14 この人となら
早朝、コンコンと部屋の扉を叩く音でラリサは目覚めた。隣ではイグナートがもう身を起こしている。
「ラリサ……起きてる?」
聞こえたささやきはマルーシャだった。困った声色に二人は顔を見合わせる。
「……起きてるわ。どうしたの」
ラリサはサッと立って扉に歩きながら訊いた。
昨夜はダニールとどうなったのか。朝っぱらから泣きついて来るような何かがあったのだろうか。
小さく扉を開けて見ると、マルーシャはひとまず元気そうだ。ホッとする。
「あのねラリサ……寝台を汚してしまったのだけど、どうすればいい? 洗濯とか自分でするのかな」
マルーシャはモジモジと小声で言った。宿に泊まるのも初めてなので対処の仕方がわからない。
だがその「寝台を汚した」という言葉にラリサは驚いた。嘘でしょ、おめでたい。イグナートも室内でこっそり拳を握る。そんな甲斐性がダニールにあったとは。
「えっと、ダニールに訊けば?」
旅に慣れているはずのダニールは新妻を困らせて何をしているのだろう。
「目がさめたら、部屋にいなかったの」
「はあ?」
ラリサは目を剥いた。
初夜明けに小鳥の声をともに聞くぐらいの配慮ができないのか。情緒がない男だ。
後でチクリと言ってやろうと思ったら、マルーシャは弱々しく笑った。
「でもいいのよ、ダニールにはおねしょを秘密にしたいんですって。ちょうどいいから戻る前になんとかできないかと」
「おねしょ?」
――話がおかしくなった。
「ミュシカったら、おしっこ、て思って起きたのに私がぐっすり寝てて遠慮しちゃったみたいなの。駄目ねえ、こんなんじゃ。もっとお母さんらしくならないと」
肩をすくめて反省しきりのマルーシャに、ラリサとイグナートはがっくりとうなだれた。
* * *
初めての旅と買い物で疲れきっていたマルーシャは泥のように眠りこんだらしい。
規則正しい寝息をたてはじめたミュシカはあたたかく、その向こうでダニールが優しく微笑んで頭をなでてくれた。そこで緊張の糸が切れた。
気がつくと、ベソをかいたミュシカが寝台に起き上がっていたのだ。もう朝だった。
ダニールはすやすや眠るマルーシャを起こすに起こせなかった。
疲れたのだろうと想像できるし、寝かせてやりたいと思う。起こして無理やりどうこうという気にはならなかった。
だけど寝顔をながめていれば、モヤモヤはする。
手をふれたい、と思った。
頬に。くちびるに。髪に。
口づけたくてたまらない。
もう駄目だと、一人用の寝台に移った。壁を向いて布団をかぶったが、背後に二人分の寝息がある。マルーシャの方の吐息を耳でたどってしまい、ろくに眠れなかった。
そんなわけで、薄明のうちに散歩に出たのだ。ちなみに扉には鍵をかけ、さらに外からだと開かないおまじないを仕掛けておいた。
「才能の無駄づかい……」
部屋に戻ろうとしたダニールをつかまえて自室に引き込んだイグナートは、成りゆきを聞いてうめいた。
「無駄じゃないだろう。マルーシャとミュシカの安全は確保しないと」
「うん、そうなんだけどな。俺の気分だよ、気分」
イグナートはやけっぱちで吐き捨てた。
「おまえの才能はさあ、もうちょっと世俗のことにも振り分けられてしかるべきだと俺は思うんだ」
新妻ひとり、ろくに思うようにできない不器用な友人がしみじみ不憫だ。年の差はずいぶんあるのに、それをまったく感じさせない対等な恋愛。
「いや、僕はそれなりに幸せだぞ」
あわれみの視線を受け、ダニールはなんとか抗議した。
少し遅めの結婚ではあるが、あんなにかわいい妻を迎えられたのだ。まだ出会って間もないし、口づけひとつできていなくても問題ないと思う。
「手出しできなくて逃げたやつが言っても説得力ねえよ」
妻子持ちの友人は容赦ない。朝から心を叩きのめされて、ダニールは隣室の方をうかがった。
おねしょの始末をしているというマルーシャはよく眠ったらしい。だが、起きたら消えていた夫のことをどう思っただろう。
* * *
一行は宿を引き払い、ラーツの町を出た。中心となるマルーシャとダニールの関係が停滞していても旅程は進めないわけにいかない。
その二人は馬車に押し込まれていた。ミュシカはいるが、つまり当人同士でなんとかしろということだ。イグナートとラリサは馭者台に避難する。付き合っていられない。
「ダニール、いつも早起きなの?」
向かい合い、マルーシャは恥ずかしそうに尋ねた。
あの気まずさの中、寝こけた自分が信じられない。いちおう初夜なのを無視されてダニールは怒っただろうかと心配だった。
「いや、たまたま早く目が覚めただけだよ」
照れくさそうな微笑みは優しい。でもダニールは外づらがしっかりしている。怒りを隠すぐらいのことはできるのでは。
「お父さま、いつもはやおき」
「そりゃミュシカよりはな」
ミュシカに告げ口されて頭をなでてやっている。その表情は本当に穏やかで、マルーシャは少し安心した。
ダニールの方も、疲れて眠るマルーシャに対して悶々としていたことに罪悪感しかないのだった。おずおずとでもマルーシャが話しかけてくれてホッとしている。ここはミュシカをダシに会話を続けよう。
「ミュシカはたくさん眠りなさい。大きくなるためにね」
「わたしおおきくなって、おまじないうたうんだもんね」
ニコニコとミュシカは言う。
「大きくなってうたう?」
マルーシャはおうむ返しにした。母が歌っていたあれをだろうか。するとハッとしたダニールが青くなった。
「僕はまた……言い忘れを……」
「ああダニール、だいじょうぶだから」
慌ててとりなした。
今度はなんだろう。ダニールが何も伝えてくれていないのがそろそろ当たり前になりつつある。
「あの歌は、四季の姫たちが継いでいくものなんだよ」
「……え?」
「
言い方がやや硬いのはダニールの研究対象のひとつだったせいだ。
季節を招き告げる時、四季の姫はあの歌を使う。大自然に働きかけ、その力を導くための歌なのだった。
「歌の第三節の部分だけが、季節ごとに異なっている。マルーシャが受け継いでいるのは春の歌なんだろう」
「へえ……」
春告げの姫となることをやめクリフトに嫁いだアレーシャは、何を思ってそれを娘に歌っていたのだろうか。
娘が春に愛された妖精となることを知っていたのか。それともただ、妖精の国と春という季節を愛していたのかもしれない。
――だがそれをおしてもクリフトと共にいたかったのだ。この人だ、と感じたから。
母の気持ちを推しはかりながら、マルーシャは目の前の人を見た。
私もダニールのことをこの人だと思ったから結婚したのに。何を怖がっているんだろう。
「リージヤは冬の姫ではないけどね、ミュシカに教えるなら母親が一緒に歌ってやった方がいいだろう?」
ダニールは嬉々として話す。研究に関してのことなので、さっきまでマルーシャに抱いていた屈託はどこかに行ってしまっていた。
学者バカ、という言葉が頭に浮かぶ。それを地でいく夫がやはり愛おしいと思えて、マルーシャは微笑んだ。
「ねえダニール、この先おまじないをたくさん教えてね。私もいろいろ使えるようになりたい」
ダニールはマルーシャを見つめ、ゆっくりうなずいた。
そう。
初めてのおまじないは母から教えられたものだった。そしてこれからの幾つもは、ダニールとつむいでいけばいい。
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