19 微笑みの妃は真実の顔を望む

「死にけがれた身で、宮にあがらないでちょうだい!」


 女官たちが幼い姑娘むすめの腕を振り払った。

 男物の服を身につけた姑娘――紫蓮シレンが倒れこむ。肩にかかるほどにきりそろえられた髪から、濡れた紫の瞳がのぞいた。


 紫蓮シレンが七歳になったばかりのときだ。

 母親が熱をだして、倒れた。うなされながら、皇帝の御名おんなを呼び続ける母親をみるにたえかねた紫蓮は、皇帝が後宮にきていると聴き、逢おうとした。一度だけでもいい、母様に逢っていただけませんかと頼みたかった。


 だが、皇帝が御渡りになっているという舎殿しゃでんの橋にたどりついたところで女官たちに取りかこまれた。


 紫蓮は涙をこらえて、女官たちに頭をさげた。


「おねがいします、陛下が、皇帝陛下がこちらにおられるのでしょう? どうか、逢わせてください。ぼくは皇帝陛下の御子おこです、ひとかけらでもお慈悲があるのならば」


「ねずみのように卑賎な身分で、陛下の御子だと語るとは!」


「なんて浅ましいのかしら。けがらわしい職についているものは、根性まできたないからいやだわ」


 母親を侮辱され、紫蓮はたまらずに声を張りあげる。


「違います。母様のおしごとは、けがらわしくなんか、ありません」


 紫蓮は幼心ながらに死化粧妃しげしょうひという母親の職を誇りにおもっていた。

 母親がいかに誠意をもって死にむきあい、屍を扱っているのか。紫蓮は絶えず、側で見続けてきた。腐敗を遠ざけ、崩れてしまった部分を復元する。おしろいをはたいて紅をさし、最期さいごに一度だけ、死者に息を吹きこむのだ。


 それはともすれば、奇蹟のような。


「母様は、ちゃんとなすべきをなして、後宮におります。だれにも、ばかにされるいわれなんてありません」


「なによ、なまいきね」


 幼い姑娘むすめがこんなふうに反論するとは想わなかったのだろう。女官たちが眉をつりあげた。


「どうせ、おまえが産まれたのだって、なにか卑劣な手段を弄したに違いないわ」


「ほんとは宦官とのあいだにできたんじゃないの」


「男の服を着せて、男の言葉遣いをさせているのも、皇子おうじではなかったことを悔やんでのことでしょう? なんて執念ぶかいの」


 紫蓮の瞳がゆがむ。


「そんなこと」


 ないと言いかけて、声がつまる。


「どっかにいってちょうだい、死のけがれを振りまかないで」


 女官が想いきり紫蓮を突きとばす。あ、と声をあげ、紫蓮が橋から落ちた。さすがにまずいとおもったのか、女官たちは慌ててその場を後にする。


「っ……かっ、たす、……け」


 真夏のなまぬるく濁った水が喉に絡みつき、呼吸もできない。もがいても水藻を掻くだけだ。


 溺れる――

 すぐ側に死を感じる。意識が遠ざかっていった。


「まあ、なんてこと」


 雲雀ひばりのような女の声が聴こえて、腕をつかまれる。抱き締められるようにして紫蓮は緩やかに助けだされた。


「ひどいわ、こんなに幼いこどもを突き落とすなんて。ほら、呼吸をして……」


 背をさすられて咳こみながら、紫蓮はなんとか息をする。

 華が綻ぶように微笑する妃の姿が、ぼやけた視界に映る。場違いなほどに嬉しそうな微笑。わずかな曇りもなかった。とてもではないが、溺れかけた姑娘むすめに投げかけるものでは、ない。


 それが、琉璃ルリという妃だった。




           ✦


 


 紫蓮シレンには七歳まで、友だちといえるものがいなかった。


 死化粧妃しげしょうひ姑娘むすめだと知って、喋りかけてくるものはいない。遠ざけられるか、いじめられるかだ。だが、溺れていた紫蓮を助けてくれた琉璃ルリという妃だけは、紫蓮シレンが素姓を明かしても態度を変えなかった。それどころか、園林にわなどで逢うと声をかけてきてくれるようになったのだ。


 他愛のないことを喋っているうちに、これが友だちというものなのではないかと紫蓮は想いはじめていた。


 琉璃ルリ笄年けいねん(十五歳)になったばかりで、後宮でも比肩するものがいないほどに美しかった。だが、貧しい士族に産まれて後宮に嫁いできた身で、芸事にも秀でていないため、皇帝の眼にはとまらないだろうとささやかれていた。加えて、彼女には喘息がある。喘息はうつるものではないが、無知な妃妾きしょうたちはあからさまに彼女を避けていた。


「紫蓮、また、いじめられたのね」


 紫蓮がひとり、散りそうな梔子くちなしを眺めながら涙をこらえていると、ルリ璃がやさしく声をかけてきた。


「琉璃」

「つらかったわね」


 振りかえれば、琉璃ルリがいつもどおり、嬉しそうに微笑を振りまいていた。

 紫蓮シレンのことを真剣に案じているとは想えない。それどころか、おもしろがっているのではないかと疑えるほど、琉璃の笑顔は屈託がなかった。


 それなのに、彼女の微笑はいつだって、冬のにおいがするのだ。


「みんながいうんだ。母様がなさっていることは、けがらわしいことだって。したいに触れるばかりか、腹を割いてはらわたを掻きだすおぞましい職だって」


 黄ばみはじめていた梔子くちなしが、落ちる。


「でも、あなたはそうは想わないのでしょう?」


「おもわない。だって死んだひとを、いちばん幸せだったときにもどしてあげるおしごとなんだから。ちぎれたところをつないで、へこんだところをなおして、お別れのときにわらって「さようなら」ができるようにするんだって、母さまがそういってた。だけど――」


