31 頑張りたいけど
「申し訳ありません」
ダニールとマルーシャは、宿の主人に頭を下げていた。その脇でしゃくりあげるミュシカの涙を、ラリサが拭いてやっている。
宿にこもって二日目、ミュシカは頑張っていい子にしていた。おまじないも練習したし、部屋で大人しく遊んだ。だから少し、力が余っていたのだ。
お昼に軽食をいただこうかと廊下に出て、ミュシカは小走りになった。こら、とマルーシャが呼ぶのすら楽しくて、言うことを聞かなかった。そして食堂へと駆け込んだところに、給仕中の女がいてぶつかったのだった。
「割れたお皿と料理の代金はお支払いします」
「はあ、それでけっこうですよ。元気なお嬢さんも、もう気をつけるでしょう」
主人は苦笑いだ。数日滞在するといって前払いしてくれた客だし、丁寧に謝罪してくれたうえに弁償するというのなら文句はない。叱られた娘も泣きながら謝ってきた。
子どものしつけが行き届いていないと思ったが、母親の方はずいぶん若い。これは後妻で新しい母親に娘が反抗しているのでは、などと勝手な想像をしてみた。ありえそうだ。
「なんだか、ニヤニヤ見られてるわ……」
席について、マルーシャは落ち着かなげだ。
「ごめんなさい……」
「あのねミュシカ、いけないと注意されることには理由があるの。次からは考えられる?」
「うん」
次の時にはまた気持ちのままに走りかねないのだが、返事はおりこうだ。そんなものよね、とマルーシャは微笑むしかない。
「ねえ、お父さま……おさらをなおすおまじないって、ある?」
こそっとミュシカはささやいた。真剣な顔だ。
「そういうのは、ない。きちんと謝ったからそれでいいんだ」
「ないのかあ」
とても残念そうにする。
ミュシカは自分の力で解決したかったのだ。お金を払うことはミュシカにはできないけれど、おまじないならできるかもしれないと思ったのに。まあ人前でやってはいけないことだが。でもこのダニールの回答はマルーシャも意外だった。
「怪我は治せるのに、お皿は無理なのね?」
「怪我は、生きているものの力を引き出せばいい。お皿はもう人の手が加わりすぎていて妖精の呼びかけには応えてくれないよ」
「ああ、自然の力がおよばないってこと」
ダニールを見ているとおまじないでなんでもできそうな気がしてくるのだが、そこには理屈がちゃんとあるのだった。
自然とつながる、それが妖精。最初に言われたことを思い出した。
「簡単なような、難しいような……あれ待って、ユーリィの靴をつなげたのは?」
最初の迷子探し。あれも人の手による物なのに、おまじないを掛けていた。
「あの時は靴と人を結んだわけじゃない。靴に染みていた汗とか皮膚片とかがあるだろう?」
「は?」
また妙なことを言い出した。どうやら靴そのものではなく、そこに残された持ち主の体の一部――汗、垢など――を手がかりにしているらしい。
「はじめにマルーシャの家を訪ねた時も、ミュシカに残っていたマルーシャの痕跡をつなげてたどったんだ」
「え……え、ちょっとやだ」
それはマルーシャの汗か何かを感覚されたということか。初対面でそんな、と恥ずかしさにマルーシャはうつむいた。ラリサがあきれたため息をつく。
「うん……ちょっと変態っぽい発言だったわよ」
「何がだ?」
おまじないの仕組みを説明しているだけなのに変態よばわりされ、ダニールはものすごく不本意な顔だった。
「そりゃ……なんていうか大変だったな」
戻ってきたイグナートは具体的に何が大変かというところへの言及は避けた。
変態なダニールも、そんな夫を持つマルーシャも、宿で元気をもて余しているミュシカも、皿の片付けをした宿の人も。みんな大変だ。
「明日は昼過ぎならダニールも外に出ていいと思うぜ」
「そうなのか?」
「おそと、いける?」
全員がイグナートの報告に希望の光を見た。たった二日部屋にいただけだが、限界は近い。
明日の午後、メレルスは商工会の会議があるらしい。ダニールの顔がわかる使用人が他にもいる可能性はあるが、メレルス本人ほどの執念はないだろう。少し変装でもすればいい。
「今日もさあ、あいつ馬車でどこかに出てたんだ」
「なら僕たちも外に行けたんじゃないのか」
「すぐ帰ってくるかもしれないだろ。明日は予定が読めるから大丈夫だって言ってるんだよ」
そういう情報にダニールが食いつくのか、とイグナートは内心驚いていた。
ミュシカとのおこもりは相当な苦行らしい。自由に動けるイグナートは恵まれた役回りなのだった。
* * *
夜、マルーシャは宿の洗濯場を借りていた。ミュシカの服に食事の染みが点々と飛んでいたのだ。昼間の事故の時にはねたものを気づくのが遅れたようだ。
「落ちるかな……」
寝間着に着替えさせたミュシカはダニールに任せてきた。明日にはお出かけできると聞いてミュシカも機嫌を直しているし、二人にしておいても大丈夫だろう。寝かしつけてくれていると嬉しい。
「ミュシカ、ふにゃふにゃだから無理か」
苦笑いになってしまう。本当の両親の行方に迫ろうとしてから、ミュシカはみるみる不安定になってきていた。やはり寂しさ悲しさを必死で心に押しこめていたのだろう。
だがそのせいで、マルーシャたちの夫婦の時間はほぼなくなってしまっている。起きていればもちろんマルーシャにべったりだし、眠っていてもふとした物音や声でミュシカは目を覚ましてしまうのだった。やっとあらためて結婚を誓い合い、さあこれからという時にこれだ。
「ううん、これからって何よ」
マルーシャは自分の思考に突っ込みを入れて赤面した。
今は、かぼちゃパンツに逆戻りしていた。このときめく想いをどうしてくれるの、ミュシカ。
叩き洗いした生地を絞り、ほのかな灯りで確認する。洗濯など昼間にするものだから見づらい。
「でも放っておいてシミにしちゃったら困るもん」
さすがに侯爵の孫娘、しっかりした品を着せられていた。ジートキフ家は古物商だと聞いたが、値の張る品々を扱っているのだしそれなりに裕福なのだろう。クセモノ時計職人の家とは違う。マルーシャの貧乏人根性が、汚れの放置を許せなかったのだ。
パン、と服のしわを伸ばす。
「さて」
部屋に戻って干そう、そう思った時、マルーシャをふわりと何かが包んだ。
「
小さく聞こえたおまじないに、何も考えずに反応していた。
「
マルーシャを包みかけたおまじないがシュウゥ、と消えていく。わずかに襲った眠気を頭を振って払った。これを人に掛けようとするのは禁じられていると聞いたのに。マルーシャの中にとまどいと怒りが生まれた。
「ほう」
面白そうなうすら笑いで外から入ってきたのはロジオン・メレルス。後ろには彼の忠実な家令ヨアニムも従っていた。
「ジートキフ夫人はなかなかの使い手のようだ」
「あなたは……メレルス、ね」
今マルーシャに危害を加えようとする者など他にいない。しかもおまじないを使って。
「私をご存じですか。それは光栄」
メレルスはゆがんだ笑顔を浮かべた。
「だが呼び捨てにするとは気に入らない」
ちょい、と指で合図する。後ろからヨアニムが進み出た。
「手荒なことはしませんよ。抵抗しなければ、ですが」
男二人と対峙して、どうするべきか。マルーシャは懸命に考える。
ダニール。つかんだ洗濯物の下で、マルーシャはそっと指輪にふれた。
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