23 青痣が腎を蝕む

琉璃ルリは、病死じゃなかったんだよ。殴られて、殺されたんだ」

 妃が、殺されていた。


 だが、だとすれば、不可解なところがある。


「順に確認させてください。まずひとつ、屍に外傷らしきものはありませんでした。検視官からの報告でも死斑しはんはあっても、打撲、青痣あおあざなどについてのものはなかったかと」


「いいや、あざはあった。腹部にひとつだけ、だけれどね。打撲による痣だ。死斑が酷かったからね。わからなかったんだとおもうよ」


「死斑との違いはどうやって」


「死斑は指圧で退色たいしょくする。でも、打撲痕は押しても変わらない。殴られてから日が経っていたのか、うすれてきてはいたけれどね」


「日が経っていた、ですか」


 どうにも道理にかなわない。


「腹を殴られ、殺されたのであれば、ぞうが損傷していたと考えられますが、それだと大抵はひと晩持ちません。ですが、強い打撲による痣がきえるまでには、七日から十日は掛かるはずです」


「そうだね。推測するに、殴られてからは二十日ほど経っていたよ」


「失礼ながら、それは……殴殺されたといえるのでしょうか。暴行が直接的な死因だと立証するには時間が経ちすぎています」


「臓の損傷ではあるが、きみが考えているようなものではないよ。彼女を死にいたらしめたのは打撲による青痣、さ」


「痣、ですか」


 理解できず、コウは眉根を寄せた。


「たかが痣だと想われがちだけどね、これは血管が破れ、皮膚の内側に血があふれている状態だ。このとき、筋組織からじんの毒になる色素が流れでる。これが続くとね、しばらく経ってから腎がだめになることがあるんだよ」


 紫蓮の声は疲弊で細っていたが、口調は普段と変わらない。透徹としている。


「青痣が腎を蝕む、ですか」


 考えたこともなかった。


「体表面積の二割を越える痣でなければ、そこまで酷い事態にはならないけれどね」


「残っているのは腹部の痣だけですが、もとは広範囲にわたって酷い暴行の痕があったということですね」


 紫蓮は肯定する。


「ですが、痣がそれほど危険ならば、あなたの身も懸念されます」


 あらためて、紫蓮の背をみれば、酷い青痣が拡がっていた。


「あなただって、腎を病む危険があるのではないですか」


「ああ、それはへいきだよ。琅邪ロウヤは、うまいからね。素人とは違うよ」


琅邪ロウヤとは知りあいだったのですか」


 コウが後宮にきて紫蓮シレンと逢う前から、琅邪とは知りあいだったのだと考えると、やけに胸がざわついた。


「知人というほどではないかな。僕が常連だというだけだよ。話を戻そう。僕はそれを確かめるために琉璃ルリの腹を割いて、腎を取りだしたんだ」


「どうなっていましたか」


「健康な腎はまるまるとして真っ赤なんだけれどね。琉璃の腎は墨につけたみたいに黒ずみ、著しく縮んでいた。腎不全を起こしていた証拠だ」


 腎が働かなくなると排尿ができなくなり、頭痛や呼吸困難、浮腫、背から腹にかけての鈍痛といった苦痛をともなう。


 琉璃が酷い死にかたをしたことは想像に難くなかった。


「彼女はいったい、誰に暴力を振るわれたのでしょう」


「夫だろうね」


 紫蓮の声に疑いはなかった。


「暴漢であれ、なんであれ、中都督ちゅうととくの妻がこれだけ酷く殴られたんだ。ふつうは、大事おおごとになるはずだよ。でも、そうではなかった。違うかな」


「確かにそうした事件があったとは聞いていませんね。彼女は後宮の元妃もときさきだ。皇帝の所有物だった、ということになるので、有事のさいは後宮にも連絡がきます」


「夫は敢えてこの事実を隠していたということだ。もちろん、彼女が外部に訴えることもできないようにしていたんだろうね」


 抵抗もできない妻に暴力を振るうなど、きわめて卑劣だ。


琉璃ルリの死は殺人だったと訴えることは――――無理でしょうね」


 絳は喋りながら思考を巡らせたが、一考を経て、ため息をついた。

 殴られたときにできる痣は腎を蝕む。という知識からして、解剖などしたことのない宮廷医官にはないものだ。紫蓮が嘘をついていると一蹴されて終わりだ。

 紫蓮はすでに諦めている。

 

 悔しさのあまり、絳は拳を握り締めた。


「せめて、彼が妻に暴力を振るっていたと証言してくれるものがいたら」


 そうすれば、紫蓮シレンは検視によって殺人を暴いていたのだとして、晴れて免罪にすることができるだろうに。


「相手は中都督ちゅうととくだよ。権力のある武官に楯つこうとするものは、そうはいないだろうね。まして妻にたいする暴力というのは家庭のなかでおこなわれるものだ。目撃していたとしても家につかえる女官か、親族か。親族は隠すだろうし、告発するだけの度胸のある女官がいるとも考えにくいね」


 万事休すだ。


「なんとか、あなたを助けられたらいいのですが……」


 考えこんでいると、紫蓮がとつと声を洩らした。


「ねえ、いてもいいかな。きみはどうして、僕に構うのかな」


 紫の眼が、コウを覗きこんでくる。


「僕を助けても、きみに利はないだろう」


「好きだと御伝えしたではないですか。好いた姑娘にょにんがこのようなところに捕らわれているのに、助けたいと想わないはずがないでしょう」


「嘘だね」


 紫蓮シレンはにべもなかった。拒絶するでも責めるでもなく、静かに微笑んで睫をしばたたかせる。真実だけを言いたまえとうながすように。


「……そうですね。それだけではないのは事実だ」


 紫蓮には特殊な技能がある。


 絳の望みを遂げるために彼女の技能が必需だ。重ねて、彼女の罪を迅速に晴らしたいという裏には、堀からあがった骨の検視を依頼したいという打算もある。


「ですが、惚れたというのは嘘ではありませんよ。自業自得とはいえ、疑われているなんて哀しいですね」


「自業自得という自覚はあるんだね」


 嘆いてみせれば、紫蓮はあきれてため息をついた。


「そろそろいいか」


 煙管キセルをくわえて、琅邪ロウヤが戻ってきた。


「なんだ、縄をほどいてやったのかよ。まあ、いいさ。逃げられねえことはわかってるだろうからな」


 縄で縛りなおすことはせず、琅邪は紫蓮を牢屋に連れていった。


 独房に吸いこまれていく紫蓮は、最後に絳を振りかえり「きみが懸念することはないよ」と微笑んだ。


「医官はちゃんとくるのですか」


 絳が琅邪に尋ねる。


「あとでな。スイ紫蓮シレンは、だ。そうかんたんには死なせられないからな。それより、おまえ、あいつには明かしてないんだな?」


 コウは瞬時に琅邪ロウヤの意を察して、眼をとがらせる。


「取りたてて言う必要もないことですから。隠しているわけではありません」


「はっ、ずいぶんと都合のいい言葉だなァ」


 琅邪は嘲笑をまぜて、ふはっと紫煙をはきだした。


「おまえは知ってるよな。後宮のどん底ってのは宦官かんがんじゃねえ。したいの腹を掻っさばく死化粧師しげしょうしと、俺たち獄吏ごくりと――」


「言われずとも、わかっていますよ」


 まだ、紫蓮が聴いているように感じて、咄嗟に割りこむ。


「だったら、底の臭いをわすれんなよ。これはおまえにもしみついてる臭いだ」


 琅邪ロウヤ脂臭やにくさい煙をまき散らす。獄舎ごくしゃの臭いとまざりあって胸を焼いた。絳は肯定するかわりに黙して、背をむける。


 格子窓の外では日暮れがせまっている。

 嵐はまだ、やまない。

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