6 変わり者と言われても
はしゃぎ疲れて眠たげなミュシカを抱き、ダニールが宿に戻ったのは暗くなってからだった。
もう遅くて危ないとマルーシャが心配してくれたのも嬉しい。この人が自分の妻になると思うと、向けられる気持ちの何もかもが特別に感じられた。
ダニールはとても幸せな気分で帰ってきたのだ。だが。
「――いや、それで結婚を決めるって、あり得ないぞ?」
事情を聞いたイグナート・クレヴァはあきれ果てた。護衛兼馭者として随行してきたイグナートは、ダニールの友人でもある。
「おまえは侯爵閣下の孫娘を迎えに来たんだ。学者として春告げ姫の資質を見きわめるのを含めても、ただの使者だろ。何ひと目惚れして口説いてんだよ」
「口説いた、のかな……」
ダニールは首をひねる。やはりおかしかっただろうか。
好ましいと感じてしまうのは仕方のないことだ。そしてマルーシャもまた、そう思ってくれたのは奇跡的だと思う。そんな僥倖、つかまえなくてどうする。
「だけどダニールが女性に興味を持つなんてすごいことよ? それは逃すわけにいかないわね」
ミュシカの世話役で同行するラリサが振り向いた。うつらうつらするミュシカを着替えさせ寝台に押し込む間、話は背中で聞いていた。
ラリサはイグナートの妻。夫と同じくダニールと親しい。三人とも年齢はあまり変わらないのに、研究ばかりで浮いた話のないダニールをいつも心配していたのだった。
「別にいいじゃない。あちらの父親公認なら」
「えええ。にしても今日の今日ってさ」
「情熱的ねえ」
ラリサはクスクス笑う。まさかダニールがそんな羽目の外し方をするなんて思わなかった。少々世間とズレたところがあるが、堅物の部類だと思っていたのに。
「なんて言って求婚したの? 教えなさいな」
「こいつがまともに求婚なんかするか? どうせその親父さんに押しきられてうなずいただけだろ」
「失礼だな」
ダニールは眉を険しくした。確かにマルーシャの方から口火はきったが、モゴモゴ言わせていてはいけないと頑張ったのはダニールだ。
「嫌じゃなければ結婚してみよう、とちゃんと言ったぞ」
「……ちゃんと?」
イグナートとラリサは顔を見合わせた。ラリサの頬がひきつる。
「結婚してみよう、なの? 嫌じゃなければ?」
「ああ――今日会ったばかりで結婚の申し込みなんて礼を失するからな。試しにどうかと言ってみた」
ダニールは大真面目だ。それを見てイグナートは頭を抱えた。
「試しにって……そりゃないよ」
なんだその離婚の可能性をはらんだ求婚は。その方がよほど礼儀にかなっていない。だがダニールは微笑んで言いきった。
「試すのはマルーシャだよ。僕がやめたくなるとは思えないから」
そりゃお熱いことで。
イグナートは脱力し、腹を決めた友人を眺めた。女に免疫のない男がハマるとこうなるのか。しかし浮世離れしすぎていて、イロイロ理解できているのかあやしい。
「あのな、女性が傷ものにされたら、やっぱりやめたとか言えないぞ」
「……そんなこと」
ダニールは口ごもってラリサを見た。友人とはいえ女性の前で、あけすけな話は困る。
ラリサもさすがにそれは思ったらしい、しかめ面でイグナートの頭をペチンとはたくと部屋を出ていった。隣に随行員夫婦の部屋も取ってあるのだ。
男二人になっても言いにくそうにして、ダニールは小声だった。
「マルーシャが納得するまで不埒なことはしないよ」
「ほほう、据え膳食わずに我慢すると」
イグナートはニヤニヤが止まらなくなる。それは見ものだ。悶々とするさまを旅の間、楽しませてもらおう。
「納得ってどうやって確認するんだよ。抱いてほしいわ、て言わせるのか」
「おい!」
怒気のこもったダニールの声に笑いで応えてイグナートは退散した。取り残されたダニールは――途方に暮れた。
