18 ぬれた体に


「おいでマルーシャ」


 確保した宿の部屋へダニールは足早に向かう。急かされてマルーシャの不安がつのった。本当に不機嫌かも。

 雨に濡れたのは二人だけだ。ミュシカをラリサに頼んだダニールはさっさとマルーシャを招き入れる。肩に羽織ったままだった上着をそっと脱がされて、マルーシャは小さく謝った。


「……ごめんなさい」

「何が」


 ダニールはスッと視線を外してしまった。濡れた上着を床に投げる。

 マルーシャの心臓がズキンとした。どうしよう、こんなダニールは初めてだ。遠慮がちに見上げても、無表情。

 黒い髪はずぶ濡れだった。シャツも体に張りついている。マルーシャよりもよほど濡れてしまっているのは、自分にはおまじないをかけなかったからだ。


「乾かすよ」

「え」


 向き合って両手を取られる。戸惑うマルーシャに説明もせずに、ダニールは唱えた。


オシュ アン ボルシス水よ我らの テ ポヴェラス ベータ表より去れ

 リディグレーヴァ エ ヴィーテル風よあたたまれ


 ぬるい風がゆるやかに二人を包んだ。

 次第に服も髪も軽くなっていく。ダニールは目を薄く開き、探るような考えるような顔だ。

 そしてマルーシャの髪が風に揺れはじめた頃にフッと息を吐くと、おまじないは消えた。ダニールが深呼吸する。


「――どうだろう。だいたい平気かな」

「ん……今の」


 唖然とするマルーシャの手を放し、照れくさそうに微笑む。いつものダニールだった。


「ちょっと複雑なおまじないだから、マルーシャはまだやるんじゃないよ」

「ううん、これは覚えられない……最初だけは知っている言葉だったけど」


 まだやるなと言われなくても、とりあえず無理。

 ダニールは床の上着を拾った。そっちはまだ濡れたままだ。だがその処理よりも先に妻を気づかってくれる。


「寒くないか? それに着替えないと人前に出られないな」

「え、私どこかおかしい?」

「そうじゃない。濡れていたはずの服が急に乾いたらおかしいからね。髪はまあ、丁寧に拭いたってことで」


 ダニールからはさっきの突き放した雰囲気が消えていて、マルーシャはきょとんとした。先に着替えてくれ、と出て行きかけるのをマルーシャは引き留めた。


「……何か、怒ってたんじゃないの?」

「いや――どうして?」

「だって。口数が少ないし、私のこと見ないし」

「それは……」


 サッとダニールの表情が変わった。またマルーシャから視線を外す。まずいことを言ったのかと心配していると、口ごもりながらボソッと答えが返ってきた。


「濡れてたから。悪いかなと」


 そして出て行ってしまう。まるで逃げるようだった。

 えーと?

 どういうことかと考えて、マルーシャは真っ赤になった。濡れたダニールの体に張りついていたシャツを思い出したのだ。

 つまり、マルーシャも体の線が出るような状態だったということなのか。だから上着で隠されたのか。


「やだ、もう……」


 紳士的に目をそらされていただけなのだと気づいてマルーシャは死にそうな気持ちになった。




 ラリサとの買い物で選んだワンピースに着替えて出ていくと、ミュシカが歓声をあげた。


「お母さま、かわいい!」

「あ、ありがと」


 マルーシャは少し照れる。タックを寄せ、ゆとりのある胸。編み上げ紐で締めたウエスト。腰からふわりと広がるスカート。体の線が、というさっきの考えを意識してダニールを見られなくなった。