 他人からどう想われていても、紫蓮はすでに傷つかなかった。そういう諦めを、七歳ですでに身につけていた。


 だが、皇帝陛下――彼女の父親が、母親の職をけがれたものだとおもっているのだとすれば、紫蓮にはたえられないほどにつらかった。

 紫蓮はいい。どうせ、会ったこともない父親だ。思慕を抱いたこともなかった。だが、母親はいつだって、皇帝のことを愛し、慕い続けていた。

 姑娘むすめである紫蓮に父親の影を捜すほどに。


 黙ってしまった紫蓮シレンをみて、琉璃ルリはなにをおもったのか、ふわりと抱き締めてきた。


紫蓮シレン、どうか、変わらず誇りにおもっていて」


 紫蓮が息をのむ。琉璃ルリは紫蓮を強く抱き寄せ、語りかけてきた。


「一度だけね、後宮で執りおこなわれた葬礼に参列したことがあるの。階段から落ちて頭を強く打ちつけたとか。でも、ひつぎに横たえられた妃様は眠っておられるみたいに穏やかで、割れてしまったという額もきれいになっていたわ。ほんとうに美しかった」


 だからね、と彼女は続けた。


「恥じることはないのよ。胸を張って。死化粧師は素晴らしい役職おしごとなのだから」


 これまで、紫蓮シレンは一度たりとも、他人からそんな言葉をかけられたことはなかった。


 見張られた紫蓮の瞳からほつり、涙がこぼれた。すみれの露を想わせる雫がひとつ、ふたつと地を濡らす。とめどなくあふれ続ける涙を、琉璃ルリはそっと拭いてくれた。


「うらやましいわ。あなたは涙が流せるのね。死んだひとのために涙を流してあげることも、できるのね」


 紫蓮シレンは瞬きをする。


「まさか、あなたが微笑みを絶やさないのは」


「……そうなの、微笑むことしか、できないのよ」


 どこまでも穏やかな声で、彼女は言葉を紡いでいく。


「わたしってなんにもできないでしょう? 舞もできなければ、ことも弾けない。機を織ればれて縮れるし、はちっとも風情がない。無理して動いたら、咳がとまらなくなって迷惑ばかり」


 彼女は、女らしいことが、なにひとつできなかった。


「でも、ほら、器量だけはいいのね」


 人差し指を頬にそえて、彼女は華のかんばせを誇る。

 透きとおるような珂雪かせつの肌にぽてりと潤みを帯びた唇。樹氷のようなまつげに縁どられた瞳は微睡まどろむようにあまやかで、いやみにならない艶めかしさを漂わせていた。完璧だ。佳人かじんのことを物言う花とたとえるが、彼女はまさにそれだった。


「だから、微笑んでいれば、殿方とのがたに可愛がってもらえるはずだって教えられたの。身分のある男に嫁がせるために産んで、育ててやったんだから、恩をかえせってね。それからというもの、ちょっとでも微笑を絶やすと、微笑むまで殴られるようになった」


 紫蓮シレンが絶句する。こんなに酷い話をしているときまで、彼女は幸せそうに微笑み続けている。それがたまらなく紫蓮の胸を締めつける。


「咳が続いて死にかけた朝も、大事に飼っていた猫が死んだ晩も、一瞬でも笑顔を絶やすことを、母親も父親も許さなかったわ」


「それは」


 魂魄かんじょうを殺して華になれと強いることだ。


五男坊ごなんぼうだけが「僕と一緒の時だけは涙を流してもいいんですよ」って許してくれたのだけれど」


 罅割ひびわれていたものが砕けて、壊れるように彼女は笑った。


「ふふふっ、もう、おそかったの」


 嬉しくてしかたがないとばかりに彼女は鈴の声を奏でる。だが、それは次第に咳にかわる。喋りすぎたせいか、琉璃ルリせこみ、咳がとまらなくなった。


「つらかったね」


 ほかにかける言葉が、なかった。

 紫蓮シレンは震える琉璃ルリの背をさすりながら、ありふれたなぐさめをかけることしかできないみずからを恥じた。


「つらかった」


「うん、つらかったんだね」


「でも、つらくても、哀しくても、腹だたしくても、わたしにできるのは微笑むことだけなのね」


 青ざめて紫になってきた唇から、咳と一緒に血潮がこみあげてきた。それでも、幼いときからすりこまれた微笑が崩れることは、ない。


「だから、ねえ、紫蓮にお願いがあるの」


 琉璃はすがるように紫蓮の手を握り締めて、訴えてきた。

 声も、唇も、眼も、微笑んでいる。だが、紫蓮にだけは彼女が今、泣き崩れているのだとわかった。どれほど真剣に願いを託しているのかもまた。


「あなたがいつか、死化粧師しげしょうしになるときがきたら、そのときは。紫蓮がわたしのことを葬ってね――わたしの真実ほんとうの、顔で」


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