そうか。そんな問題もあるな。
夫婦というものをふんわり考えていたが、生々しいものも含んでいるのだった。恋愛を始めたばかりのダニールとマルーシャはどうするべきだろう。
ゆっくり恋を進めるか、あるいは情熱にまかせるか。
「そういう研究はしたことがない……」
学者肌のダニールだが男女関係は未習分野だった。
イグナートはダニールを放置してさっさと自室に引っ込んだ。そして待っていた妻ラリサに尋ねてみる。
「試しに結婚しよう、て言われたら、おまえはどう?」
ラリサはしばし考えた。イグナートから求婚された時のことを思い出し――結婚してくれと言いきってもらえてよかったと、確信する。
「……とりあえず、ひっぱたくかな」
「だよなあ」
ため息をついてイグナートはラリサを抱きよせた。
そんなセリフに同意した侯爵閣下の孫娘。どんな女性なのだろうか。
* * *
次の日、ダニールはクリフトの時計工房を再訪した。ミュシカとイグナート、ラリサも伴ってだった。
イグナートたちは随行員夫婦としてマルーシャと顔を合わせ、ファロニアまでの旅の打ち合わせをしなくてはならない。だがダニールの相手に興味津々、というのが本音だ。
「お母さま、おはよう!」
「んー、おはようミュシカ」
戸を開けて駆け込んだミュシカをむぎゅ、と抱き、頬ずりしてマルーシャは迎えた。
かわいいものは、かわいがりたい。
ダニールが養育中ならばもう義理の娘のようなものだし、そうでなくても親族なのだし、遠慮はいらないだろう。
「うわあ、なついてるね」
イグナートがやや引き気味につぶやいた。昨日の今日でこれか。だがラリサの方は好意的だった。
「子どもは好き嫌いをすぐに見分けるの」
ラリサも三児の母なのでわかる。子どもに好かれる人間に悪人はいない。
ミュシカはひと目でマルーシャを大好きになったのだ。そしてマルーシャもそんなミュシカを受け入れている。マルーシャの心はやわらかく開かれているのだろう。何者に対しても垣根を作らないのがマルーシャの性分だし、町のみんなから愛される理由だった。
「おはようマルーシャ」
「……おはよう、ダニール」
ミュシカに先を越されたダニールが言い、マルーシャははにかんで応えた。朝の挨拶をするのは初めてだ。夫婦っぽくて、なんだか照れくさい。
「おーう、来たかダニールくん。こっちは同行のお二人だね、道中マルーシャを頼むよ」
照れている場合じゃなかった。ダニールはイグナートたちを紹介する。
「護衛と馭者をお願いしているイグナート・クレヴァ。こちらは奥方のラリサです。ミュシカのお世話をしてくれています。二人とも十年来の友人で」
「お初にお目にかかります」
これが春告げ姫の後継者を奪い去った人間か、とイグナートは慇懃に頭を下げた。それをクリフトは飄々と笑い飛ばす。
「堅苦しいのはナシな。ダニールくんの友だちなら気楽に気楽に」
「は」
「なあ、ダニールくんて変わってるよな。けしかけたら本当に結婚を申し込むんだから」
「ちょっとお父さん!?」
そう条件をつけたのは自分のくせに、何をしれっと。でもクリフトは知らんぷりする。
「そんなのを受けちゃうウチの娘も相当だからね。大変かもしれないけど、よろしく」
「クリフトさん、僕が変わってるのはその通りですが、マルーシャは柔軟性に富むというべきでは」
「わははは」
ダニールのふんわりした屁理屈にクリフトは笑いこけた。勝手なことばかりの父親に、マルーシャはチクリと釘を刺す。
「私のことよろしくしてる場合なの? 問題なのはお父さんの方でしょ。私がいない間、一人でどうするのよ」
変わり者な上に生活力皆無なクリフトは、娘の攻撃に肩をすくめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます