30 憎しみの先


 ミュシカを落ちこませないように気をつかったことで、マルーシャもダニールも精神的に疲労困憊した。たった一日なのに。

 その夜はため息を飲みこんで、家族三人寄りそい眠る。だが朝はまたやってきた。

 さて、今日はどうなるか――。



 またきょうもおやど? とミュシカは悲しげだ。だが彼女の両親だって郊外にあるメレルスの館から出ていない。もう一ヶ月以上も。


「いいかげん、つまらない」


 距離をへだてた娘と同調するように、リージヤは拗ねた。


「うちに帰りたい。ミュシカに会いたいの!」

「僕だって! ああ商売はどうなってるんだろう。父さんが復帰してくれてるかなあ。僕らのことで寝こんでたりして」


 夫婦そろってハアアと大きなため息をつく。

 犯人のメレルスからは「そのうちに冬を呼んでみせろ」と言われたが、基本的には何もされていない。つまり危害を加えられることはなかったが、やることもないのだ。暇すぎる。


「冬告げ姫ごっこも飽きちゃったわよ」


 たまにそんな遊びもしていたが、ずっと夫婦二人だけでいては間がもたなかった。

 館の中の決まった所だけは歩くのを許されていたので、なるべく動き回るようにはしていた。体力が落ちてしまっては助けがきた時に困る。

 衣食の面倒をみてくれる中年の女は申し訳なさそうにするが話すのを禁じられているようだし、無愛想な家令は感じが悪いし、メレルス本人はあまり顔を見せないし、とにかく手持ちぶさただ。

 さすがに夫婦喧嘩でもしてみるか、と仲良く相談し始めた時に、表が騒がしくなった。


「メレルスかな」

「――うるさいこと。尊大なあの男が慌てるとは、良いしらせかしら」


 瞬時にを始めた妻に吹き出しかけながら、ルスランは扉を開けて廊下をうかがった。

 珍しく大きな声がする。何か命令するような口調なのは、やはりメレルスが来たのだろう。ザラエの街で何かあったのだろうか。


「――少し警戒しよう」


 これは変化のきざしかもしれない。

 良い方へ、だといい。こんなざわめきは、ここに来て初めてのことだった。

 館の中の気配を探るが、すぐに静けさが戻る。仕方なく二人は室内でおとなしく待った。メレルスが来ているなら、必ずこちらの様子を確認するはずだ。


「――ご機嫌いかがかな、冬告げの姫」


 ノックがあり、返事も待たずに扉が開いた。その無作法にリージヤが顔をしかめる。


「あなたが来るまでは、悪くなかったけれど」

「それは申し訳ない」


 メレルスは珍しくうすら笑いを浮かべていた。これはどういうことだ。ルスランは無表情を保って考える。悪い方に転がっているのだろうか。


「先ほどは少々うるさくいたしましたな。新しい客を招きたいと思い、その支度を指示していたのですよ」

「――そう」


 リージヤは興味なさそうに答えた。


「私はこれでも姫の無聊をおなぐさめしたいのです。親族をお招きしたらお喜びいただけましょう」

「……親族?」


 ルスランは静かに尋ねた。微妙な言い方だった。ミュシカのことなら家族と言うだろう。ルスランの側なら両親か、ダニールか。だがあの兄が易々と捕らわれることなどあり得ない。


「ジートキフ――貴様の兄の、妻と娘だ」


 ルスランとリージヤは無言だった。いや、ポカンとするのをこらえるので精いっぱいだったのだ。

 兄であるジートキフといえばダニールしかいないが、その妻と娘?


