そして春を告げる日へ
33 初めましてと再会と
アヴェリナ。
それはアヴェリンの娘、という意味。
ファロン侯爵の長女アレーシャが恋をし、嫁いだのはクリフト・アヴェリンという名の時計職人だった。
二十年前、ファロニアでからくり時計の展覧会があった。そこを訪れた若くひょうきんな男クリフトは、職人としてはとてもひたむきだったとか。
その時まだ六歳だったリージヤは、誇り高くしっかり者の姉が隠し持っていた情熱に驚いたものだ。
「――そう。あなたが」
自分との血のつながりには言及せずに、リージヤは冷ややかをよそおった。
「この方の寝室はあるのかしら。こんな夜更けに騒がしい」
「おや、姫はご機嫌斜めですかな。私はこんなに楽しいのは久しぶりなのですが」
メレルスの笑みは下卑ている。リージヤは顔をしかめてみせた。それすらも満足そうにして、メレルスは隣の部屋の扉を開ける。
「こちらを使えるようにしておきましたので、どうぞ。今夜は遅いですからな、明日にでもゆっくりお話しになればよい」
隣室をマルーシャに指し示し、メレルスは悠々と去っていった。
おまじないを使おうなどと思わないことだ、とマルーシャにも言い渡してある。自分の術に自信があるのだろう、欠片も心配していないようだった。
メレルスが去るのを待って、ルスランはちょいちょい、とマルーシャを自分たちの部屋に招いた。マルーシャにだって話したいことが山ほどある。うなずいてついていくと、扉を閉めるなりリージヤに抱きしめられた。
「――初めまして、姪っ子さん」
震える声で、嬉しそうに言われた。名乗りが通じていたのだとマルーシャも笑顔になる。でもルスランにはわからなかったようだ。
「どういうことだい? 姪っ子?」
「アレーシャお姉さまの娘なのよ」
「――ああ! 春告げの後継者として探してみるべきだと兄さんが言っていた人か。でもそれでどうしてこんなことに? 兄さんの嫁に間違われるなんて」
「いえ……それは間違いじゃなくて、本当に」
「え?」
少し顔を赤くしながらマルーシャは説明した。なるべく
ベルドニッツに訪ねてきたダニールと結婚する流れになったこと。ミュシカも一緒なこと。ファロニアに向かううちにメレルスの情報をつかみ、全員で救出に来たこと。
「……じゃあ兄さんが連れている娘、てのはミュシカなのか。あの子は宿に?」
「はい」
むちゃくちゃな話をしているとは思うが少し急ぐ。確認したいこともあるのだった。
「館でおまじないは通じないとメレルスが言っていました。本当ですか」
「ええ。歩いていい場所が決まっていて、その範囲では壁にも扉にもおまじないを弾くおまじないみたいなものが掛けられてるの」
それは――マルーシャは目をまるくした。人の作った物には掛けられないのではなかったか。
「僕らは無理に破ろうとしなかった。むしろ腕力で壊すのなら、できるかもしれないんだが」
「はあ……」
おまじない対、物理。どうなるのかマルーシャは見たことがない。
「でもつまり、逃げられないように、壁や扉だけですね?」
「たぶんそうだ。どうして?」
「いえ。空間内でおまじないすべてが効かないんだと困るんですけど、それならなんとか」
その時、玄関付近でドーンッと大音響が響き、マルーシャは口をつぐんだ。
「な、なに?」
身構えるルスランにリージヤがすがりつく。
またガンッと館が揺れた。
「たぶん、ダニールたちです」
マルーシャは左薬指の指輪に視線を落とした。
来てくれた。こんなにすぐに。
――それにしても、やることが派手だ。あるいは、雑にならざるを得ないほど怒っているか。
「メレルスのおまじないを破れるか、行ってみます」
「破るって……あ、僕らも行くよ!」
