22 ふたりの時間
ふらりと酒場に入ったイグナートは、大きな相席卓の一角に腰かけた。
たまには一人でこうするのも悪くない。こんな町にたいした情報もないだろうが、個人的な気分転換でもあるのだった。知らない店の素朴な煮込みとパン、そして葡萄酒。それだけでもなんとなく心が浮き立つ。
「お、旅行者かい」
さっそく近くの男たちが声をかけてきた。せまい町ならなおさら、旅人からの話に飢えているものだ。
「ああ。護衛をやってるんだが、たまには主人と離れて飲みに行かせろと交渉してね。宿を出てきたのさ」
ニヤ、と笑ってみせるとそれだけで肩を叩きあう仲になる。みんな雇い主や親方や取引先に何かしら抱えているのだった。イグナートは幾人かと杯をカチンと合わせた。
「どっから来たんだ」
「クローシュ公国だ。家族旅行で、のんびり田園風景を楽しみたいと奥方さまが」
「ここらは風光明媚とかじゃねえ。ただの田舎だぞ」
「いやあ、奥方さまは町育ちなもんで、野原を見るだけで目を輝かせてるよ」
これは本当のことだ。マルーシャの嬉しそうな姿を思い出しながら、嘘と真実をおりまぜていくとそれらしくなる。
だが乱暴にパンをちぎり煮込みに突っ込む食べ方は粗野をよそおった。やろうと思えば貴族の晩餐にも出られる作法は身につけているが、郷に入りては郷に従え。
「あ、このパンさあ、ここいらじゃ高くなってるか? 国境に近づくにつれてなんだか値が上がった気がするんだが。クローシュ公国だけかなあ」
「なんだ向こうでも高いのか」
もぐもぐしながら訊いてみたら、あっさり肯定された。男たちが迷惑げに顔をしかめる。
「小麦が品薄なんだよ。なんか妙な買い付けをするやつがいるらしくてな。つられてあちこちで買い占めが起こってるってよ」
「チーズもだぜ。まだ熟成できてないやつまで予約されてた」
「なんだそりゃ」
イグナートは怪訝な顔をしてみせた。
来春は家畜の乳の出が悪くなる予定、ということなのか。どれだけの飢饉を引き起こす気だ。
「パンとチーズを食べつくす大食らいがいるってか。どこのどいつだ」
おどけて訊いたが、ここにいる連中も大元の商人が誰なのかまではわからないらしい。幾人かの名前があがるのを覚えておく。
「商人みんなが乗っかりやがったんだ。俺たちにはいい迷惑さ」
そして話はさまざまな愚痴に流れていった。イグナートは低く笑って相槌を打ちながら葡萄酒をチビチビと飲んだ。
* * *
同じ頃。食事を終えたマルーシャは、部屋でダニールに迫っていた。
「ねえ私じゃダメ? お願い」
「いやマルーシャ、君はまだ病みあがりだ。無理しなくても」
「だって、私あなたの奥さんでしょ」
マルーシャはちょっとだけふくれてみせた。そんな顔をされたらダニールも弱ってしまう。
「てことは私もミュシカを守らなきゃ。お母さまなんだから」
「そりゃあそうだが」
ミュシカが危険にさらされた時に使えそうなおまじないを教えてほしい。そうマルーシャはおねだりしているのだった。
と言われてもダニールとしては、ミュシカもマルーシャもまとめて自分が守りたい。それにマルーシャはまだ妖精の力に触れたばかりだ。学習は少しずつ進めればいいのではないか。
「今日じゃなくても……疲れてるだろう?」
「この国に誘拐犯がいるかもしれないんでしょ? いつ何があるかわからないのよ」
イグナートが出かけた理由について聞かされたマルーシャは、次に何かあったら自分も力になりたいと張りきっている。
「じゃあ昼間言ってた、おまじないを解くおまじないだけ」
「どうして、それを?」
「ダニールの〈
にっこりするマルーシャの笑顔は力強い。闘う気まんまんだ。たくましく生活してきたマルーシャにとっては誘拐事件も暮らしの一幕にすぎないのではないか。
とてもかなわない、とダニールは白旗をあげた。
「
唐突につぶやかれたおまじないにマルーシャは目を見開いた。
「ショ、デー?」
「ショズデーレ」
ダニールは一言ずつ意味も教える。文言は短いが、簡単なおまじないではなかった。
言葉という曖昧な対象を明確に把握し働きかけなければならない。鋭い感覚と柔らかい心が必要なのだ。
「
マルーシャは小さくつぶやく。そこに行き場はないが揺らぎが起こるのを感じ、ダニールは震えた。なんという才能だろう。
マルーシャ自身も体に何かが流れ、あふれかけたのがわかった。周りに影響していないか不安になり、すがりつく視線をダニールに向けてしまう。ダニールはすっかり学者の顔になりうなずいた。
「大丈夫――念のためお互い抑えてやってみよう」
「やってみる? お互い?」
「僕のおまじないを打ち消してごらん」
言うとダニールは部屋にあったろうそくを一つ吹く。暗くなったその一角にマルーシャを招くと、ダニールは手のひらを上に向けた。
「僕の言葉をとらえて。起こる現象じゃなく、言葉だよ」
マルーシャは不思議な指示にまばたきしたが、ダニールの口もとを見つめる。
言葉なんて口から出てすぐ消えていくのに、とらえるなんてできるのだろうか。でもうながされるままに身がまえた。
ダニールが唱える。
「
するとダニールの手の上に、ポウと光が浮かんだ。
マルーシャは息をのんで灯りを見てしまう。ダニールが苦笑して、光は消えた。
「とらえるのは言葉だよ」
「あ――だっていきなり無理。私このおまじないも初めて見るのよ? とても綺麗だったし、すごく便利ね。ろうそくも油もいらないの?」
「ああ、これはわりと使いやすいおまじないで――じゃなくて、この灯りを打ち消すんだろう?」
「う。はい、頑張ります」
つい主婦根性を発揮しかけたマルーシャはくちびるを引き結んだ。それを微笑んでながめたダニールが、いくよ、と小さく言う。
「
「――
ダニールの声に耳を澄ましたマルーシャはおまじないをつかまえたような気がした。
ポワ、とともりかけた灯りが薄れ、消える。
手のひらの上の暗がりを凝視して、二人は無言で立ち尽くした。
「――ダニール?」
これでよかったのかしら。おそるおそる声をかける。
すると微動だにしなかったダニールは、ふるふる肩を震わせたかと思うとガバッとマルーシャを抱きしめた。
「マルーシャ――!」
「ッ――!」
あ、また。これ死にそうなやつ。
マルーシャはバンバンとダニールの背を叩いた。お願い、苦しい。
二度目となるとダニールもさすがに我に返ってくれて助かった。だが腕をゆるめただけで離してはくれない。
「成功だよ、マルーシャ」
「ほんと?」
「ああ」
見上げたら、間近に喜びに満ちた黒い瞳があった。嬉しげな輝きに吸いこまれるように見惚れてしまう。
見つめると心臓がトンと大きく打ちはじめた。速まるわけでもなく、トン、トン、と。ダニールの方も我に返ったように瞳の色が変わった。
ダニールの左腕がそうっとマルーシャの背を寄せる。
右手が上がった。その指が栗色の髪をなで、梳く。
あ。
痛むような感覚が首すじにジンとはしってマルーシャは目を細めた。
ビク、とすくんだ肩をどう思ったのだろうか。ダニールは一度上を向いた。
そしてまたマルーシャを見下ろして微笑む。
そのくちびるが、妻の額に静かにふれた。
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