19 近づきたい夜


「いやよう、お母さまとねる!」


 夕食後、今夜の部屋割りのためにイグナートとラリサはミュシカを誘い、フラれた。

 ミュシカは一日目の粗そうを挽回するためにマルーシャと一緒にいたいのだ。寝る前にしっかりおしっこを済ませて準備万端だった。


「……っくしゅ!」

「マルーシャ? ――あ、すまない!」


 くしゃみにうっかり振り向いたダニールは、慌てて目をそらす。背を向けてモゾモゾ着替えている最中だった。マルーシャはぎこちなく答える。


「ううん……だいじょうぶ、です」


 昨日ほどの緊張感はないし気まずさもやわらいでいるが、付き合いの浅さが二人の間に横たわる。

 ダニールに抱きしめられ、という経験も新たにしたが、それは恋人や夫婦としてではなかった。たんに研究成果への喜びの表現なのだし、なんなら苦しくて死にそうだった。色気の欠片もない。

 着替えながらマルーシャは心の中で謝った。


 ラリサごめんなさい。私まだ、かぼちゃパンツです。




「また三人でねんねなの、ミュシカ?」


 尋ねると、ミュシカは甘えた声を出した。


「お母さまだけでいい」

「あら」

「だってお父さま、さきにおきて、いなくなっちゃうもん」

「どうかな、今夜は僕も眠いんだ。寝坊するかもしれないよ」


 ミュシカの言い分にダニールは苦笑いした。

 実際かなり眠気がきている。昨夜あまり休めなかったし、今日は馬車で昼寝したがすぐにミュシカが泣いて叩き起こされた。明日以降のために睡眠をとらなくてはいけない。

 マルーシャをそばに感じながら眠ってしまえればそれだけでも幸せかと考えているのだが、マルーシャはどうなんだろう。


「おねぼうしたら、おいてっちゃう!」

「じゃあミュシカも早起きしなきゃ」


 マルーシャに言われてミュシカは布団をかぶった。いい子ね、と頭をなでられ満足げだ。

 今夜は眠るしたくを手伝えて、マルーシャは少し母親気分だった。昨日は自分が疲れて行き届かなかったせいで、おねしょなんて恥ずかしい思いをさせた。明日の朝にはたくさん褒めよう。

