32「あなたが嫌われものでよかった」
あれから依頼もなく、
「
風鈴が音を奏でる。客だろうか、といっても離宮に尋ねてくるものなんか、ひとりだけだ。
「紫蓮、依頼が、って……とけてませんか?」
「あぁ、みてのとおりだよ、暑くてね……」
「塩をかけられたなめくじかとおもいましたよ」
「あれって水分を奪われて縮むだけで、そうそう死ぬまではいかないらしいよ。水をかけたら元通りさ。だから、なめくじのほうがまだ、僕よりはげんきだとおもうよ……」
「真剣にくらべないでくださいよ」
「僕は、とうに死にかけているからね。片脚どころか、棺桶に頭からつっこんでいる」
「あなたがいうと、しゃれにならないですね」
「
「左様です。残りは荷車に乗せて、
紫蓮はもそもそと起きあがり、桶から
「斬首か。でも、復元の依頼ということは罪人ではないね。おおかた、
草賊とは宮廷、強いては皇帝に反旗をひるがえした
「ご明察です。あなたの推理はもはや妖術のようですね」
彼らは役人を捕らえて
「都では昨今、反乱が頻発しています」
「民はそんなに貧しいのかな」
「豊かではありませんね。ですが、貧しくはない。終戦から百年が経ち、争いにたいする恐怖心がなくなり、不満のほうが膨らんできたというのもあります。それと――」
言いかけて、絳は言葉を濁らせた。
「先帝だね」
絳は苦笑する。
「左様です。祟りじみた先帝の崩御が噂を掻きたて、民の反政意識に拍車がかかった」
政が乱れていたせいで先帝は変死した、という絶好の口実を与えてしまったわけだ。
「とはいえ、先帝が御存命の時から反乱はありました。まして、昨今のような浅はかな
「
草賊がそろって紫の頭巾をかぶっていたことから、その
「あのときは宮廷のなかにまで、
「天候不順です。
「酷い話だねぇ」
「農民は冬を越えられぬと
「そうか。だからだったんだね」
紫蓮は喋りながら、針に糸を通す。
「
斬首は
一撃で
だが、先帝は農民にたいしても平等に情けをかけ、斬罪に処した。
されども、昔は斬首ほど残虐な刑はないと認知されていた。斬首された
だが、農民の遺族にそんな銭はない。だから先帝が直々に動いたのだ。
「謀反というかたちであれ、
微笑みながら、
「人は平等であるべきで、不条理に人権を剥奪されてはならないと、日頃から語っておられたので」
だが、乱の発端となったのは結局、強欲な宦官だった――
紫蓮はなんとも複雑な想いになって、話を切りあげる。
あらためて、
「稚拙な
「わかるのですか」
「断頭するまでに五度、剣を振り落としている。頚の骨は意外と硬いからね。熟達したものでなければ、剣一撃では落とせない」
宮廷には
「彼は、そうとうに苦しんだことだろうね……」
「ほんとうはね、わかっているんだ」
「なにを、ですか」
「死は死だということを、だよ」
唇に乗せた言葉は重かった。
「いかにあろうと、命を奪われた、という事実に違いはない。それでも、苦痛は人の尊厳を潰す。死に様は、ときに生き様をも穢すものだから」
史実をさかのぼれば、残虐な死などはいくらでもある。敵、罪人、異なる思想を持ったものを、考えつくかぎり惨たらしく死にいたらしめ、これまで築きあげてきた経緯、功績まで陵辱する――これは現実に繰りかえされてきたことだ。
「乱の時にね、とてもきれいな
想いだす。高きから低きに落ちる滝水のような斬撃。骨と骨のあいだをきれいにすり抜けて、絶っていた。あれならば、頚が落ちたこともわからないうちに息絶えることができたはずだ。
「幸福だったとはいわない。救いだともね。それでも、きれいだったんだ」
なぜか、
「そう、ですか。それならば……よかった」
感傷を
「さてと、これではご家族にも逢えないね。彼をよみがえらせてあげないと」
官吏のからだを運んできてもらった。
「すごいものですね。縫いあともわからないくらいだ」
息が微かに耳にかかる。背筋がぞわりと痺れた。
「あのねぇ、近すぎるよ」
「そうですか? 約束どおり、触れてはいませんよ。紫蓮はおやさしいですから、まさか私が呼吸をすることまで、禁じたりはなさらないでしょう?」
「僕はやさしくないし、呼吸をしないでくれるなら、それに越したことはないよ」
「死んでしまうんですが」
「それがいやなら、距離を取ることだね」
「ひどいです」
そういいながら、ふふと笑いを織りまぜた息が、項に触れる。ぜったいにわざとだ。
「まったく……きみがなにを考えているのか、僕にはちっともわからないよ。こんないやがらせをしてなにが楽しいんだか」
「いやがらせなんてとんでもない。私はただ、あなたのことが好きなだけですよ」
熟れすぎた果実のように絳は瞳を蕩かせる。
「縁もない男の頚をたいせつに扱い、愛しげに縫いあげているあなたが――たまらなく好きです」
ああ、これは、嘘じゃないとわかってしまった。
だから敢えて、紫蓮は指摘する。
「嘘だね」
騙しあいみたいに。
「ふふふ、疑っている振りをするなんて酷い
絳はくつくつと喉を鳴らす。
低い嗤いかただ。お得意の愛想笑いとはあきらかに違った。
「逢ったばかりのときは、あなたほどの技師が侮られ、
背をむけているので、紫蓮からは彼がどんな表情をしているのか、わからない。微笑んでいるのか。真剣なのか。あるいは。
「あなたが嫌われものでよかった」
酷烈な眼をしているのか。
「私は得をしました。
逢ったときから、そうだ。彼の考えていることは微塵も理解できない。
彼はおそらく
それなのに、拒絶するつもりには、なれない。
彼からは、死を感じるからだ。
紫蓮が死を愛し、死に縛られているように彼もまた、死に捕らわれている。
「……きみというひとは、ほんとにどうしようもないね」
やれやれとため息をついて、黙々と針を動かす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます