25 奇人官吏、動く

 刑部省けいぶしょう尚書室しょうしょしつには、年季の入った書物のにおいがしみついている。


 宮廷のみならず都から地方までの犯罪を総括する部署ということもあって、文几ふづくえには刑集けいしゅうや筆録、名簿が積みあげられ、崩れそうな塔を築きあげていた。書の塔に埋もれるようにして老官ろうかんがすわっている。彼こそが刑部尚書けいぶしょうしょである菟仙トセンだ。菟仙というだけあって、白髭を蓄えた仙人のような風貌いでたちをしている。


 菟仙トセンにむきあい、再調査を訴えているのは コウだ。


「女官たちの直訴によれば、中都督ちゅうととくである 勇明ユウメイは妻の 琉璃ルリにたいして暴行を繰りかえしていたとのことです。全身の二割から三割にもおよぶ青痣あおあざから毒素がまわり、腎機能に障害をきたした。これによって 琉璃ルリは暴行から約二十日後に死去。これは刑部が取り締まるべき、れっきとした殺人事件です」


 袖を掲げ頭を低くさげながら、コウの声には断固たる響きがあった。


「死化粧妃は宮廷でも唯一、解剖を許されたものです。スイ 紫蓮シレン死斑しはんに紛れた青痣をみつけ、腎を摘出。 琉璃ルリの死因が肺の持病ではなく、腎不全じんふぜんであることを突きとめました。事実を訴え、隠された罪状を暴きだすため、あのような死化粧を施した次第です。よって、綏紫蓮は無実であると私は考えます」


「ふうむ、じゃがのう」


 だが菟仙トセンは煮えきらない。髭をなぜつけながら、のんびりとした口振りで続ける。


琉璃ルリというのは確か、下級士族の女ではなかったかのう」


「左様ですが」


「証言も女官だけ」


「仰せのとおりです」


「ならば、いまさら、蒸しかえさずともよいじゃろう」


 コウは予想がついていたとばかりに瞼をとじた。


中都督ちゅうととくを弾劾して、荒だてるほどのことではなかろう。皇帝陛下に害をおよぼしたわけでもあるまい。昨今、都でも民の暴動が相ついでおる。些細なことでも宮廷の官吏に民の非難がむくことは避けたい」


 事を穏便に済ませるといえば聴こえはよいが、実際のところは宮廷の都合がいいように真実を隠ぺいするということだ。


「ですが、すでに民は疑いをもっています」


 絳は努めて冷静に、食いさがる。


琉璃ルリの葬式はたいそう盛大に執りおこなわれました。異様な遺体が民の眼に触れ、騒ぎになったからこそ、スイ 紫蓮シレンは後宮ではなく宮廷の獄舎で処罰を受けている。今後、根も葉もない噂が拡がるよりは、宮廷が制裁をくだして事態を終息させるほうが賢明ではありませんか? 先帝の時のようになっては、それこそ望ましくはないはずです」


 先帝の異様な死については、緘口令かんこうれいが敷かれた。だが、民の口を防ぐは水を防ぐより甚だしという。先帝が村を焼きはらったという事実も相まって、無辜の民による祟りだとささやかれるようになり、民の反政意識が高まる結果となった。


「これは皇帝陛下の権威をも害する罪であると、私は考えております」


 意外だったのか、菟仙トセンは白髪の混ざった眉をあげた。


「どういうことじゃ」


 絳は続きを促されたことに安堵する。

 ほかの官吏であれば、絳の意見など頭ごなしに拒絶するだろう。

 想いかえせば、菟仙はかねてから先帝派だった。昔乍むかしながらの封建主義ではあるが、能があるものにたいしては平等に扱うだけの器量を持っているということだ。


「胡 琉璃は皇帝陛下から下賜された身です。そんな胡を殺害した牟勇明の所業は、皇帝陛下にたいする侮辱と見做すべきです」


 女は物だ。という考えを、絳は好まない。


 皇帝の物。夫の物。

 所有物で、貢物であるという意識は強く根を張っている。それを覆すことはできない。だから、いまだけは、それを逆手さかてに取る。


「皇帝陛下は幼少の身であり、後宮は特例としてひらかれている。いわば、恩寵おんちょうです。なればこそ、このような事態は看過せずに取り締まるべきではありませんか。それが陛下の権威を表すことにもつながるかと」


