21 母親ばなれ


 風邪をひいたせいでパルバの町に二泊することになったが、一日ゆっくり眠ってマルーシャの熱は落ち着いた。なんだか頭もスッキリした気がする。

 マルーシャは外套を着ることを条件に馭者台に出してもらっていた。膝掛けもちゃんとして暖かくする。でないと隣で手綱を握るダニールが渋い顔をするのだ。

 その心配はわからなくもないが、外の空気や息づく自然、そんなものに触れていた方が元気になれる気がする。


「お母さま、さとうづけたべた?」


 車内との間にある小窓越しにミュシカが気にしてくる。


「まだよ。ミュシカが選んでくれたんだもん、もったいなくて」

「やあん。ねえ、いっこたべてみてよぅ」


 まだ疲れていないのだけど。

 おねだりされて、大事に置いてあるお見舞いの小箱を開けると中身は薄紅のさくらんぼと黄緑のアンゼリカだった。


「ダニールどっちがいい?」

「え、僕は」

「甘いの苦手?」

「……いや。仕事の合間に食べることもあるが」


 頭を使うお仕事だもんね、とマルーシャは納得した。覚えておこう。

 じゃあ、とさくらんぼを一つつまみ、ダニールの口に持っていく。


「はい」

「あ、うん」


 照れくさそうに小さく開けた口に押しこむ。


「……甘ずっぱくて、元気が出るよ」

「だって。ありがとう、ミュシカ」

「お母さまもたべてね!」


 ミュシカが嬉しそうにしているが、マルーシャも今、小躍りしそうだった。

 やってしまった。初めての、あーん。

 何食わぬ顔をしたが実はドキドキなのだ。でもいいじゃない、やってみたかったんだもん。

 そして同じ指で自分はアンゼリカを食べてみる。甘い中にもほろ苦く、さわやかな香りが広がった。


「――なんかあいつら距離が近くなったな」


 外の気配をうかがって、馬車の中でイグナートがつぶやいた。


「まあ、なじんでいくのはいいことだわ。だってミュシカ、昨夜ゆうべはひとりの寝台で寝たんでしょ?」

「うん! わたしもうおねえさん?」

「そうね、ひとりで寝られるなんてすごいわ」


 ラリサは甘えん坊の少女をほめそやした。両親と引き離されて不安定なミュシカが頑張ったのだから、それぐらいいいだろう。


 風邪をうつさないかマルーシャが心配しているのよ、とラリサに言われたミュシカ。それならと一人寝を宣言し、やりとげた。同室にマルーシャもダニールもいるとはいえ、偉い。

 そしてミュシカが一人で寝た、ということは大きい寝台を夫婦で使ったのだった。


「……んで、何もしてないのか」

「病人に手出しするようなら逆に怒らなきゃ」


 イグナートが気を回すようなことはもちろんなかった。

 熱が下がったばかりのマルーシャは、そっと布団をかけられ気づかわれ、なんの緊張もなく隣のダニールに微笑んだのだ。


「ダニールがいてくれて嬉しい。おやすみなさい」

「――ああ。おやすみ」


 その安心しきった笑顔にダニールは何を思ったか。それは本人にしかわからないし誰にも言わない。

 だが明け方に気がつくと、寝返りをうったマルーシャが腕にくっつくようにして眠っていた。ダニールは息をのみ、胸をバクバクいわせながら硬直したのだった。

 世の中には、こんなに心臓に悪い幸せがあるものなのか。


「――もうそろそろ、バルテリスの領域に入っているかな」


 朝の記憶を振り払い、ダニールは周囲に目をやった。何もなく、のどかだ。


「そうなの? さかい目がハッキリあるわけじゃないのね」

「田舎はそんなものだ」

「……あの、思っていたんだけど。往来が多い道を通った方が安全じゃないのかな、て」


 人目のない場所で襲われることがあったらどうするんだろう。ミュシカを守るという大事な役目も負っている一行なのだ、遠回りでも確実に危険を避けるべきだと思う。だがダニールは肩をすくめた。


