26 死に逝くときだけは微笑まずに
屍 《したい》を扱う
再調査からひと晩経ち、今朝がた
ひと晩続いた嵐は朝になってやみ、穏やかな日暮れが訪れていた。
離宮は後宮の
紫蓮は哀悼の想いを乗せた青笹の舟を、水路に浮かべた。
「
流れていく笹舟を眺めつつ、紫蓮は遠き日に想いを馳せる。
いつだったか、
「
花が綻ぶような微笑みを振りまきながら、
「ふふ、くそくらえっておもわない?」
裙のすそが風を巻きあげて拡がる。
琉璃がたいせつそうに胸もとに抱き締めていたのは書物だ。文官でも頭をかかえるほどに難解な経書である。舞も踊れず、歌も歌えず、筝も弾けず。そんな彼女がじつは文官と渡りあえるほどの知識と明敏さを持っていたことを、紫蓮は知っていた。
彼女ならば、科挙試験でもかんたんに通るだろう。だが、勉強は男のもので、女は試練を受けることもできない。
「どうしても許せないことがあって、我慢できないときはね、誰もいないところにいってお腹の底から声をあげて叫ぶの。ばかやろう、くそくらえ、ってね」
可愛らしい妃の唇から男も真っ青な罵声が飛びだす。
「ふふふっ、意外にすっきりするのよ」
唇に指をあてて「内緒よ」と彼女は鈴のような声を奏でる。こんなときでさえ、彼女は微笑を絶やさない。そのことが、紫蓮はなぜだかとてもせつなかった。
だからせめて、死に逝くときくらいは。
「あの」
背後から声を掛けられて、紫蓮が振りむく。
穏和な顔をした育ちのよさそうな宦官がたたずんでいた。
「きみは確か、
絳が紫蓮のもとに依頼にきたとき、屍をみるなり悲鳴をあげて逃げていった宦官だ。
「
「そうか、きみが胡家の五男か。琉璃から話は聴いていたよ。家族のなかでも、きみだけが彼女にやさしかったと」
「姐が、僕の話を……そうでしたか」
哀しいのか、嬉しいのか、ふたつの想いがせめぎあったように微苦笑をして、靑靑は視線をふせた。
「……女は
「そうだね。でも、だからといって、男にはかならずしも家があるのかな」
「
宦官になるとは家畜に落ちることだ。
それをわかって、親が、息子にそれを強いるのだ。
「女だから、とか。男だから、とかじゃないよ。不条理に虐げられていいものなんか、いないんだよ。女だから殴られていいはずもないし、男だから蹴られてつらくないわけがない。誰だって傷ついたら、血が滲む。こころでも、からだでもね。違うかな」
「あっ、あわわ、ごめ、ごめんなさい」
慌てて靑靑は袖でこするが、涙はとまらず頬をつたい落ちた。嗚咽をこぼしながら、彼は震える声をしぼりだす。
「
「そうだよ」
「もう、あんなふうに微笑まなくて、いいですね?」
あんなふうに傷だらけになって。
「ああ、そうさ」
彼女は絶えず、微笑んではいたが、ほんとうは笑ってなどいなかった。
造り物ならばまだ。だが、あれは呪縛で、永遠に終わらぬ冬だった。季節を違わずに咲き続けろと強いられて、寒さのなかで凍りついてしまった。融けることのない微笑は死んだ花だ。
「だからね、これからは笑えるはずだよ。こころから、ね」
紫蓮は
声をあげ、靑靑が泣き崩れる。
「姐を、やすらかに葬ってくださって、ありがとうございます」
彼女は不遇な
それは、救いではないけれど。
報いにはなる。
紫蓮には、死後のことはわからない。
だからこれは、遺された者にたいする祈りだ。愛する
笹舟に蛍の火がほつと、燈る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます