15「あなたは死に縛られている」

 夜降よくだちに月が、落ちた。


 星あかりだけが微かにともるなか、紫蓮シレンのもとに招かれざる客人きゃくじんがあった。


 風もないのに、燈火とうかが揺らいだ。壁にもたれるようにすわって、医刀いとうを洗浄していた紫蓮シレンは水桶から視線をあげる。


「こんな時刻に妃の臥室しんしつにくるなんて、不躾ぶしつけな男だね、きみは」


 振りかえれば、予想どおり、コウがたたずんでいた。


「依頼かな」


「いえ、頼み・・があり、参りました」


 彼の眼が昏く燃えているのをみて、紫蓮シレンは唇の端を結んだ。


「宮廷は穢れています」


 コウは響きのよい声を張りあげた。


「権力者にとって都合のよい律令ばかりがつくられ、財は富めるものに貪られ、民は貧富の格差に喘いでいます。罪人であろうと、賄賂を渡すか、貴族ならば処されることもなく、かわりに身分の低いものが無実の罪で殺されていく――あなたは、知っていますよね?」


「ああ、そうだね。そのとおりだよ」


 刑部省けいぶしょう大理寺だいりじもすでに義を損なった。


「不義をただすべき皇帝もまだ八歳になったばかりで幼い。それにつけこんで……いえ、違いますね。三歳の幼童おさなご竜倚ぎょくざにつけたところから、奴らの侵蝕は始まった」


 絳は声を落とすことなく、続けた。


皇太后こうたいごうか、ほかのものかはわかりませんが、裏で糸をひいているものがいます。ともすれば、先帝陛下の死から、すでに」


 先帝の死、という言葉を聴いた一瞬。

 絶えず、張りつめていた紫蓮の眼差しが、揺らいだ。


「陛下の死は異様だった。頬がひきつれ、瞼はねじまがり、唇がひずみ、おもかげもないほどに竜顔かおが崩れて、酷い有様でした」


 紫蓮は唇をかみ締める。


「誰もが祟りだといった――陛下はその夏、民の集落を焼き払うという、これまでの穏やかさからは考えられないような暴挙に及び、まわりに強い不信感を抱かせていましたから」


 だが、祟りなどはない。


 死者の魂は、ただ黙するのみだ。

 あるのは暗がりでうごめき続ける生者の思惑だけ。


「……それを、僕に解明しろというのかな」


「解明ではなく、証明です」


 つまりは、皇帝が暗殺されたという証拠をつかめということだ。


「危険をはらむことです。ですが、あなたならば」


 コウは助けをもとめるように腕を差しだす。


「あなたは死と語ることでき、なおかつ――先帝陛下の姑娘むすめだ」


 彼女は紫の眼をゆがめた。


 宮廷において、スイ紫蓮シレン帝姫ていきだという事実は、意識して隠されているわけではなかった。だが、後宮でも最も身分の低いめかけが産んだ姑娘むすめだ。もとから廃されているようなもので、彼女を姫として扱うものはいなかった。


「……先帝は、紫蓮シレンなんてという卑賎ひせん姑娘むすめがいたことも、とうにわすれていただろうけれどね」


 怨みごとをこぼすように紫蓮がいった。

 

  風が吹きつけ、窓をおおっていた帳をごうと膨らませる。それはどこか、火が燃えさかるのとも似ていた。熱のないくらい火だ。


 コウが掛けるべき言葉を失っている隙をつき、紫蓮シレンはたたみかけた。


「先帝のなきがらはすでに埋葬された。しかばねは雄弁に語れども、骨はめったに語らない。僕には確かめようがないし、関係のないことだよ」


「ですが」


 紫蓮の眼差しは凍てついている。彼女は絳を睨みつけながら、拒絶する。


「諦めてくれたまえ、きみの頼みは聴きいれられない」


 一拍を経て、絳は取り繕うように微笑した。


「わかりました。今晩はひきさがります。ですが――」


 絳は紫蓮に触れるか触れないかのぎりぎりに腕を伸ばして、壁に身を寄せた。壁ぎわにいた紫蓮は捕らえられるかたちになる。


「な、にを」


「あなたは、死を愛し、死に愛されている」


 絳は低く鼓膜に息を吹きこむように囁きかけてきた。


「それは、死に縛られているということですよ。あなたがどれだけ先帝を怨んでいようと、あるいは怨んでおられるからこそ、死のほうがあなたを絡みとって、離さないはずだ」


 呼吸もできず、双眸ひとみを強張らせる紫蓮にたいして、絳は睦言むつごとのように続ける。


「あなたは、先帝陛下の死に呪縛されている」


「……!」


「ふふ、先帝を怨んでおられるのですね。……僥倖ぎょうこうだ」


 心から嬉しそうにコウはゆらりと、唇をゆるめた。


「……なぜ、笑うんだい」


「さて、なぜでしょうか」


 絳が歓ぶときはいつだって、紫蓮には理解できない理由わけがある。

 いまだってそうだ。


 例えば、紫蓮が父親たる先帝を愛していて、死の謎を解いて報復をしたいといいだせば、絳の思惑どおりにすべてが動き、歓喜するのも理にかなう。だが、紫蓮は彼の頼みを拒絶した。


 それなのに、なぜ。


「強いていうならば、そうですね。あなたのことが、さらに愛しくおもえたから、でしょうか」


 彼はさながら、不知火しらぬいだ。

 燃えていて、明るいはずなのに、現実にはそんなものは何処にもない。近寄ることもできず、触れることもできない幻のひかり。つかみどころがないというよりは、つかむことのできない虚ろさを感じる。


「つまらない冗談は――」


「冗談ではありませんよ。僕はあなたには誠実でありたいとおもっています。言ったでしょう? はじめて好きになった姑娘ひとにきらわれたくないんですよ」


 それでいて、彼はこの期におよんでも、紫蓮に触れることだけは、しないのだ。指先ひとつ、彼女にかすめることがないよう、神経を張りつめているのがわかる。


 誠実でありたいといった言葉を、実証するように。


「あなたはきっと、僕とおなじだ」


 絳はそういうと紫蓮から身を離し、背をむけた。


「ああ、ひとつだけ、伝えさせてください――先帝があなたがたをわすれたことはありませんでしたよ」


 なさけのようで、呪詛のような。

 言葉ひとつを残して、絳は宮を後にしていった。


 残された紫蓮は崩れるように壁にもたれる。

 静まりかえった殿舎に死んだ花のを乗せた風だけが吹き抜ける。紫蓮は額をおさえ、呻くようにつぶやいた。


「なんで、いまさら……」


 想いださせるのか。

 五年前のことは、とうに終わったはずだったのに。


 そう考えながら、ほんとうは紫蓮はわかっていた。終わってなどいない。ほんとうに終わっていたら、夜ごとの夢に現れたりはしない。


 紫蓮はいまだ、ふたつの死に縛られている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る