「こんな所で強盗は待ち伏せないよ。ろくな獲物が通らないからね]


 襲ってくるような連中がいるのなら、それは冬告げの姫を狙ってのことだろう。そうしてくるならダニールとしては歓迎したい。犯人の手掛かりが得られるのだから。

 だがマルーシャを安心させるために、いちおう微笑んで言った。


「もし襲われても、逃げるぐらいはできる」

「おなじないで?」

「ああ。あまり人に見せたくはないが、そんな場合なら仕方ないな」


 賊の足元をぬかるませ、相手の馬の気をそらし。やりようはいくらでもある。マルーシャは目を丸くして聞いた。


「すごいのね」

「マルーシャならすぐ覚えられると思う。あ、だけど人前では注意するように。気づかれて騒ぎになったら――薪を守ったのは、ぎりぎりの線だった」


 やや苦々しくそう言われると肩身がせまい。助けなきゃ、と思って慣れないことを勝手にやり、そのうえ風邪をひいたのだ。


「僕がそばにいる時は、まずいと判断したら解くから」

「え。人がかけたおまじないを解くなんてできるの?」

「もちろん」


 なんでもなさそうに言ってみせるが、ダニールもこれで格好つけてはいるのだった。おまじないのことなら誰にも負けない自負がある。ここで妻にアピールしないでどうする。


「そうなのね。ダニールはいろいろなこと知ってるし、あちこち行ったことがあるし、いいなあ」

「……これから、なんでもやってみればいいんだよ」


 あまりに素直に感心されて、ダニールは落ち着かない気分になった。

 今マルーシャにねだられたらなんでも言うことを聞いてしまいそうな気がする。むしろ手のひらの上で転がされているのではないか。だが転がすマルーシャの方は、そんなことに無自覚だった。




 * * *




 バルテリス王国に入って最初の町、コルニクはこじんまりしていた。宿も一軒しかなく、それなのに混んでもいない。また二部屋押さえ、荷物を運びこんだ。


「さあて、じゃあ俺はぶらぶら情報収集してくるわ」

「気をつけろよ」

「おう。雇い主の愚痴でも言い散らかすとしよう」


 ダニールの胸をつついてイグナートがニヤリとする。旅の主人とその護衛、という設定らしい。

 酒場に行き、愚痴りながら世間話をするだけでいろいろなものが見えてくる。だがこの役目はダニールにはできないのだった。おもに会話力の問題で。


「あんまり飲むんじゃないわよ」

「飲まねえよ。こんな小さな町だ、たいしたこともわからんだろ。すぐ戻る」

「おでかけなの? ラリサさびしいじゃない」


 ミュシカが眉を下げて文句を言った。かわいらしい味方をラリサは抱きしめた。


「んー、いい子! だいじょうぶ、ミュシカがいてくれれば寂しくないわ」

「じゃあわたし、きょうはラリサとねる!」


 おや。

 大人たちの動きがとまる。誘ってもマルーシャから離れなかったのに、どういう風の吹き回しだろう。昨夜ひとりで寝たことをほめられて「お母さま」ばなれが進んだか。


「そう? じゃあ今日は私たちが三人用の部屋にしましょうね」


 うきうきとラリサは荷物を入れ替える。え、そんなとオロオロする間にイグナートが夫婦二人用の部屋にマルーシャとダニールを押しこんだ。


「健闘を祈る」


 ささやくと、イグナートは出かけていった。その言葉はマルーシャには聞こえなかったのだが、振り向いたダニールが困った顔だ。ス、と視線もそらしてしまう。それでだいたいの内容は予想がついた。

 マルーシャの鼓動が速まる。だけどダニールは冷静をよそおった。


「いや……とにかくこちらも夕食にしよう」


 そう、まだ部屋に引っこむ時間ではないのだった。


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