20 おやすみの日


 休養するマルーシャは、ミュシカに風邪をうつさなかったか心配した。

 でもミュシカはケロッと元気いっぱいだ。ラリサとイグナートが預かってくれてパルバの町にお出かけしている。宿に残ったダニールと二人きりなのが何故かとても安らいだ。


「ダニール、何してるの」


 小さな机でダニールは何やら書き物をしている。そういえばこの人、学者だったわ。まだまだ知らない姿ばかりだ。


「マルーシャの記録だよ」

「私?」

「妖精の力が発現した瞬間から立ち会うなんてなかなかないことだからな。一つ目のおまじないを成功させたのは見逃したけど、君の成長には興味が尽きない」

「あ……そう、なの」


 とても微妙な気分になった。私は研究対象なのか。

 そういうことを平然と言ってしまうから駄目なんだ、とイグナートならあきれるだろう。でもマルーシャはまだ、素直にそう言って拗ねることもできない。小さくため息をつくだけで我慢した。

 ダニールがふと立ち上がり、こちらに来る。


「まあ、どこにも出せない研究だけどね」

「……どうして」

「だって君は春告げの姫だよ。秘密の存在だ」

「まだ違うもの」

「たぶんそうなる」


 そばにきて寝台の脇に置いたままの椅子に腰をおろすと、ダニールは額を確かめた。熱は落ち着いているようだ。


「それに――これは家族の記録みたいなものだ。マルーシャのことは僕が知っていれば、それでいい」


 少しの独占欲がにじんだのは、昨夜からの正直な気持ちだった。

 マルーシャは僕だけの姫だから。そんな風に言ってしまえればいいのだが、ダニールには無理だ。でも研究というより家族の記録、と言われただけでマルーシャには十分嬉しい。

 家族。そういえば、そうなんだわ。


「……」


 にやける顔をダニールに見られたくない。布団をずり上げ隠れてみたら、不安げにされた。


「寒いのか」

「え、あ、違います」


 的外れなことを真剣に言う。スンとなって丁寧に答えると、今度は悲しげにされた。


「具合の悪い時ぐらい、頼ってくれ」

「……」


 どうしろと。

 わかりやすく言わなきゃ伝わらないのだろう。照れながらマルーシャは言葉を選んだ。


「ええとね。私、元気な時でもあなたのこと頼りにしてるから」


 ダニールの顔がパッと明るくなる。まったくもう。微笑んだマルーシャのまぶたがふと落ちそうになった。話したら疲れた。


「ちょっと眠るね」

「ああ。ゆっくりお休み」


 そっと額をなでおろしてくれる手が心地よい。

 会話は時々ちぐはぐだけど、黙ってそばにいるだけでもいい、とマルーシャは思った。

 



