32 おまじないをたどる夜


 夜も更けつつある頃、イグナートとラリサの部屋の扉が慌てた様子で叩かれた。


「イグナート、起きてるな」


 ダニールだ。焦りがにじんだ声。


「起きてるよ」


 開けてみると、ダニールが寝間着のミュシカを連れて立っていた。顔色は蒼白だった。


「やられた。マルーシャが消えた」

「は!?」


 うっかり上げた大声を飲みこんで、イグナートは二人を室内に入れる。ラリサの声が震えた。


「どういうこと。部屋にいたんじゃないの?」

「洗濯に行ったんだ。ミュシカの服に染みがあると気がついて。なかなか戻らないと思って見に行ったら、服だけが落ちてた」

「嘘だろ……」


 洗濯場は外とつながっている。連れ去るには楽な場所だ。


「さらわれたのか? メレルスか? こっちの動きに気づいてたのかよ」

「おそらくメレルスだと……あいつの荘園はザラエの西だったな?」

「ああ」

「そちらに向かってると思う」

「――お守りか」


 ダニールはうなずく。

 万が一のために持たせた指輪が役に立ってしまった。まさかメレルスがマルーシャの存在を知っているとは。

 世俗にうといダニールと旅慣れないマルーシャは、宿の下男下女が金次第でなんでもしゃべってしまうことなどわからない。ジートキフ夫人はお洗濯なさっています、と平気でもらしてしまうのだ。


「すぐに追う」

「あ、ああ。だけどミュシカは」

「わたしもいくの」


 やや眠そうに細めた目でミュシカは言った。もう良い子は寝る時間――とはいえ、こんな事態で待たせていて眠れるわけもない。それにダニールの中で、ミュシカはもう戦力の一人になっていた。


「夜遅くなるけど、ミュシカも手伝ってくれるな?」

「うん。マルーシャお母さまをおいかければ、お父さまお母さまいるよね」


 むん、とくちびるを結んでミュシカが気合を入れた。どうやら眠いというより決意の表情らしい。本当の両親を取り戻すために、少女は戦う気なのだ。


「そうだ。きっといる」


 洗濯場には争った跡などはなかった。血痕も。マルーシャはさほどの抵抗もせずに姿を消している。

 もしかしたら、とダニールは考えた。

 マルーシャはわざと従ったのではないか。誘拐されればメレルスの本拠地までダニールがお守りをたどることができる。そこにはルスランとリージヤもいるに違いない。すべてが解決する。しかし。


「そんなこと、僕が望むわけないだろう――」


 急いでミュシカに外套を羽織らせながら、ダニールは苦しげにつぶやいた。

 マルーシャに何かあったら。

 メレルスがマルーシャに手を触れたかもしれないと思うだけで、ダニールの心は黒く塗りつぶされていくようだった。




 * * *




 メレルスが荘園の差配を任せている家令ヨアニムは、命じられればなんでもする。それが誘拐、監禁でも。だからザラエに連れてきた。

 標的の泊まる宿を教えて様子をうかがわせたら、が一人で洗濯しているという。ならば娘がいなくても、その女だけでよかろうと即、行動に移ったのだった。

 マルーシャのおまじないには驚いたが、それ以上の抵抗はされなかったので追いたてるように馬車に乗せる。そしてヨアニムが馭者をつとめ、荘園へと夜道を走らせていた。月明りとヨアニムの掲げる松明が頼りなのでゆっくりだ。メレルスは車内でマルーシャと向かい合う。

 マルーシャはほとんど何もしゃべろうとしなかった。うっかり余計なことを言いそうで怖い。情報を与えてしまうのも、メレルスを怒らせるのもまずいとわかっている。おとなしく時間を稼ぎ、助けを待つつもりだ。


