22 獄舎のなかの睡蓮

 うす昏い獄舎ごくしゃの静けさを、むちの音が破る。

 妃妾ひしょうや女官が収容される後宮の牢屋とは違い、獄舎では重罪をおかしたものが拘禁され、罪におうじた処罰を受けることになる。


 獄舎の耳房こべやで敲刑を受けていたのはスイ紫蓮シレンだった。麻地の服に着替えさせられ、腕を縛られて跪いている。


「っ」


 背を打ち据えられ、彼女は微かに細い呻きを洩らした。だが意地でも悲鳴はあげない。


「あいかわらず、懲りねぇやつだな、おまえはよ」


 獄吏ごくりの男がざんばらの髪を掻きあげ、嗤った。

 胡乱うろん三白眼さんぱくがんをした男だ。眼つきが非常に悪いことをのぞけば、それなりに整った顔だちをしている。だが、髪から覗く額には刺青が彫りこまれていた。いなづまをかたどった刺青いれずみは罪人の一族であることを表すものだ。


「なにを訴えたかったのかは知らねえが、口はわざわいのもと、って昔からいうだろ」


「ついでに死人に口なしともいうね」


 紫蓮シレンは視線をあげ、微笑みかける。


「彼らの声を聴けるのは僕だけだ。語られたら、語る。それだけのことだよ」


「そんで、おまえが死にかけてんだから、笑えるよな」


 またひとつ、むちが振りおろされた。麻紐の巻かれた棒が容赦なく骨を打つ。


「っ……やれやれ、知りあいのよしみで、ちょっとくらいは加減して、くれない、かな? 琅邪ロウヤ


「はっ、他の奴らは知らねえが、あいにくと俺は銭を積まれようが、情に訴えかけられようが、恩赦は与えねぇときめてんだよ」


「わかっているよ。きみは、そういう男だね」


 セツ琅邪ロウヤとは親しいわけではない。だが、これまでにも紫蓮が触れてはならない真実に触れて罰を受けるときはきまって、彼が刑を執行してきたため、いつのまにか知人となった。


「日頃からお偉いぶって俺らを蔑んでやがる士族様や高官どもでも、獄舎にくると賄賂を差しだして、狗みたいにすり寄ってきやがる。それを踏みにじってむちを振りおろすときの、奴らの絶望に満ちた顔ときたら――想いだすだけでっちまうくらいだ」


 彼は下卑げびた嗤いを絡げた。

 琅邪ロウヤはこの職を楽しんでいる。罪人の一族に産まれた憂さを晴らすように獄吏ごくりとしての役割を果たしていた。


「それにしても、憤怒を漲らせたしたいねえ。ひつぎを覗いただけでも祟られそうなシロモノだったって聴いたぜ。んなえげつないもんだったら、俺も見物したかったよ」


 紫蓮がまつげをふせた。青ざめた唇から言の葉を落とす。


「……きれいだったよ」


 日の差さない耳房こべやは真昼から燈火とうかがたかれている。小窓から風が吹きこみ、燈火が微かに傾いで、陰をかきまぜた。


「彼女の怒りはとても、きれいだったんだよ」


 呪縛に強いられた微笑なんかより、ずっと。


「はっ、いっちょまえに芸術家気取りかよ。それともなんだ、真実をあきらかにするとかいう義心ぎしんに勇んでんのか。たいしたもんだよな、おまえはよ」


「そんなのじゃないさ、僕はただ……」


  琉璃ルリが怒っていたことを、誰かに知ってほしかっただけだ――


 紫蓮はそういいかけたが、強い打撃に襲われて息がつまり、言葉にはならなかった。




           ✦

 

 


「いったいなぜ、刑部丞けいぶじょうかつ後宮丞こうきゅうじょうである私の指示も仰がず、スイ紫蓮シレンを獄舎におくったのですか」


 署に帰るなり、コウは部下たちを叱責した。

 紫蓮シレン獄舎ごくしゃへとおくられたと知らされ、絳は悔しさをかみ締めた。後宮の牢屋ならば後宮丞である絳の管轄だ。ある程度ではあるが、減刑するなど融通をきかせることもできる。だが、刑部が管理する獄舎では、絳には面会する程度しかできない。


刑部尚書けいぶしょうしょの御命令です」


 刑吏けいりが言葉少なに言った。


「ですからなぜ、後宮の妃の処分を、刑部尚書にひき渡したのですか。妃の処分は後宮丞こうきゅうじょうの任です」


 刑吏たちの視線は冷たかった。絳にたいする反感がうかがえる。なぜ、こんな身分の低い男が上官なのかと、露骨な不満が滲んでいる。コウは咄嗟に舌を打ちたくなるのをこらえ、努めて冷静に詰問した。


「取り調べはしたんですか」


「さあ」


琉璃ルリの屍を損壊した動機は、まだわかっていないということですね」


「おそらくは」


 まったく埒があかない。獄舎にいって真実を確かめなければ。


琉璃ルリ……」


 靑靑ショウショウがぽつりと復唱する。

 コウが慌ただしく退室しかけたところで、靑靑が袖をつかみ、声をかけてきた。


「あ、あの。僕も、ついていっても」


ごくは酷いところです。あなたがみるべきではない」


 絳は靑靑の腕を振りほどいた。靑靑は純朴だ。宮廷の底を知るにはまだ、若すぎる。

 暗雲から落ちた雨垂れがひとつ、屋頂やねを弾いた。

 