 そっと部屋の戸が叩かれたのは、マルーシャが寝入ってしばらくした時だ。帰ってきたラリサが声を抑えて呼ぶ。


「マルーシャはどう?」


 ダニールは静かに廊下に出た。


「眠ってる」

「そう。じゃあミュシカはあっちのお部屋に行ってましょ」

「お母さま、げんきになる?」


 しゅんとするミュシカの手には小箱があった。お見舞いだそうだ。


「あのね、さとうづけ? くだものとか」


 馬車の中で疲れた時に甘い物を口にできるよう考えたらしい。なるほど、とダニールは感心した。自分ではとても思いつかない。


「さっきは僕と話してたし大丈夫だ。お見舞いは後でミュシカが渡すといい。喜ぶよ」

「お父さまだけいっしょで、ずるい」


 全力でくちびるをとがらせたミュシカに、ダニールは真っ向から言い返した。


「マルーシャは僕の奥さんだ。僕がいちばん近くにいていいと思うんだが、駄目か」

「大人げないな、おまえ」


 イグナートが低く笑う。


「仕方ないさミュシカ、少しゆずろうぜ。もらったばかりのお嫁さんだ」

「およめさん、だいじ?」

「ああ。だいじ、だいじ」

「……私もその、お嫁さんなんだけど」


 ラリサがジト目でにらむ。うへえ、と肩をすくめるイグナートに笑ってみせて、ラリサはミュシカを連れていった。

 見送ったイグナートは声をひそめた。


「町でキナ臭い話があった」

「――どんな?」

「小麦なんだがな」


 どうも値上がりしているらしい。

 クローシュ公国全体ではなく、このパルバの町だけかもしれない。どうやら隣国バルテリスで買い集める商人がおり、そちらにやや高値で売れるとみて流出してしまったようだ。


「小麦――」


 基本となる食糧だ。買い占めて投機的に利用することもできる。

 だがそのためにはどこかで需給が逼迫しなければ売りさばけないはずだ。そのはどこからきたのか、とイグナートは不審に感じていた。普通に考えれば小麦の動きなど限られる。


「戦争への備え、あるいはそれを嗅ぎつけた民間の勝手な動き」

「バルテリスでそれは」


 ダニールは眉根を寄せた。

 少々やっかいな事態になる。バルテリスはファロニアにとっても隣国。この近辺では力のある王国だ。それがどこと事を構えようというのだろう。


「だが俺が疑ったのは、だ」


 そう言ったイグナートは目を細めて考える顔だった。

 戦争が視野に入っているならば、動くのは小麦だけではない。鉄や皮革製品、石材、木材などにも影響する。だが今ざっと聞き込んできた範囲では、そんなことはなさそうだった。


「……戦争じゃなく、で稼ぐ気だと?」

「冷害を引き起こせばできるだろ? 他の農産物も動くのか調べりゃ確証が――ただその流れだと得するのは商人だけだ。バルテリスは関係ないのかもしれん」


 政治を考えるのは、世情に通じ侯爵の下にいるイグナートの方が得意だ。ダニールもお抱え学者の立場だが専門が違う。イグナートが言うのなら、とうなずいた。


「その商人を探れば、ルスランとリージヤにつながるかな」

「あくまで可能性だぞ」


 もちろんファロニア侯国としても行方を追ってはいる。だが存在を秘する冬告げの姫のこととあり、動きにくいのだった。しかも姿を消したのは、本物ではない。ミュシカを守るためにも慎重になっていた。


「バルテリスなら……当たりだといいな」


 ダニールがつぶやくのは、誘拐事件が起きたのがバルテリスに滞在中だったからだ。


 ダニールの実家ジートキフ家は古物商をいとなんでいる。長男のダニールが学問の道にはまってしまったので弟のルスランが商売を継いでくれた。好きだからいいのさ、とルスランは笑っていた。

 その言葉通りルスランにはそちらの才能があったらしい。美術品の鑑定などを依頼されることも多く、何件か重なった仕事のためにバルテリスに向かったのだ。

 何日も滞在するから、とリージヤとミュシカも伴った。家族旅行だがのミュシカを連れて行くならと護衛にダニールも同行する。そしてダニールがミュシカを預かり街見物をさせている間に、仕事に出かけた夫婦は消えた。


 ミュシカは無事だが弟夫婦を守れなかった。あれからずっと、その思いがダニールをさいなんでいる。


「情報収集はおろそかにしちゃいけねえな。行きはマルーシャちゃんを訪ね当てるの最優先で急ぎすぎた。風邪ひいたついでに、のんびり行こうぜ」


 イグナートになるべく気楽そうに言われてダニールはうなずいた。だが続いた軽口に殺意が湧く。


「ところで寝込んだのって、本当に風邪か? おまえが無理させたとかじゃなくて」

「……口が開かなくなるおまじないでも試したいか?」

「遠慮するよ」


 ヘラヘラと答えるイグナートに逃げ出され、ダニールは部屋に戻った。マルーシャはすうすう眠っている。それを見つめてダニールは立ち尽くした。

 無理なんて――にどうしてしまうかなど、ダニールにもまったくわからなかった。


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