 菟仙はふむと感心して、呻る。


「理にかなっておるな。……先帝陛下が可愛がっていただけある」


 一瞬だけ、絳は唇の端を強張らせた。自嘲ともつかない乾いたわらいを洩らしかける。だが、それをかみ砕いた。


 菟仙トセンが「わかった」と頷き、命令をくだす。


コウに命ずる。都に赴き、 勇明ユウメイを捕縛せよ――――」



           ✦




 「勇明ユウメイ様、飲みすぎではありませんか」


「構わん、もっとだ」


 豪邸の一室で 勇明ユウメイは飲んだくれていた。

 散々だった葬礼から約一日が経ったが、妻の死に顔が頭から離れない。昨晩は一睡もできず、仕事も欠勤した。


「ほんとうにだいじょうぶ、ですよね」


 酌をしていた妾が怖々おずおずと尋ねてきた。


「なにがだ」


「噂になっていて。奥様は旦那様を怨んでいたのではないか。だから、死後、呪いをかけたのではないかと……きゃあっ」


 激怒したたくを蹴りつけた。青磁の酒器が割れて散らばる。黄酒こうしゅを被った妾が悲鳴をあげて、縮みあがった。


「なんだ、そのろくでもない噂は! あれは死化粧師しげしょうしの失態だ! 呪いなどあるものか」


 が妾の髪をつかんだ。


「なにが、旦那様を怨んでいた、だ。俺はでき損ないの妻をしつけてやっていただけだ。こんなふうに、な!」


 牟は妾の頬を殴りつけた。


 その場に倒れこんだ妾はごめんなさいと繰りかえして、泣き喚いたが、牟は勢いづいて背や腹を蹴りつけた。妾は腫れあがった頬をおさえ、這々ほうほうてい房室へやから逃げていった。


 は妾を追いかけることはせず、ふんと鼻を鳴らした。


「女は三日殴らんと狐になるというからな! 感謝こそされても、怨まれるような筋あいはないぞ」


 酔いがまわっているのもあって、牟は誰にともなく大声を張りあげる。

 妻は器量だけはいいが、愚鈍な女で、病弱で子も産めぬときた。殴ろうが、怒鳴りつけようが、微笑んで頭をさげるばかりでよけいに癇にさわった。


「離縁せずにいてやっただけでも俺は寛大な亭主だというのに――っおい、酒だ、酒を持ってこい!」


 牟が怒鳴ったが、妾はおろか、女官もやってはこなかった。想いかえせば、朝から女官の姿を見掛けていない。


「つかえんようなら、まとめて解雇してやるからな!」


 苛だって喚いていたとき、背後にある櫺子れんじの戸がひらかれた。


「なんだ、遅いではないか……!」


 女官だろうと振りかえれば、見知らぬ男がたたずんでいた。

 官服に身をつつんだ若い官吏かんりだ。文官か。連絡も取らずに欠勤したので、様子でも見にきたのだろうか。


「すみません、御声はかけたのですが」


 官吏は物腰穏やかに微笑んでから、すっと真剣な眼差しになった。


勇明ユウメイ、貴殿には 琉璃ルリに暴力を振るい、殺害した疑いがかかっています」


「な……」


 思いだした。赤紫の官服は刑部省の制服だ。腰には剣と身分を証明する玉佩ぎょくはいが提げられていた。


「後宮から下賜かしされた妃を害することは、皇帝陛下にたいする侮辱とみなします。取り調べのため、刑部の庁舎まできていただけますか」


「なんだそれは! 言いがかりだ、俺が愛する妻を殺すはずがないだろう!」


「ですが、いまも妾に暴力を振るっておられましたね」


「っ……あれはしつけだ! 男がちゃんと躾けてやらねば、女なんてものはすぐにつけあがる。身の程を教えてやらんと」


「わかりました。それがあなたのお考えなのですね。詳しい話は、刑部庁舎についてから伺いましょう」


 官吏が牟に縄をかけようとする。牟は弾かれたように腕を振りまわし、抵抗した。


「お、俺を誰だとおもっている! 中都督だぞ、こんな不敬が許されるとおもっているのか!」


 窮した牟はあろうことか、剣を抜いた。酩酊しているのもあって、自制がきかなくなっている。官吏はため息をつきながら、でたらめな剣撃を避け、の腹に勢いよく蹴りをいれた。


「ぐあっ……な、なにをす、る」


 細い脚の割にその打撃は重かった。

 腹を押さえて蹲る牟を睥睨して、官吏はにっこりと微笑んだ。


「躾ですよ」


 さらにわき腹にもう一撃。牟は悶絶して倒れる。


「痛みますか? ですが胡琉璃が経験した痛みはこんな程度ではなかったはずです。もっとも、これから軽ければ杖刑にて百敲、重ければ鼻を落とすか、膝蓋骨を取るか――重刑に処されるでしょうね。あなたがいう躾がどのようなものか、その身をもって味わうといい」


 最後だけ、官吏は微笑を落として、酷薄な眼をする。

 酔いのさめたは身を竦ませて、項垂れるほかになかった。

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