 …………

 


 獄舎ごくしゃについたときには桶の底が抜けたような嵐になっていた。

 雷鳴が轟き、獄舎の罅割れた土壁を微かに震わせる。雨洩りが絶えない獄舎のなかはえた臭いが充満していた。


 ここは宮廷の掃きだめだ。

 放りこまれてしまえば、卑賎な宦官でも高貴な官吏でも変わらず、家畜同等の扱いをうける。だから士族などは獄舎に収容されるまでに賄賂をつかい、免罪を試みる。もっとも獄吏ごくりのなかにも、賄賂次第で獄中での便宜をはかったり、冤罪をかけられたものに拷問をして嘘の自供をさせるものがいた。それもふくめて、掃きだめなのだ。


 呻き声や悲鳴が反響する廊を進み、絳は耳房こべやに踏みこむ。


スイ 紫蓮シレンはこちらにいますか」


 懲罰房だ。

 くらがりに姑娘むすめが、跪いていた。


「紫蓮」

 

 服が破れて剥きだしになった背には、傷ましいむちの痕が散らばっていた。青痣だけではなく血が滲んでいる。コウは胸を掻きむしられた。


 だが、絳の視線を奪ったのはそのうなじだった。


 差しだすように項垂れたくび蓮芙はす花頚はなくびを想わせる。浮きでた骨のたまが、数珠つなぎになった真珠に似ていた。帳じみた髪が、項からふたつにわかれて埃だらけの敷石に落ちて、拡がっている。


 コウの喉が、ごくりとひきつれた。


 ゆるみかけた口許くちもとを咄嗟に隠して、コウ紫蓮シレンの項から視線を剥がす。

 魅入られていたのは一瞬だけ、だった、はずだ。事実、獄吏ごくりが振りかえったのは絳が冷静さを取りもどした後だった。


「あン? コウじゃねぇか」


 琅邪ロウヤは荒っぽい身振りで髪を掻きみだして、唇をまげた。


「っと、いまは後宮丞こうきゅうじょう様だったか? 家のくせにずいぶんな大昇進じゃねぇか。《いきんかんきょう》だったか。まあ、俺たちに故郷なんかねぇけどよ」


「刑は終わりましたか」


「無視かよ。久し振りに幼なじみと逢ったってのに、つれねぇのな。それか、なんだ、お偉くなったら俺みたいなのとは喋りたくもねえってか」


「終わったのであれば、彼女の身柄をひき取りたいのですが」


 琅邪ロウヤと喋っている暇はなかった。すぐにでも紫蓮を医官に診せなければ。傷にふうの毒が入ったら、命にかかわる。


「いや、まだ、はじまったばっかりだ」


 絳が眉根を寄せた。紫蓮はすでに息も絶え絶えで、なかば気絶しているというのに。


「牢屋に捕らえて日に一度、五十敲ごじゅっこうする。これを七日繰りかえして、晴れて解放だ」


「そんな。男ならばまだしも、幼い姑娘おんなの身には酷です」


 コウが非難したが、そのとき、紫蓮が呻きながら頭をあげた。


「へい、きだよ。殺されることは、ないからね。風に毒されないよう、ひと通り処置はしてもらえる」


 諦めたような言葉を聴くだけでも、これまで紫蓮シレンがこうした事態を繰りかえしてきたのだと察しがついた。

 語られたことを、語るだけだ。

 彼女はそういっていたが、そのためにどれほどの危険をおかしてきたのか。絳には想像を絶していた。


「琅邪、しばらくふたりにしてくれますか」


 絳は袖から取りだした麻袋を琅邪に渡す。なかみは煙管キセル煙草葉たばこばだ。琅邪は金銭の受け渡しをきらう。だが、宮廷で調達できない煙草葉だけは、賄賂のかわりになる。


「はん、しょうがねえな」


 琅邪はそれを懐に収めて、退室した。

 燈火あかりがひとつだけ燈された昏い耳房こべやのなか、嵐の唸りが響く。絳は紫蓮の側に膝をついて、彼女の細腕を緊縛していた縄をほどいた。


 肌がすりきれて、赤い痕になっている。


「なにが、あったのですか」


 紫蓮が訳もなく屍を損壊するはずがない。誰よりも屍を愛している彼女なのだから。

 紫蓮は身を起こしてから、細々と語りだした。


「死化粧というのは微笑んでいる顔に修復することがもとめられる。遺族が穏やかにおくることができるようにね。僕もこれまではそうした死化粧を施してきた。でも、胡琉璃の屍だけは」


 紫蓮はまつげをふせ、言葉を落とす。


「怒りの表情しにがおにした」


 想像だにしていなかったことに絳は微かに眉の端を動かしたが、なぜ、そんなことを、とは想わなかった。


「怒らずにはいられない真実が、あったのですね?」


 信頼ではなく、紫蓮にたいする確かな理解があった。


琉璃ルリは、病死じゃなかったんだよ。殴られて、殺されたんだ」

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