「ねえ、ヒラヒラは?」

「ミュシ……!」


 ミュシカのふくふくほっぺを両手で押さえた。それは言わなくていいの。


「似合ってる」


 揺れるスカートの話だとでも思ったのか、ダニールが言ってくれる。落ち着かずにいたらラリサが大げさに驚いてみせた。


「ダニールが女性の服装をほめた、ですって……大雨が降るわ」

「もう降ってるだろう」


 雷まで鳴っている。

 ダニールはしかめ面をすると、自分も着替えに部屋に入っていった。声を抑えて笑いながらラリサはマルーシャを上から下まで検分した。


「まあでも、似合う。ゴテゴテしない方がマルーシャの良さが出るのね。かわいいんだから、自信持ちなさいよ」

「かわいいなんて、近所のおじいちゃんおばあちゃんにしか言われたことないもの」


 マルーシャの訴えにとうとうラリサは声を上げて笑った。それは確かに信用できない評価だ。子どもの誰にでも言うものだし。

 でもダニールからするとマルーシャはただ一人の女性。ラリサはひょいとマルーシャの胴をさわった。


「この細さねえ。ダニールはグッとくるでしょうけど、ちゃんと食べてる?」

「た、食べてはいるわよ」


 その前のグッとうんぬんはどういう意味だ。マルーシャはどぎまぎしながら言い訳した。


「だけど無駄づかいできないし。文句はうちのお父さんに言って」

「ほんとに倹約家の主婦よね、マルーシャって」


 ため息をつかれたが仕方ない。事実そうなのだから。


「旅の間に少し肉をつけたいわ。とくに胸と腰」

「ラリサ、俺の前でそういう話はすんな。ダニールに殺される」


 さすがにイグナートが口をはさんだ。一歩下がって聞いていたのだが、身の危険につながりそうな気がする。それを笑い飛ばしてラリサはマルーシャの腕を引いた。


「さあそれじゃ、お食事に行きましょう。マルーシャを育てなきゃ」

「わたしも、おおきくなりたーい!」


 反対の腕にはミュシカがぶらさがる。少女が成長するのは喜ばしいことだが、自分の場合は家畜を肥らせる方に近いのではなかろうか。



 食堂でダニールも合流し夕食にした。昼間はパンとチーズで簡単に済ませているので温かいスープが嬉しい。胃にしみていく。

 あまり食べつけない煮込まれた肉をゆっくり噛んでいると、ガツガツ食べていたイグナートがふと手をとめた。


「うーん、食が細いのはその通りかもな。ダニール、これからはしっかり食べさせろよ」

「え? ああ、うん」


 いきなり言われて不審な顔になっている。

 このままでは同行者全員から餌付けされるかも。マルーシャは危機を感じた。今はいいが、朝や昼にあまり食べては馬車に酔ってしまいそうだ。


「ちゃんと食べてますよ。イグナートさんが早いだけです」

「……ねえ、なんで俺にだけ丁寧語なの?」


 悲しげに言われてマルーシャは困ってしまった。突然の問いだが、実は前から思っていたらしい。


「でも……年上の男性に、そんな」

「ダニールもそうじゃん」

「僕は夫だろ」

「ええー。じゃあラリサだって年上だしさあ」

「私は女同士のアレコレがあるの」

「なんだよそれ」


 ぶすっとするイグナートを横目で見て、ダニールは考えてみた。マルーシャから気安く接してもらうイグナート。


「……このままで、いいと思うよ」


 小声だが断固として言ってみたらマルーシャはホッとした笑顔になったが、ラリサは意味深にニヤリとした。


「お食事中、失礼します」


 横から遠慮がちな声がして、会話が中断する。でなきゃラリサがからかっていたことだろう。ダニールにとっては幸いだった。


「あ、パン屋さん」


 顔を見てマルーシャが気づく。先ほどのパン屋の店主だ。


「さっきはお礼も申し上げず失礼を。おかげさまで薪も確保できました」

「それはよかったです」

「ここにウチのパンを卸してるんで。明日の朝のパンは奥さまのおかげですよ」


 それは濡れながら走った甲斐があった。ちょっと恥ずかしい思いはしたけれど。

 ほがらかな笑顔でパン屋は帰っていった。マルーシャはダニールに視線を向けてにっこりする。ダニールもうなずき返してくれた。


 夕食のパンはとてもおいしい。マルーシャはなんだか幸せな気分だった。


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