8 幸せな旅立ち
泣きそうになりながら息子を探しているその女性をマルーシャは知っていた。一本裏の通りにある木工屋の嫁ノンナだ。ユーリィはまだ二歳かそこらの男の子だったはず。
ダニールにつかまる腕をとき、マルーシャは自然にそちらに駆け寄っていた。
「どうしたのノンナ? ユーリィがいなくなったの?」
「ああマルーシャ! そうなの、うちの前にいたはずなのに」
ノンナは震えながら、手にある片方だけの靴を示した。
「落ちてたの。ユーリィの靴よ。歩いてどこかに行ったんじゃないのかも」
――連れ去りか。
道理でノンナが青ざめるわけだ。マルーシャの胸もズキンとする。小さな男の子が姿を消すだなんて。
事件かもしれない、と周囲もざわつく。その中でダニールは落ち着いてマルーシャの脇に立った。
「それは、いなくなった子の靴ですね?」
見たことのない男から尋ねられ、ノンナは警戒する顔になった。マルーシャが慌てて口をはさむ。
「あやしい人じゃないの、ダニールは――」
「マルーシャの夫です」
平然と言われてマルーシャは二の句が継げなくなった。照れる。ノンナもぽかんとしているのは、この辺にはまだ噂が回っていなかったということか。
「え……あ、そうなの? いつの間に」
「それはともかく、靴を見せていただいても?」
「どうするの、ダニール?」
ノンナの手から靴を取ったダニールは、マルーシャを見て微笑んだ。そしてほんの小声で唱える。
「
ふわ、と何かを感じたような気がした。
マルーシャの視線がその何かを追う。ダニールは靴をノンナに返してうなずいた。
「僕らもユーリィくんのこと、気にかけておきます。早く見つかるといいですね」
「は、はい。お願いします」
なんだったんだろうかと首をひねるノンナに背を向け、ダニールは歩き出した。
「追うよ」
小声で言うと目を細め、飛ばしたおまじないをたどろうとする。マルーシャは並びながら同じように試みた。
「ダニール、今の」
「――専門家だって言ったろう」
ふ、とダニールは小さく笑う。彼にとっては簡単なおまじないだ。直前まで身につけていた物と、持ち主をつなぐだけ。
「おまじない、なの? ユーリィは見つかる?」
「ああ」
ダニールは短く答えた。たどり着くことはできるはずだ。だが無事かどうかは保証できない。やや早足の意味はマルーシャにもわかった。
「長く目を離すはずはないの。そんなに遠くじゃないと思う」
「そうだね。きっと大丈夫だ」
不安げなマルーシャをダニールははげました。
マルーシャもおまじないを感じるのか。ダニールは確信を深めた。
やはりマルーシャは春告げの姫なのだろう。半分は人の血すじなのにもかかわらず、このささやかなおまじないをやすやすと追っていくなんて。強い力を宿しているのだ。
「あ」
ト、と感触があった。それがなんなのかわからないマルーシャは、不安げにダニールを見る。
「大丈夫、近いよ。おまじないがユーリィにたどり着いた」
「この辺りにいる?」
町から出ようとする道だった。まだ普通に建物が並び、住人が立ち話をし、馬車も行きかっている。
マルーシャは景色を見つめた。おまじないの跡が視界に浮かぶような気がした。
「あ! あれ!」
弾かれたように駆け出す先には馬車がいた。ガタゴトと進むのは、町外れの川にある粉ひき小屋の馬車。荷台に小麦の袋を積んでいる。そのすき間にチラリと茶色い頭が見えた。
「待って! 停まって! 荷台に子どもが乗ってるの!」
全力で追いかけて叫ぶマルーシャにダニールは慌てた。相手が人さらいなら、馬にムチを入れて逃げてしまう。そうなれば馬の気をそらすか――ダニールは身がまえたが、馬車は停まった。
「なんだあ、俺のことか?」
「そうよ、おじさん。荷台を見て」
「ああ? ありゃあ、この子は!」
粉ひき人夫はパン屋に小麦粉を届け、明日の分の小麦を受け取っていたのだ。
そのすきに、はす向かいの家のユーリィが荷台によじ登り隠れた。ただの思いつきだろう。靴が片方ぬげたのも、登る時にぶんぶん足を振ったせい。
そうして隠れんぼに成功したユーリィは満足したらしい。馬車に揺られてウトウトと、お昼寝を決め込んでいた。
「もう、ユーリィったら。お母さんが心配してるのに」
子どものいたずらだったことで安心して、マルーシャはユーリィを抱き上げた。馬車を戻してもらうのは申し訳ない。自分で送り届けるつもりだ。
「あ、僕が」
「だーめ。ダニールの服が粉だらけになるわよ」
「マルーシャだって汚れるだろう」
ダニールは大真面目に言い、眠る男の子をそっと奪い取った。今日の茶色い上着に小麦粉が散る。仕立ての良い服が台無しでマルーシャは頭を抱えたくなった。
だがダニールは、白い粉にまみれた自分たちに気づき楽しそうだ。声を立てて笑うとユーリィを起こしてしまうので我慢しているが、なにやら上機嫌。
変な人、とマルーシャは苦笑したけれど、ダニールが嬉しいのならマルーシャも嬉しい。まあいいか。
その後なんとかカバンを調達して帰ったらイグナートとラリサに叱られた。いい大人が小麦粉かぶって笑ってんじゃねえ、だそうだ。
とんだ初デートだった。
* * *
そして次の日、マルーシャは旅立つことにした。
出立を引き延ばしても意味はない。出会って三日だろうが十日だろうが、結婚するには早すぎる点で変わらない。
ならば、やってみればいい。
「式は挙げなくていいんでしょうか」
花嫁の父クリフトに、ダニールはこそっと確認した。だけど笑い飛ばされる。
「妖精族が人の国の神さまを信仰してるのかい?」
「形だけの式では失礼ですか?」
「神さまには失礼かもなあ。誓いたければ、空にでも風にでもいいだろう。その時からもう、君とマルーシャは夫婦だ」
言いきったクリフトは、アレーシャとそうしたのかもしれない。
「急かすようで悪かった。だけどマルーシャはいい
「……そうですね」
「だから、わけがわからん内に追い出してやりたくてね」
クリフトはさっぱりした顔で笑った。肩の荷がおりたようだ。
妻アレーシャは最期まで娘を案じていた。妖精の血を明らかに継いでいると思うのに、自分には娘にその生き方を伝える時間が残されていないから。
「ファロニアから接触があって、ホッとしたんだ。妖精の世界は僕にはわからないことが多すぎる。君が、教えてやってくれ」
真っ直ぐに言われてダニールはうなずいた。
「はい」
大切に育ててきた娘を、受け取る。それはとても重く、とても幸せだ。
絶対にマルーシャを守ろうとダニールは思った。そのためにまずは、「お試し」で断られないようにマルーシャから愛されなくてはならない。
とんと自信はないけれど自分なりに努力する、とダニールは心に決めた。
「じゃあお父さん、行くね」
「おう、離縁されてくるんじゃないぞ」
軽口を応酬しながら、マルーシャは育った家の戸口に立った。
「僕はそんなこと、しませんよ」
ダニールが隣で柔らかい視線をマルーシャに送る。そんな仕草にはまだまだ慣れなくて胸が高鳴るけれど、マルーシャは幸せな笑みを浮かべた。
だって真実、幸せだ。
「行ってきます!」
マルーシャは外へと足を踏み出した。新婚旅行に出発だ。
それは妖精の国へ、見知らぬ世界への道行きだった。何があるかはわからない。
――だけどダニールとなら、きっと楽しい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます