだった。ダニールのことは素敵な人だと感じていたけれど、いきなり結婚するなんてあり得ない。その後の冒険も何もかも、嘘のような出来事だった。
二人そっと、視線を合わせる。微笑み合う。
「――私たち、間違ってなかったわね」
「ああ」
だって、並んでいて幸せだと思うから。
「勘に従うのは正しいんだよ。僕らは妖精だ。感じたことを信じればいい」
「……うちのお父さんは人なのに、妖精族より直感的に生きてるわ」
「そうかもな」
一緒に吹き出してしまった。
直感でアレーシャと恋をして、そのまま妻にしたクリフト。
そこから産まれた娘マルーシャが、めぐる季節の末こうして祖父に会いに来るなんて。当時の誰も思わない。
紡がれる時間は、別れの悲しみや誕生の喜びや行き違う心の切なさを織り上げながら果てしなく続いていく。
春、夏、秋、冬。
四季をこうあれかし、と繰りかえしながら。
ずっと、ずっと。
「あ――」
ひらけた先のこじんまりしたテラスに、お茶の用意されたテーブルがあった。
そこに上品で貫禄のある男性が立っている。六十過ぎと聞いていたが、まだまだ老いた感じはなかった。
前まで進み出て、ダニールが黙礼した。微笑んでマルーシャをうながす。
「――お祖父さん? 初めまして、マルーシャ・アヴェリナ――ジートキフです」
ジートキフを名乗ることに少し迷ってしまった。照れと、ダニールが叱られはしないかという心配で。
だが祖父は嬉しそうにマルーシャと同じ薄茶色の瞳をきらめかせた。
「初めまして。そして――おかえり、私の春」
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