「あのダニール・ジートキフにそんなものがいたとは。よく隠していたものだな」


 メレルスはクックッと低く笑いながら続ける。ルスランは無表情をつらぬいた。何を言っているのかまったくわからない。情報がほしい。


「私が調べきれないほど秘密にされていたとは、あの細君は何者なんですか? ずいぶん若いそうですが」

「――誰のことかしら」


 目の前まできて訊かれ、リージヤは冷ややかに言い返した。

 これは芝居じゃない。義兄ダニールの妻だなんて、何かの誤解としか思えなかった。

 だがメレルスはリージヤがシラをきっていると思ったのだろう。満足げに笑った。


「いいのです、もう隠さなくても」


 嬉しそうに室内を歩き出す。ぐるぐると浮かれるその足取りが気味悪かった。メレルスはねっとりとしゃべる。


「あなた方をザラエに連れてきたと知ったのでしょうかねえ。追って来たのなら何故、妻や娘を伴うんでしょう。遊びでがてらとは――私をなめてもらっては困る!」


 突然叫ばれた。怒りに燃える目。それでルスランは悟った。


 この男は冬告げ姫が目的なのではない。

 ただ、ダニールを憎んでいるのだ。

 怒りと憎しみと嫌悪で、常軌を逸してしまうほどに。


 過去に何があったのか。わからないながら、ルスランは今を乗りきるしかない。平静をよそおって訊いた。


「……兄が、妻と娘を連れてザラエに現れたと?」

「そのようだな。仲の良いご家族で、などと宿の者が言っておったとか。ふん、いい気なものだ」


 イグナートを尾けたメレルスは、あらためて宿に人をやったのだ。直接自分が確認に乗り込むのは危険だ。


『以前お世話になった方がこちらにお泊まりのようなのですが、ファロニアからの旅行客はいらっしゃいませんか?』


 尋ねて金を握らせれば、宿の者がペラペラと教えてくれた。ダニール・ジートキフと家族が従者夫婦を伴って滞在中だ、と。


 その報告を受けてメレルスはを狙うことにした。

 人質にしてダニールに何かを要求するか、または――ただ殺してしまってもいい。できるならダニールの目の前で。

 ダニールにできる限りの屈辱、苦しみを与えるために家族を使う。その想像だけで愉しくて仕方がない。


「兄は、結婚などしていない」

「もうそういうのはいい!」


 一応告げてみたルスランをメレルスは怒鳴りつけた。

 リージヤに対しては嫌味なほどの丁寧さを崩さないが、ダニールの話になると憎悪をあらわにする。その不安定さがルスランに恐怖を与えた。刺激してはまずいかもしれない。


「隠すということは何か重要な女だということだな。それならばなおのこと、奪い去ってやれば奴がどんな顔をするか。見せてもらおう!」


 大げさな身ぶりで言い捨てると、メレルスは足音荒く出ていった。

 遠ざかるのを確認し、リージヤがふう、と詰めていた呼吸を楽にする。メレルスがあんなに感情を表に出したのは初めてだった。


「何もされなくて良かったよ……」


 ルスランも安堵の息を吐いた。

 これまでリージヤの安全は心配せずにいたのだが、間違っていたかもしれない。メレルスは冬告げ姫などどうでもいいのか。どうりで放置されるわけだ。


 誘拐の目的がはっきりしないと思っていたが、腑に落ちた。メレルスの中に合理的な結末などなく、ダニールへの感情に駆られて思いついたことをしているだけなのだ。

 ダニールが来たというのなら、犯人の目星をつけての行動だろう。従者と言われたのはおそらく騎士団の誰か。ファロニアがやっと動いたのだ。

 ならばメレルスがすべきは、逃走ではないのか。捕縛の危機にあるのに次の標的を奪う計画を立てている時点でもう、正気ではないのかもしれない。


「お兄さんの妻って、誰? 娘って?」


 リージヤが困惑してつぶやいた。


「さあ――」


 ルスランだって、何も心あたりはない。それはそうだ、彼らが誘拐された時点でダニールとマルーシャは出会ってもいなかった。兄が何故、どんな顔ぶれでザラエに来たのか知るよしもないのだ。


「だけど、その人たちが危ない」


 ダニールの妻子がどうのと、それがメレルスの誤解かどうかはこの際どうでもよかった。メレルスはそう信じ、何かをしようとしている。


「どうすれば……」


 二人は青ざめた顔を見合わせた。


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