 ミュシカは寝台の真ん中ではなく、端に寄っている。本当にマルーシャとだけ寝るつもりらしい。正直にいえば、ちょっとありがたいとマルーシャは思ってしまった。

 目の前にダニールがいるのはドキドキして落ち着かない。じゃあどこにいてもらえばいいのかというとわからないけれど、一緒の寝台だと寝返りも打てなくなりそうだった。


「お母さまも、ねよ」

「ん。じゃあ、まあ」


 夫の様子を気にしつつ、マルーシャはミュシカの隣にすべりこむ。するとダニールはゴト、と椅子を持ってきた。マルーシャの横に。


「え?」

「いや、仲間外れにされるのも寂しいし。君たちが寝るまでここにいようかと」


 寝台の脇に座ったダニールに、ミュシカが嬉しそうに手を出した。それを握り返してから、ダニールは布団の中にしまってやる。

 そうして乗り出されるとマルーシャの上におおいかぶさる形になるわけで、あの、ええと。マルーシャはまったく眠れる気がしなくなった。


「おやすみ、ミュシカ、マルーシャ。僕はあとで向こうの寝台を使うから」


 ポンとしたのはマルーシャの頭だった。夫婦としてのあるべき姿を気にしているように見えたので、念のため。

 ダニールとしては少しずつ距離が縮まればそれでいいと思う。自然に近づけば。だって、無理やり詰めていくような話術も度胸もない。


「……おやすみなさい、ダニール」


 マルーシャがほんわか笑ってくれて、それでダニールはわりと満足だった。




 薄暗い中、マルーシャの手が布団の上からミュシカの腹をトン、トン、と軽く叩いていた。

 眠そうなミュシカがムニャムニャ言い、マルーシャが低く答える。

 なるほど、寝かしつけとはこういうものなのか。見ているダニールも眠くなる。マルーシャもうとうとしているようだった。

 しばらくして、ミュシカがピクリとも動かなくなった。マルーシャの手もとまっている。眠ってしまったのだろうか。

 布団から出たままのその腕をダニールはそっと持ち上げた。細い手首。くったりとなすがままのそれを布団の中に戻す。

 その時、寝間着の首もとの白さが闇に浮かび、ダニールは熱い吐息をこらえられなくなった。


「マルーシャ……」


 息だけでささやく。応えてほしかったわけじゃない。気持ちがこぼれただけだ。

 マルーシャは小さく深く、呼吸を繰り返している。ダニールはそのすぐ上に顔を寄せた。


 満足なんて嘘だ。

 マルーシャを抱きしめたい。腕に入れて眠りたい。


 雨に濡れていた肩を自分だけのものにしてしまいたかった。

 誰の目にも晒したくない。ぶかぶかな上着にくるまった姿さえ、他人に見られるのは嫌だった。

 なんて狭量な、と思う。


 だが今、起こすこともできなかった。無体をして嫌われたらと考えてしまい勇気が出ない。

 ダニールは頬に口づけたい衝動にかられるのを抑え、マルーシャの髪を一房とった。出会った時に見惚れた淡い栗色の髪。

 そこにくちびるをふれ、ダニールは自分の寝台にもぐりこんだ。




 ――どうしようどうしようどうしよう。

 背後でダニールが布団をかぶった気配を探りながら、マルーシャは乱れそうな呼吸を必死に抑えていた。


 眠っていると思われたのだろう。でも実は起きていたなんて気づかれたら、お互い恥ずかしくて死ねる。

 マルーシャはすでに死にそうな気分だし、あれがバレて平然としていられるダニールではないと思う。

 ああもう、毎日死にかけてばかりだわ。マルーシャはくらくらした。結婚ってこんなに命がけのものだったのか。


 マルーシャ、と。

 くちびるが動くだけのような、かすかな呼びかけ。熱のこもった吐息。

 それを思うだけでマルーシャの体の奥がズキンと痛むようだった。

 目の前にいたら眠れないと思ったが、後ろに座っていられてもその視線にゾクゾクした。

 そして静かにふれられた手首と、髪。

 もしかして、口づけられたのだろうか。

 髪だからわからないはずなのに、背すじがジンとした。それが、嫌じゃなかった。


「――」


 マルーシャは静かに長く息を吸い、吐く。気づかないでダニール、と願った。


 たぶん、愛されているんだ。だけど。

 私まだ今はだめ。

 ひとりでドキドキしているので精一杯。


 でももしかしたら明日は、ヒラヒラをはいてみてもいいのかな。覚悟ができたら。いやだからなんの覚悟なの、はしたないってば。いえ、その。


 心が千々に乱れるマルーシャは、今夜なかなか眠れそうにない。そのうちに、背中からダニールの寝息がした。


 夜はまだ長い。




 * * *




 そして雨のやんだ翌朝、マルーシャは熱を出していた。

 目覚めた時にフワフワした気分だなと思ったら、立ち上がってよろけた。寝台に座ってしまい、慌てたダニールに額を確かめられる。


「……熱だ。今日はここで休もう」

「え、でも」

「道中で熱が上がったらどうする」


 軽い風邪だと思う。それならなおさら、治してから進むべきだ、とダニールは言った。とにかく疲れているだけだろうから、と。

 言われてみれば無理もない。この五日ほどで人生にあった怒涛の変化たるや、心身ともに翻弄されたのだ。そこで雨に濡れてとどめを刺したのが自分自身というのが情けないけれど。


「じゃあ、頑張って治すね」

「頑張らなくていい」


 笑って言ってくれるダニールは変わらず穏やかだ。


 昨夜のささやき声はまぼろしだろうか。

 そんなことを思ったら耳がボン、と熱くなった。熱が上がりそう。というかこれ、知恵熱とかそういうたぐいなのでは。


 ああでも、こんな調子じゃ。

 今夜も絶対にヒラヒラの出番はない。


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