「ふむ。ジートキフ夫人も無口なのか。冬告げの姫と同じかな」


 ということは、リージヤはメレルスの手中にあるのだろう。


「冬告げのご夫婦は、あなたのことを知らないと言い張るのですよ。兄嫁に対して失礼じゃありませんかね」


 ならば二人とも無事なのか。よかった。ミュシカを泣かさずに済みそうだ。


「私たちは、結婚して十日もたっていないので」

「おや」


 リージヤたちが隠し事をしているように思われるのも、と真実を教えてみた。メレルスが目を見張る。


「では娘というのは? 幼い子を連れているとか」


 メレルスは自分たちが宿にいる姿は見ていないのだとマルーシャは推測した。ダニールから逆に目撃される危険もあるから、人伝ての情報だけで動いているのだろう。

 見られていれば、その娘というのがミュシカ――リージヤたちの子だとわかったかもしれない。マルーシャはそのつながりを隠し、ミュシカをかばった。


「あの子は、私が預かっているんです。ダニールの子でも私の子でもありません」

「それはまた、奇妙な新婚生活だ」


 クックッとこもった笑いをもらされた。実際そうだと思うので反論はしないが、誘拐犯に笑われると腹が立つ。

 そして、全部こいつのせいなのだと気づいた。

 ミュシカを預かっているのも、さっさとファロニアに向かわず宿にこもったのも、こんな夜更けに夫と引き離され馬車に乗せられているのも。ふつふつと怒りが湧く。

 笑ってんじゃないわよ、と言いたいのを我慢して、マルーシャは暗い窓の外を眺めた。昼間なら田園風景が広がっているのかもしれない。たぶんイグナートの言っていた郊外の荘園に向かうのだろう。

 ならば大丈夫、きっと追ってきてくれる。お守りもあるし。

 ダニールとつながる紅い石にふれたい、と思った。でも目立つ動きで石にこめられたおまじないに気づかれてはいけない。

 できる限り平静をよそおいながらマルーシャは手を重ね、握りしめた。




 夜の静寂に響いた馬車の音とかすかな馬の声に、館で眠ろうとしていたルスランとリージヤはハッとなった。

 メレルスはもう計画を実行したのだろうか。


「本当に? ……仕事が早いな」

「その能力、別のところに向ければいいのに」


 ガウンを羽織り、窓から外をうかがいながら夫婦はつぶやき合った。

 松明の灯りがチラリとしたが、よく見えない。玄関の方がざわめいているのでおそらく間違いないと思う。


「逃げても間に合わなかったわね」

「そうだな……」


 二人はここから抜け出してザラエの街に向かうべきかどうか迷ったのだった。どこかの宿にいるはずのダニールを探して危険を報せるか、と。

 そのためには物理的に窓を壊すなりして外に出、馬を奪う、という強硬手段しかなかった。馬が無理なら歩くことになってしまう。その場合すぐに日が暮れる時間は危険すぎるという判断でこの日の決行を保留したのだった。まさかメレルスの方がこうも瞬時に動くとは。


 燭台を持ち、ルスランはそっと廊下に出た。扉は開けたまま待つ。

 すると向こうからも揺れる灯りが近づいてきた。メレルスと、その前に一人の女性がいた。ため息がもれかけたが我慢する。娘という子どもの方はいないがどうしたのか。しっかりした足取りのその人には怪我がないようだが。


「おやおや、お騒がせして起こしてしまいましたかな」


 メレルスはニヤリと笑った。どうだ、とでも思っているのだろう。獲物を持ってきて自慢する猫のようだった。


「そちらが、兄のお相手の?」

「その通り。どうやらご家族への紹介はまだだそうで……知らなくて当然だったようですなあ」


 その女性――マルーシャは静かに頭を下げた。館に来て初めて会う人物をじっと見つめる。少しダニールに似ていると思った。

 話の流れからして、この男性がルスランか。夫の家族への対面がこんな形とはつくづく普通じゃない。マルーシャは少し泣きたくなったが、それでもできる限りきちんと挨拶した。


「初めまして。マルーシャ・アヴェリナ・ジートキフです」

「アヴェリナ――?」


 部屋の中から声がして、マルーシャはそちらを向いた。

 リージヤが目を見張っていた。その名前だけでリージヤにはわかったのだ。

 連れてこられたこの女性は、姉アレーシャの娘だと。自分の姪なのだと。


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