26 死に逝くときだけは微笑まずに

 屍 《したい》を扱う姑娘むすめの指が青笹を摘み、舟を折る。


 廊子えんがわに腰かけて、紫蓮シレンは黄昏の風に吹かれていた。

 再調査からひと晩経ち、今朝がた 勇明ユウメイの有罪が確定した。これによって、紫蓮は死体損壊の罪が晴れ、離宮に帰ってきていた。


 ひと晩続いた嵐は朝になってやみ、穏やかな日暮れが訪れていた。


 離宮は後宮のはずれの林のなかにあるというのもあって、日が落ちるのが早い。離宮の裏手にある水路では宵の帳を待たずして、蛍の群れが舞っていた。青く燃ゆる蛍火がゆらゆらと水鏡に映る。


 紫蓮は哀悼の想いを乗せた青笹の舟を、水路に浮かべた。


一路走好逝ってらっしゃい


 流れていく笹舟を眺めつつ、紫蓮は遠き日に想いを馳せる。

 いつだったか、 琉璃ルリがこんなことを尋ねてきた。


三従さんじゅうって知ってるかしら? 家にあっては父親に従い、しては夫に従い、老いては子に従う――それが婦人のありかたなんですって」


 花が綻ぶような微笑みを振りまきながら、 琉璃ルリは振りかえった。


「ふふ、くそくらえっておもわない?」


 裙のすそが風を巻きあげて拡がる。

 琉璃がたいせつそうに胸もとに抱き締めていたのは書物だ。文官でも頭をかかえるほどに難解な経書である。舞も踊れず、歌も歌えず、筝も弾けず。そんな彼女がじつは文官と渡りあえるほどの知識と明敏さを持っていたことを、紫蓮は知っていた。


 彼女ならば、科挙試験でもかんたんに通るだろう。だが、勉強は男のもので、女は試練を受けることもできない。


「どうしても許せないことがあって、我慢できないときはね、誰もいないところにいってお腹の底から声をあげて叫ぶの。ばかやろう、くそくらえ、ってね」


 可愛らしい妃の唇から男も真っ青な罵声が飛びだす。


「ふふふっ、意外にすっきりするのよ」


 唇に指をあてて「内緒よ」と彼女は鈴のような声を奏でる。こんなときでさえ、彼女は微笑を絶やさない。そのことが、紫蓮はなぜだかとてもせつなかった。


 だからせめて、死に逝くときくらいは。


「あの」


 背後から声を掛けられて、紫蓮が振りむく。

 穏和な顔をした育ちのよさそうな宦官がたたずんでいた。


「きみは確か、 コウの……」


 絳が紫蓮のもとに依頼にきたとき、屍をみるなり悲鳴をあげて逃げていった宦官だ。


靑靑ショウシュウといいます。妃を――あねを葬っていただき、ありがとうございました」


「そうか、きみが胡家の五男か。琉璃から話は聴いていたよ。家族のなかでも、きみだけが彼女にやさしかったと」


「姐が、僕の話を……そうでしたか」


 哀しいのか、嬉しいのか、ふたつの想いがせめぎあったように微苦笑をして、靑靑は視線をふせた。


「……女は三界さんかいに家なしというのは、ほんとうなんですね」


  琉璃ルリは実家では親に微笑を強いられて心を壊され、後宮では妃たちから爪弾きにされ、婚家では暴力にさらされて命までも奪われた。


「そうだね。でも、だからといって、男にはかならずしも家があるのかな」


 紫蓮シレンは青笹を摘み、またひとつ、舟を折りはじめた。


五男きみが宦官になることを、彼女は悔やんでいたよ。施術が失敗すれば、命を落とすこともあるからね」


 宦官になるとは家畜に落ちることだ。

 それをわかって、親が、息子にそれを強いるのだ。


 靑靑ショウシュウはこぶしを握り締め、言葉をのむ。彼はまだ幼さを残しているが、宦官になって宮廷にあがり、いろんな経験を経てきたはずだ。つらかったことも悔しかったこともあるだろう。


「女だから、とか。男だから、とかじゃないよ。不条理に虐げられていいものなんか、いないんだよ。女だから殴られていいはずもないし、男だから蹴られてつらくないわけがない。誰だって傷ついたら、血が滲む。こころでも、からだでもね。違うかな」


 紫蓮シレンの言葉に靑靑ショウシュウがぶわっと涙をあふれさせた。


「あっ、あわわ、ごめ、ごめんなさい」


 慌てて靑靑は袖でこするが、涙はとまらず頬をつたい落ちた。嗚咽をこぼしながら、彼は震える声をしぼりだす。


琉璃ルリねえはようやっと、ほんとうはつらかったんだって訴えることができたんですね。不条理に怒ることも、できたんですね」


「そうだよ」


「もう、あんなふうに微笑まなくて、いいですね?」


 あんなふうに傷だらけになって。


「ああ、そうさ」


 彼女は絶えず、微笑んではいたが、ほんとうは笑ってなどいなかった。

 造り物ならばまだ。だが、あれは呪縛で、永遠に終わらぬ冬だった。季節を違わずに咲き続けろと強いられて、寒さのなかで凍りついてしまった。融けることのない微笑は死んだ花だ。


「だからね、これからは笑えるはずだよ。こころから、ね」


 紫蓮は廊子えんがわはしに膝をつき、哀悼あいとうの舟をながす。笹に乗せた想いが、黄泉の葬頭河そうずかに届くことは、なくとも。


 声をあげ、靑靑が泣き崩れる。


「姐を、やすらかに葬ってくださって、ありがとうございます」


 彼女は不遇な姑娘むすめだった。だが、愛されていた。ちゃんと愛されていたのだと紫蓮シレンは安堵する。


 それは、救いではないけれど。

 報いにはなる。


 紫蓮には、死後のことはわからない。

 だからこれは、遺された者にたいする祈りだ。愛するあねがいなくなっても、宮廷で争い続けなければならない靑靑ショウシュウのための。


 笹舟に蛍の火がほつと、燈る。

 微睡まどろむようにたゆたいながら、笹舟は遠ざかっていった。

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