玄関に行きたい。でも近づいて平気なものか、やや自信はない。ダニールにしては強引なやり方だ。夜陰に乗じての奪還作戦といえるが、これでは近隣の農家にモロバレだった。まあ恐ろしくて誰も近づかないだろうが。
廊下を行くと、玄関に続く扉が閉めきられていた。
「ここだ」
「おまじない……ああ。ある、かも」
マルーシャは扉の木製の部分に染み込んだ力を感じ取った。なるほど、木材はギリギリ自然の物だと。そのおまじないをやんわりとつかまえる。
「
言い聞かせるようにすると、スウとそれは消えた。
「わ……!」
「嘘でしょ」
驚く二人に、マルーシャは小さく笑った。
ダニールに教えられたおまじない、その応用。文言を組み替えれば、いろいろ使える。
「いきます」
一度深呼吸した。
バン、と扉を開けると、玄関ホールにいたメレルスと家令のヨアニムが振り向いた。
そして同時に、バキバキィッと乱暴に過ぎる音が反対側から。
玄関の扉が砕ける。
――その向こうに、腕を突き出したダニールが険しい目をして立っていた。
「マルーシャ!」
こちらを見つけて叫ぶ。
――ああ、怒ってるわ。
マルーシャはちょっと後悔した。簡単にさらわれたのは間違いだったかもしれない。
だがこうなったら突き進むしかなかった。ダニールもズンズンと入ってくる。
マルーシャは夫を真っ直ぐに見つめ、うなずいた。
「
かわいらしい声がホールに響いた。
空気が変わる。
冷涼が満ちる。
息を吸うとのどが痛いほどの温度まで、一気に冷え込んだ。
「な……!」
メレルスがキョロキョロうろたえる。
「ミュシカ……!」
マルーシャの後ろの廊下でリージヤが嬉しそうにつぶやいた。ダニールに隠れるように真実の冬告げの姫ミュシカがいて、冬の力を呼んだのだった。
そっと現れたミュシカは、メレルスの向こうにマルーシャを見つけて笑顔になる。
「マルーシャお母さま!」
「ミュシカすごいわ!」
練習では力を解放できなかった。
抑えて抑えて、息を合わせてきたのだ。
でも今のミュシカは違う。
マルーシャを取り戻すために、両親を救うために、心の底から冬に求め願った。
その寒さ。空気中の水が凍りキラキラと舞うほどだ。
冬は、存分にここにある。
ダニールは、メレルスに向かって手をかざし唱えた。
「
「
即座にメレルスが叫び返す。ダニールのおまじないは消えた。かに思えた。
「
マルーシャが唱えた。
と、メレルスがのどを押さえる。〈
「ぐ……が……」
メレルスが崩れ落ちる。
「イグナート!」
「任せろ!」
今いる人員のうちの物理担当イグナートが布と縄を手に駆けこんでくる。
「ぐえ、さみぃ……」
軽口も凍る寒さの中、イグナートは手早く猿ぐつわを噛ませる。それを見てダニールはおまじないを解いた。
「むー。ぶふー」
「息してるな、よしよし」
生存を確認しつつ、イグナートは容赦なく手足を縛る。メレルスはおまじないも動きも封じられた。
そして彼の家令ヨアニムは、命じる者がいなくなり何もできずに立ち尽くしていた。それもイグナートが縛り上げる。為すすべもなくヨアニムは縄についた。
「ミュシカ」
最後にダニールがうながすと、ミュシカは愛らしく冬に語りかけた。
「
その声に応え、冬の空気が名残惜しげにかき消えていった。そして涼しい秋が漂い始める。
「マルーシャ!」
そんな季節の移り変わりなどおかまいなく、ダニールは妻に駆け寄った。
「ダニール……!」
応えるマルーシャは走るまでもなくダニールの腕の中だった。むぎゅぎゅ。あ、また。
バンバン、と背を叩くが、ダニールはあまり腕をゆるめてくれない。
「マルーシャ――」
その存在を確かめ、愛おしむようなダニール。弟のルスランは驚きのあまり、それをまじまじと見つめてしまった。
やや、失礼だった。
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