7 ふたりでお出かけ
マルーシャはまだ、ファロニア訪問後にどこでどう暮らすのか決めていない。結婚そのものが「お試し」だし、春告げ姫になるのかどうかもわからなかった。
なので旅行に出ても一度はこの家に帰ってくると思う。でもまず、その間のクリフトが不安なのだ。
「僕の生活なら、なんとかするさ。大人だからね」
クリフトは知らん顔で意地悪を言った。
「おしめを替えた子にそんな心配されるなんてなあ」
「今おしめは関係ないでしょ!?」
マルーシャは真っ赤になった。なんでダニールの前でそんなこと。誰にだって赤ちゃん時代はあるものなのに。
「ほう、クリフトさんはちゃんと子育てをしたんですね」
素でダニールが感心し、大人全員が振り向いた。そういうことじゃない。マルーシャは咳ばらいした。
「ご飯はどうするの。洗濯は? 掃除は? お仕事があったら、ちゃんと注文通りにできるの?」
「うるさいなあ。食事なんて食堂でも酒場でも行くし、洗濯屋だって頼める。ちょっと掃除しなくたって死なないのは経験済みだ」
「仕事は?」
ベラベラと言い返したクリフトの痛いところをマルーシャは突っ込む。一番信用できないのはそこだ。
「……ちゃんとやるよ」
「私の目を盗んでからくりを仕込むような人の言うこと、信じられません」
父親が妙な企みをしないようにちょこちょこ仕事場は確認していた。なのに猫時計は上手く隠されていたらしく、見逃してしまったのだ。悔しい。
「わたし、おじさまのとけい、すきだけど」
ミュシカが首をかしげた。何故クリフトが叱られているのかわからないのだろう。ミュシカは猫が飛び出すのも音が鳴るのも大笑いして見ていたのだ。
「おおミュシカぁ、いい子だなあ」
クリフトが嬉々としてミュシカの前にしゃがむ。子どもを味方につけようとして大人げない。
「猫ちゃん、気にいったか? ミュシカにも作ってやろうか」
「あ、それだ」
不意にダニールが賛成した。そして提案する。
「ミュシカにからくりを作ってやって下さい。そのかわり、他の注文には余計な工夫はしないこと。それでどうです」
「お? お、おう……」
「ミュシカになら時計じゃなく、オルゴールもいいですね」
ダニールは一人ごちてフム、と考え始める。
「え、そんな。お父さんじゃ変な仕掛けをつけるかも」
「こら! おまえにだって、おもちゃ作ってやったろ? 忘れたのか」
「覚えてるわよ! 飛び出すカエルで泣いたんだから!」
言い合う父娘にダニールは顔を上げた。
「泣かされたのかマルーシャ。そういう物は困るな」
子どもの頃の話なのに真剣に眉をひそめ、その頬に指を伸ばしかける。そこで今のマルーシャには涙がないことに気づいたのか手が止まった。
無表情に目をそらしたのは照れ隠しだ、とマルーシャにもわかった。ダニールは知らんぷりで淡々と、どんな物が欲しいかミュシカから聞き取りを始める。イグナートがこそっとマルーシャにささやいた。
「こいつ仕事の受け答えとか社交辞令とかはこなせるけど、普段の会話はおかしいんだ」
「あはは……」
なるほど。やはり妖精族全体が変わっているわけではなくダニール個人の問題なのか。
マルーシャが町で出会った時は、なんて紳士なのだろうと思った。妖精族のことを説明する時も、借金の件でかばってくれた時もテキパキしていた。
でもマルーシャと男女として向き合うと、とたんに妙なことになる。口ごもり、よくわからない事を面白がって笑いこけ、あげく試しに結婚してみよう、ときた。
「たぶん経験値がないんだよ。基本的に研究ばかりだったんで世間知らずなだけ。これから育ててやって」
「はい……」
「あ、俺たち夫婦とも仲良くしてくれると嬉しい」
「もちろんです。よろしくお願いします」
イグナートとラリサ、そしてマルーシャ。なごやかな三人の間にダニールが割り込む。
「僕の悪口を言ってなかったか」
何故かとても不満げなダニールにマルーシャは吹き出した。大人だと感じていたのに、いろいろな顔が見えてくるのが嬉しい。
「悪口じゃないですよ」
「――マルーシャ、しゃべり方」
ダニールが真面目に注意した。もっとくだけて話そう、という件だ。
「あ、うん。だって慣れないんだもの。だんだんね」
恥ずかしそうにするマルーシャとそれを優しく見つめるダニールの空気感が、隣にいるとたまらない。
「なんか……おまえでもこうなるんだねえ」
イグナートとラリサはしみじみしながらも、一歩下がった。
* * *
簡単な旅程の確認の後、マルーシャとダニールは町に出た。
「僕はベルドニッツが初めてなんだ。カバン屋の心あたりは?」
「もちろん」
お出かけはマルーシャの旅行カバンを手に入れるためだ。マルーシャは旅に出たことなどないから、当然そんな物は持っていない。
いちおう父クリフトのを引っ張り出してみた。するとボロボロな上、中にネジやバネが転がっている。どういうことだ。
母アレーシャの物もあった。結婚の時に持ってきたのだろう、きれいに保管されている。だけど使うのは、と二の足を踏んだ。
クリフトが目を細めて、そのカバンを眺めたから。昔を想っていたのかもしれない。なのでダニールは申し出た。
「こちらのわがままに付き合わせるのだから、僕にマルーシャのカバンを買わせてくれないかな」
そんなわけでベルドニッツの中心部へとお出かけなのだった。
歩き出すとダニールが思いついたように左腕を差し出した。外を歩くならエスコートするべきかと気づいたのは偉い。マルーシャはおずおずと手を添えた。
二人きりになったのは初めてだった。ミュシカはクリフトとからくりの打ち合わせをするので置いてきている。
これ、もしやデートなのでは。マルーシャの鼓動はいつもより少し速い。
「こじんまりと落ち着いた、いい町だ」
ダニールはのんびり辺りを見渡して、そうベルドニッツを評した。
大きな商店の並ぶ中央通りには街路樹も植えられていた。石造りの建物と木の葉の対比が美しく、マルーシャのお気に入り。生まれ育った町をダニールにほめてもらえるのは、なんだか嬉しい。
「ダニールは、旅に慣れているの?」
「まあ、そこそこに」
訊きたいこと、知りたいことはお互いに山ほどある。まだ何もわからないに等しい相手だった。
「各国に残る妖精の伝承を調べに歩いたからね。そうすると各地にとけこんで暮らした妖精族の痕跡が見えてくるんだよ」
「ふーん」
母アレーシャのように、結婚や仕事やいろいろな理由で移り住んだ妖精たちがいたのだった。そこで彼らの生きた気配は、ながく消えない。
「マルーシャもおまじないを歌っていただろう?」
そういう妖精族が遺した何かしらを探す。とても興味深い旅だった、とダニールは遠くの空を見た。
うらやましいな、とマルーシャは隣を見上げた。この人は私よりたくさんの事を知っているんだ。
「ねえ、今度あの歌の意味を教えて。古い言葉だ、てお母さんは言ってたけど、教えてもらう前に死んじゃったから」
ダニールにつかまる手に、きゅっと力が入った。
気づいたダニールが一瞬ためらう。だがすぐに、マルーシャの手に自分の右手を重ねてくれた。あたたかい。
「もちろん。僕は、おまじないの専門家でもあるんだよ」
なに、そのかわいらしい専門家。
マルーシャは小さく笑って礼を言おうとしたのだ。でもその時、女性の声が響いた。
「ユーリィ! ユーリィ、どこ?」
すぐそこの角から走り出てきてキョロキョロとする女性の手には、小さな靴が片方ぶらさがっていた。
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