15 野原に探したものは
馬車の中でマルーシャは口ずさんで聴かせた。母アレーシャから教えられたおまじない。その春の歌。
マルーシャにはこの言葉の意味はまだわかっていなかった。でも第三節、春を呼ぶというところは小さくつぶやく。うっかり今の秋に影響を及ぼさないように。もうマルーシャも妖精の力をふるうことができるのだ。
「正しく伝えているね」
ダニールはうなずいた。小声でもマルーシャから伝わるかすかな力に研究者としての興味をそそられる。だがまるい響きの歌声が心地よいのは、たんに歌い手がマルーシャだからだろう。
「じゃなくて。意味を教えてってば」
「そうだった。でも力はこもっているよ。やっぱりマルーシャは春告げの姫だな」
満足げなダニールは、マルーシャの抗議も嬉しそうだった。
この人は、もう。
マルーシャには具体的なダニールの研究などわからない。それでも披露した歌が気に入ったのは伝わった。
好きなものは好き。それが隠せない。まるで子どものような人だと思う。
だからマルーシャに向ける好意も、そのまま信じていいのだろう。ううん、疑ったことなどない。あまりに率直に愛おしげな視線を向けられるせいでドキドキがとまらなくて困る。
「おーい、そろそろ休憩するぞ」
馭者台との間の窓を開けイグナートが声をかけた。
「もうそんなか」
「ああ。村があるから、その端っこで休もう」
小さく歌っていたのは外にも聴こえていた。少し雰囲気がやわらいだところで昼ご飯になってよかった。
ギクシャクしながら食べてもおいしくないし、とイグナートは胸をなでおろした。
馬車を停めたのはタタという村に入る手前だった。
薄曇りの空の下、広がるのは刈り取られた小麦の畑。秋の種まきのために耕されているところもある。手前は野原で、ここに家畜を放しておくのだろう。ぐるりと柵が見えた。
「――気持ちいい!」
野原に敷いた布が風にはためきそうなのを座って押さえた。そんなことも嬉しくてマルーシャは笑う。その隣にダニールは腰をおろした。昨日より近く詰めてみたのは、ダニールなりの努力だ。
「楽しそうだな」
「うん。景色が広くて好き――お母さんはどうして町に住んだのかなあ」
「……クリフトさんの仕事は町の中のものだから」
草木と風と。
妖精の力につながるそれらが遠い場所で暮らすのは寂しかっただろうに。
「ファロニアの街はどんな?」
「……街路樹が多いな。石の家だけじゃなく木の柱に土壁の家もあるよ。窓辺に花の鉢を並べることも多い」
「素敵ね」
想像しようとしてマルーシャはあきらめた。どうせ何日かしたら見ることができる。楽しみにしておけばいい。
「ねえ、わたしもうたっていい?」
軽い昼食を食べてしまうとマルーシャの膝に甘えてミュシカがねだった。春の歌を聴いて、自分もやりたくなったのか。
でもミュシカは歌うと嬉しくなって、力をいっぱいに解放しかねない。ダニールは苦笑いで禁じた。
「やめなさい。この村に冬が来るぞ」
「えー。つまんなぁい」
「私には、冬を招く時に聴かせてね」
なだめるマルーシャの言葉で、ダニールの心臓が力強く打った。
それは、冬になっても共にいてくれるということ。さっきはおまじないを教えてとも言われたし、大丈夫、マルーシャは好意的だ。ダニールは自分をはげました。
「冬の第三節は、こういうんだ」
歌わずに小声で教えるダニールに、マルーシャは感心したような視線を返した。
「冬は厳しいけど、優しい季節なのね」
「そうよ。わたし、ふゆ好き!」
マルーシャに褒められて嬉しいのだろう、ミュシカはケロッと機嫌を直す。
「お母さま、あそぼ!」
「はいはい、待って!」
ぴょんと起き上がって走り出すミュシカと追いかけるマルーシャ。見送ってラリサが笑った。
「子どもって、場をつなぐのに便利よね」
「う……」
ダニールは言葉が返せない。今日はミュシカが空気をなごませてくれて大いに助かっていた。気まずく感じているのはダニールだけかもしれないが、マルーシャにどう接すればいいのか迷っているのは本当だ。
「マルーシャちゃん素直っぽいし。雰囲気で押し流せばいけるだろ」
「あなたねえ」
夫の暴論をラリサが叱る。
「そういうことじゃなくて。流して既成事実だけ作っても次の日からどうするの」
「あー、もっといたたまれねえか」
「マルーシャはまだ純情なんですからね」
「……おまえは昔から強かったよな」
「なんですって?」
勝手な議論を始める友人たちを尻目にダニールがザッと立ち上がった。早足でマルーシャたちを追う。そちらに一人の少年が歩いてきたからだ。
野原から出てきたその少年に、ミュシカがトト、と駆け寄った。
「おにいちゃん、げんきないの?」
少年は立ちどまった。村に戻ろうとしたら見知らぬ女の子にいきなり首をかしげられた形だ。返事もせずににらみ返す。
「ミュシカやめて。あの、ごめんなさいね、突然」
マルーシャは一礼してぶしつけを詫びた。でも確かに少年は元気がない。こわばった顔は、悲しみを押し隠しているように見えた。
「どうしたマルーシャ」
「あ……なんでもないの」
駆けつけたダニールが家族二人をかばうようにする。それを見た少年は顔をゆがめた。馬車をチラリとしてぶっきらぼうに言い捨てる。
「旅行者だろ。さっさと行けよ。もうすぐ弔いの鐘が鳴る」
マルーシャは少年を見つめた。弔いに遭遇するのはあまり縁起は良くないが、忌避すべきほどでもない。
「……ご家族がお亡くなりになったの? 御愁傷さまです」
かたくなな表情はきっと、そういうことなのだろうと思った。誰かの死を受けとめきれずにいるのだと。
マルーシャが頭を下げると、少年の瞳が揺れた。
「俺の家族じゃ――姉さんの旦那だ」
「ああ……」
ポツリと言われてマルーシャは息をのんだ。少年がダニールに反応したわけがわかった。妻と娘を気づかう夫という姿が義兄を思わせたのだろう。
「ならまだ、若かったでしょうに……」
「おはな、どうぞしなきゃ」
ミュシカが唐突に言った。え、と見下ろすと、訴える目が真剣だ。
「さよならのおはな、どうぞってしたよ」
「あ、ご近所のおばあさんの時、花を手向けに行ったな」
ダニールが記憶をたどって説明する。母娘のように振る舞っていてもマルーシャとミュシカの付き合いは数日しかなかった。
「花なんて、咲いてないよ!」
少年は不意にきつい声になって言うと、走り出して行ってしまった。
見送って、マルーシャは合点した。あの少年はたぶん花を探して野原に行ったのだ。義兄に手向けたくて。あるいは姉にそうさせてあげるために。
「花が見つからなかったのね……」
「そうなのかい?」
ダニールが不思議そうにする。こんな状況だがつい吹き出してしまった。見ればわかりそうなものだけど、本当に鈍感だ。
「絶対そうよ」
断言してみせると、ダニールはうなずきながら言った。
「じゃあ咲かせよう。マルーシャ、もう一度やってごらん」
「え」
どうしてそうなるの。
昨日は土を吹き飛ばして終わった挑戦に尻込みするマルーシャを、ダニールはニコニコと見つめる。
この人に悪気などまったくない。純粋におまじないを伝授したがっているだけなのだった。
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