33 妖妃、刺客に襲われる

 その晩のことだ。

 昔のことを想いだしたせいか、紫蓮シレンは夢をみた。

 紫蓮シレンがまだ五歳になったばかりで、男として育てられていたときの夢だ。

 母親と一緒に彼女は、後宮の橋を渡っていた。背後から侮蔑の声が追いかけてくる。


「死のけがれを振りまいて」


「皇帝陛下に愛されているつもりなの」


 紫蓮シレンはぎゅっと身を縮めかけた。だが、やましいことがないのならば胸を張っていなさいと母親から教えられた言葉を想いだして、背筋を伸ばす。だが、何処からともなくとんできたつぶてが、紫蓮の頭にあたった。

 紫蓮は涙ぐみ、泣きだしそうになった。


 だが、そのとき、母親は紫蓮を振りむかずにいった。


「泣いてはだめよ、おまえは男の子なんだから」


 紫蓮は唇をかみ締めて、涙をとめた。

 橋を渡り終えてから、母親は振りかえる。


「偉かったわね」


 孝服もふくを想わせる白い襦裙きものに身をつつみ、青い刺繍の外掛はおりを羽織った母親はやわらかな微笑を湛え、紫蓮シレンを抱き締めてくれる。髪に飾られた玻璃はりのかんざしがきゃらきゃらと音を奏でた。


「ああ、おまえは、ほんとうに綺麗な眼をしているのね。皇帝陛下に瓜ふたつだわ」


 微かに潤んだ紫蓮シレンの眼をみつめ、母親が語りかける。

 紫の眼とは皇族の正統な血脈を証明するものだ。母親は姑娘おんなである紫蓮に男物の服をまとわせて、男のように喋らせた。

 皇姫こうきではなく皇子だったらとおもっていたのか。逢いにこない最愛のひとのおもかげを重ねていたのか。紫蓮にはわからない。


「眼というものは呼吸がとまって魂魄が剥がれたその時から、濁っていくものなのよ。意志は胸でも頭でもなく、眼に宿る――」


 母親はいかなる経書けいしょにも書かれていない、みずからだけの思想を持ったひとだった。医薬などの知識も備えており、非常に賢かったのだと紫蓮シレンはおもう。もっとも低級の妃妾ひしょうであったためにそうした叡智が振るわれることはなかったが、皇后になっていれば、その才能がいかんなく発揮されたはずだ。


 そんな母親のことを、紫蓮は敬愛していた。


「だから、生きながらに眼を濁らせてはだめよ。みずからを哀れんで、こぼす涙はいつかかならず、おまえの眼をよごすから」


 ひとつだけ、こぼれてしまった涙を母親の指がさらっていく。


 これは死化粧を施す指だ。

 幼心おさなごころながら、紫蓮はせかいで一等いっとう美しいものは母親の指だと想っていた。


「その眼を護りなさい。おまえは、皇帝陛下の御子なのだから」


 母親を愛していたからこそ、そう繰りかえされるたびに紫蓮は胸が締めつけられた。


「わかっております。でも、ぼくはかあさまの――」


 姑娘むすめだと、訴えかけた言葉が喉につまる。

 幼かったせいもあってか、紫蓮シレンは男として育てられることに抵抗はなかった。だが、ときどき、想うことがあった。逢ったこともない皇帝陛下の御子ではなく、誇り高き死化粧妃の姑娘むすめでは、いけないのか。

 スイ 紫蓮シレン、では母親をなぐさめることはできないのか。


 認めては、もらえないのか。


「かあさま、ぼくは」


 ふせめがちにうかがった母親の顔が、崩れる。

 悲鳴をあげるひまもなかった。瞼がひきつれ、唇がねじくれて、あとかたもなく壊れていく。


 夢が、破れる。


 …………

 ……


 「っ……は」


 眠りからさめた紫蓮シレンは胸もとを握り締めて、なんとか呼吸する。


 臥榻しんだいから身を起こして、彼女は壁にかけられた鏡に視線をむけた。

 髪を伸ばした姑娘むすめの姿が映っている。


 幼かったせいもあってか、紫蓮は男として育てられることに抵抗はなかった。それは母親が死に、紫蓮が後宮の死化粧妃しげしょうひという称を受け継ぐまで続いた。襦裙じゅくんを渡されて妃らしい格好を強いられたとき、紫蓮は言葉にできない空虚感をおぼえた。男だとか、女だとか、くだらない。こんなやっかいな呪縛に誰も彼もが捕らわれ、息もできずにもがき続けているのか。


「女は微笑んでいなくては」「男なのに、涙をみせてはいけない」


 そこにどんな違いがあるだろうか。

 女も、男も、強いられるものではない。紫蓮はただ、紫蓮として――


「いまさらだね」


 母親は死んだ。


 夢は毎度、母親の顔が崩れるところで、終わる。いつかは崩れた顔しか想いだせなくなるのではないかと怖かった。


 心細くて身を縮めていると暗がりでなにかが、きらりとひかる。


「ああ」


 猫の眼だ。正確には猫の死骸はくせいにはめられた玻璃珠がらすだまだった。


「心配してくれるのかい。だいじょうぶだよ、なんでもないさ」


 臥房しんしつにならべられた猫の死骸たちに声をかける。みけ猫に縞猫、白猫もいた。どの猫もまるくなって、穏やかに微睡んでいるような格好で飾られている。

 誰にも哀しまれることなく、後宮のはずれで命を落としていたものたちだ。宦官に回収されてごみと一緒に棄てられるのは哀れで、連れて帰ってきてしまった。いまでは眠れない夜に寄りそってくれる、たいせつな友だちだ。


「ちょっとだけ、風にあたってくるよ」


 臥榻しんだいからおりて、廊子えんがわにむかった。

 月が満ちているが、風は強く微かに遠雷が聴こえる。まだ遠いが、嵐がやってくるのではないかと紫蓮シレンは感じた。


 月明かりの院子なかにわでは芙蓉ふようの花が、ぽつぽつと落ちていた。まるく縮こまって落ちる芙蓉はまるめられた紙細工を想わせる。あるいは人のくびか。


 拾いあげようと背をかがめたのがさきか。


 背後から人の息が聴こえた。同時に殺意を感じ、総毛だつ。紫蓮が振りかえろうとする。だが、間にあわない。


 紫蓮シレンは地にたたきつけられ、組みふせられた。


 見知らぬ男だ。宦官ではない。かといって、後宮の客でもなかった。

 刺客、という言葉が頭をよぎる。


「っ――ふふ、僕が、耳障りなのかな。僕の語る、死者の、声が」


 衝撃に息をつまらせたが、紫蓮は無理して声をしぼりだした。


 想いあたることはいくらでもある。紫蓮は死化粧を通じて、権力が葬ったはずの罪をあばき、真実をさらしてきた。

 いつかは殺されると理解していた。

 母親と同様に。


 紫蓮が落ちついていたせいか、刺客がわずかに戸惑った。だが、刺客はすぐに紫蓮の顎をつかみ、口に指を挿しこんできた。舌をつかまれ、紫蓮はこれからなにをされるのか、咄嗟に察する。


 刺客は紫蓮の命を奪おうとしているのではない。


 舌を、斬り落とそうとしているのだ。

 ぞっとした。紫蓮は刺客の指をかみ、あばれたが、籠手こてをつけているのでどうにもならない。


 紫蓮の眼に絶望がよぎる。


 風が吹きつけた。

 刺客のくびが、横薙ぎに刎ねとばされる。血しぶきが噴きあがった。男の背後には細身の男がいた。


コウ

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