終 ただいま、春
ファロン侯爵は愛おしげに細めた目でマルーシャを見つめた。その向こうに長女アレーシャ――侯爵の春のおもかげを探しているのだとマルーシャにはわかった。
「母にはあまり似ていないかも」
ポツリと言ったら、微笑んで首を横に振られた。
「いいや、よく似ている。心が強いところ、自分のつとめを果たそうとするところ、だが恋をしたら脇目もふらぬところもな」
ダニールに視線を移し、ハッハッハと大きく笑う。
「まさかこのジートキフを落とすとは。聞いて仰天したぞ」
「……おそれいります」
いたたまれない顔でダニールがつぶやいた。報告したのはイグナートのはずだ。どう伝わっているのか一抹の不安がある。
「いいんだ。おまえの妻になったのだから、マルーシャはファロニアへ来てくれるのだろう? でかしたなジートキフ、これまでで一番の功績かもしれん」
「は」
バンバンとダニールの背を叩き、侯爵は二人に座るよううながした。マルーシャは口ごたえしてみる。
「ダニールの研究は役に立ってますよ? この旅の間でも何回か人を助けたもの」
「それはマルーシャがやったんだろう。僕が気づかないこと、ためらうことに突っこんで行って」
「なんか言い方がほめてない!」
「ほめられないことをしたのは誰だ」
つい言い合ったら、侯爵がまた大声で笑った。
「なるほど、マルーシャはそんなか。ますますアレーシャのようだ」
しみじみと嬉しそうに言う。
思い出を探り、記憶が巻き戻っていく。そんな遠い目。
「あと少しでアレーシャが出ていった年齢になるのだな――こんなに良く似た娘を遺していたなんて」
侯爵は不意にくちびるを震わせた。
「早くあれに――会いに行けばよかった」
マルーシャに娘の姿を重ね、侯爵は深い深い後悔を吐き出す。
「家族そろってこちらに招けばよかった。あの馬鹿娘と阿呆婿と喧嘩すればよかった。ずっと意地を張って何をしていたのやら。あんなに若くしていなくなると思わないじゃないか」
「お祖父さん……」
「おまえにも、もっと幼いうちに会いたかった。アレーシャに抱かれている姿を見たかったよ」
乗り出して伸ばす手がマルーシャの頬にふれる。もうミュシカのように幼くはない、大人のすっきりした顔立ち。
マルーシャはその手を優しく取った。
父も母も、心に従って生きた。だがそれによって捨てたものも傷つけたものもあるのだと、この手は教えてくれる。
「ごめんね、お祖父さん。知っていたら会いに行きたいっておねだりしてたわ」
「アレーシャは何も言わなんだか。頑固な奴だ、誰に似たかな」
「……お祖父さんでしょ?」
言われて侯爵は苦笑いした。
たくさんのものを背負ってきた、そのがっしりした手。ぎゅっと握ってマルーシャは笑い返す。
母は幸せに暮らしていたと祖父に伝えたいと思った。母はずっと妖精の誇りを持ち続けていたと。
「お母さん、私におまじないを教えてくれたんですよ」
「……そうか」
「私、春の歌うたえます。ちゃんと伝えてるってダニールも太鼓判です」
「そうか、そうか。アレーシャは春を捨ててはいなかったんだな」
侯爵がうなずく。
母アレーシャはいつも故郷とつながっていたのだ。春という季節の恵みによって。だからマルーシャは、それを継いでいきたいと思う。
「――私は春告げの姫になれるでしょうか。お母さんができなかったこと、私がかなえたい」
マルーシャが言うと侯爵は目を見張り――そして、うるませた。
風が吹く。
秋の陽ざしに透けて、マルーシャの淡い栗色の髪が薄紅に輝いた。それは春をその身に宿すしるし。
本当に春はファロニアに戻ってきたのだ。
長い時を越えて。
* * *
ファロン侯爵邸の庭のすみに、あまり使われない一角がある。
ここは四季の庭。季節に呼びかける時、姫たちはここで歌うのだった。
今日はマルーシャがその中心に立っていた。
まだ秋だが、愛し子として春の力を借りることができるか試す。春告げの姫にふさわしければ、ここに春を呼べるはず。
見守るのはダニール、そして侯爵。ザラエから戻った実務家パーヴェルや、ミュシカとその両親もいた。
「おまじないは覚えてるね、マルーシャ」
確認するダニールを振り向き、マルーシャは小さく笑う。
そのおまじないは、ザラエの街でさんざんミュシカが練習していたものだ。それを冬ではなく春にして語りかける。
「それでは、やってみなさい」
侯爵が力強く孫娘をうながした。マルーシャはうなずく。
大地に根をおろす草花。
降りそそぐ光。
ファロニアの空を風が行く。
マルーシャの体に、土も水も光も風も、何もかもがあふれるような気がした。
「
マルーシャは春に告げた。すぐそこに話しかけるように――だって春はもう、マルーシャを囲んでうずうずしている。
すぐにミュシカが楽しげな声をあげた。
「うわあ!」
四季の庭にやわらかい春が満ちた。
うずまく風とともに木々が黄緑に萌える。
どこからか花びらが舞い降り、蜜が香る。
それは春の、祝福――。
空に手を伸べたマルーシャは、春が嬉しそうに自分を迎えてくれたのを感じた。そして春に応えるようにマルーシャの内側で何かがトクンと息づく。
それは懐かしげにささやいて――。
――ただいま、春。
マルーシャの目に涙があふれた。
お母さん。
やはりそうか。母アレーシャの想いはマルーシャの中に伝えられている。だからマルーシャも春に愛されるのだ。
アレーシャはずっと願っていた。
娘がファロニアにつながり、妖精の故郷を知り、アレーシャの手からこぼれてしまった幸せを受け継いでくれるようにと。
今、それが叶えられる。アレーシャの心は春の風に乗って舞い、ファロニアへ、父のもとへ帰ってきた。
「――アレーシャ。すまなんだな」
侯爵がつぶやくと、春風は笑った。お互いさまね、と。
そして春はマルーシャを包む。この春にこめられた願いは消えはしない。ずっとマルーシャのもの。
それがわかって、マルーシャは春とうなずき合った。
「
告げられた春は、微笑みを残すようにして去った。
たちまち庭に秋が戻る。緑の蔦が再び赤く染まり、空気は乾いて香ばしく澄む。
「マルーシャ」
歩みよったダニールがハンカチを差し出した。そうだ、泣いてしまったんだっけ。
「――アレーシャさんなのか」
「そう。お母さん」
ハンカチで目を押さえながらマルーシャは笑った。
「だいじょうぶ、お母さんの力も心も私がもらったの。一緒にいられるから寂しくない」
「うむ――素晴らしい春だった」
声を掛けた侯爵の目も、わずかに濡れていた。でもマルーシャを見る顔は誇らしく輝いている。
「マルーシャ・アヴェリナ・ジートキフを春告げの姫として認めよう。異論はないか」
ダニールもパーヴェルも、黙って頭を下げた。ミュシカが踊るように駆けてくる。
「マルーシャお母さま! これでわたしといっしょね!」
マルーシャは抱きついた少女を受けとめた。もう二人は正式に春と冬として並ぶのだ。
「うん。ミュシカの方が先輩よ? よろしくお願いします」
「せんぱい?」
首をかしげるミュシカとともに辺りを見回した。
よろしく、春。
よろしく、ファロニア。
「――本当に、すごい春だった。記録を調べた限りでは一番濃厚に手応えのある儀式だったな。でも書き記すなら冷静に、と考えると同等なことも過去にあったんだろうか……」
しゃべり始めはマルーシャのことを愛おしげに見つめていたのに、考えながらダニールはどんどん学者の顔になっていく。マルーシャはがっくりした。
「また私のこと研究対象にしてる」
「え、うん。そうだよ」
素でそれを肯定する。侯爵はわざと難しい口調でつぶやいた。
「……その前に妻であるべきなのだが。こんな男に嫁にやってよいものか……」
「あ、その」
やっと理解して慌てるダニールを、皆で笑った。
来たばかりのファロニアだが、不思議とマルーシャはしっくりとなじんでいた。
妖精の血を濃く継いでいるからか。アレーシャの想いのおかげか――それとも、マルーシャがファロニアを愛そうと決めたからかもしれない。
ここでマルーシャは生きていく。
ダニールと並んで。
マルーシャは愛おしい世界を見遥かし、大きく息を吸った。なんて幸せなんだろう。
この日マルーシャは春と重なった。そしてこれからは毎年、春を招く。
愛すべきファロニアのために。
愛した人のために。
終
春を告ぐマルーシャ ~妖精の落とし子は〈おまじない〉で幸せを咲かせます~ 山田あとり @yamadatori
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