20 怒りの屍

 琉璃ルリしかばねはきちんと納棺されて、離宮に運びこまれてきた。

 蓋を外す。現れた女の顔は死んでもなお、完璧な微笑を湛えていた。


「やあ、久し振りだね」


 紫蓮は親友と再会したような口振りで、物言わぬしかばねとむかいあった。


 コウからは病死だったと報告された。

 琉璃ルリは、春の終わりごろから喘息が酷くなって、著しく体調を崩していたという。

 朝になっても起きてこないため、女官が臥房しんしつに声をかけにいったところ、すでに事切れていたそうだ。

 事故ではなく病死ということもあって、したいに損傷はなかった。だが、あれほど綺麗だった肌は死斑しはんに侵蝕されている。

 発見時、琉璃ルリは床に膝をつき、背を折りまげて臥榻しんだいに上身を乗せるようなかたちでうずくまっていたとか。臥榻にうつぶせに倒れ、胸部と腹部を長時間にわたり圧迫していたためか、死斑しはんは背だけではなく腹や胸にまで拡がっている。


 人は、死ぬものだ。あとはどう死んだか、だ。


 死斑しはんを指圧する。

 背部は圧迫すればすぐに、腹部は体重を掛ければ死斑が退色した。


「死後十二時間は経過、かな」


 死斑とは循環の停まった血液が遺体下部に沈滞して、皮膚組織に浸透することで起きる。死んでから五時間ほどだと死斑しはんの定着も進んでいないので、指圧することで斑紋はんもんは薄くなる。

 背部にくらべて腹部の死斑の定着が進んでいるということは、彼女は死後、七時間ほどは臥榻しんだいに倒れていたと考えられる。そのあと、遺体があおむけに動かされたので、背にも死斑が拡がったのだ。


「死亡推定時刻は昨晩の鶏鳴(午前二時)だね。眠っていて、異常を感じて起きだしたはいいが、女官たちを呼びにいくこともできず事切れたのかな」


 唇はすでに潤いをなくして、しぼみはじめていた。だが、口端だけは縫いつめたようにあがっている。死後は頬などがゆるみ、表情がなくなっていくのが常識だというのに。


 彼女は息絶えたあとも、親の呪詛に縛られているのか。


「それとも、嫁いださきでは、ちゃんと幸せだったのかな」


 いまから五年前、先帝が崩御して後宮がひらかれたとき、琉璃ルリは変わらずに微笑みながら「嫁ぐことになったの」といった。


 相手は勇明ユウメイという武官で、役職は中都督ちゅうととくだという。

 中都督ちゅうととくといえば、宮廷や都の治安維持を掌る官職だ。暴動の鎮圧や災害時の対処にあたる軍事機関の長官である。

 つまり、そうとうに身分が高い。


「幸せになれるかしら」


 琉璃ルリはつぶやいた。

 言葉の端から心細さがにじむ。


 まともに会ったこともない男に嫁ぐのだ。十七歳の身で。

 懸念がない、はずがない。

 励ますこともできず。なぐさめることもできず。紫蓮は言葉を捜し続けて、想ったことをひとつ、つぶやいた。


「……あなたは、幸せになるべきひとだと、僕はおもうよ」


 それは、ともすれば、祈りだったのだ。死にたいして祈らない紫蓮の。せめてもの。


 別れの時を想いだしながら、紫蓮はやさしく、死斑しはんをなぞる。唐突に違和感をおぼえた。なにが、どう、というわけではない。検視を繰りかえしてきた彼女の、勘だ。

 腹部の死斑に指を乗せた。


「これは……」


 腹部の一部だけ、どれだけ指圧しても、死斑が消退しなかった。

 瞳を強張らせ、紫蓮は医刀いとうを取る。


 ひと息に琉璃の腹を割いた。


 手套てぶくろをはめ、腹腔ふっこうに指を差しいれる。慎重にじんを取りだした紫蓮は息をのむ。強く唇をかみ締めたが、こらえきれずに涙がひとつ、こぼれた。


「そうか、そうだったのか、…………つらかったね」


 いつだって、彼女の哀しみにかなうなぐさめなんか、想いつかず。

 だが、たったひとつ――死化粧妃しげしょうひにだけ、できることがある。


「約束は、果たすよ」


 紫蓮シレンの眼が、瞋恚しんにに燃えた。




           ✦

 

 

 都にある武官の邸では、朝から盛大な祭りが催されていた。

 院子なかにわでは妓女ぎじょが舞を披露し、葬礼相声そうれいそうせいという漫才師が賑やかに弁舌を振るっている。食卓には御馳走ごちそうがならび、日も高いうちから黄酒おうしゅが振る舞われていた。軒から提げられた垂れ幕は、白。


 祭り――いや、これは葬礼そうれいだった。


 中都督である勇明ユウメイの妻が昨日、逝去したのだ。


 斉においては、大勢の人が葬礼に参列するほどに家の権威があがると考えられる。よって催物もよおしものを執りおこない、見境なく参列者を寄せていた。騒ぎを聴きつけたものがのべつ幕なしに群がって、邸の敷地に収まりきらずに塀の外側にまであふれるほどだ。勇明ユウメイはたいそう満足げで、妻の死を嘆いている様子はまったくといっていいほどになかった。


「旦那様、そろそろ開棺となります」


「ふむ」


 妻の遺言書に書かれていたとおり、いたいの修復は後宮の死化粧師しげしょうひに依頼した。

 かねてから、後宮の死化粧師は優秀だという噂は聴いていた。準備でばたついていたため、後宮から帰ってきたひつぎはまだ確かめていなかったが、支障はないだろう。

 勇明ユウメイは咳払いをして声を張りあげ、祭文を読む。


 続けてこう、うながした。


「最愛の妻。胡琉璃コ ルリ。彼女を妻に娶ったことは私の最大の幸福であった。お集まりくださった皆様がたも妻の冥福をお祈りください」


 哀歌が奏でられ、それにあわせて哭女なきめという演者が大声をたてて号泣を始める。参列者の同情を誘うためだ。


 ひつぎが、ひらかれた。


 花を捧げようとひつぎを覗いた参列者たちが、絶叫した。

 腰を抜かすもの、列にならんでいたものを突きとばして逃げだすもの、なにがあったのかと身を乗りだすものと、あたりはいっきに桶をかえしたような喧騒につつまれた。


「な、なんだ、いったい」


 後れて柩を覗きこんだ勇明ユウメイが絶句する。


 琉璃ルリの死に顔は鬼のような憤怒を漲らせていた。

 眼を見張り、眉をはねあげ、歯が剥きだしになるほどに口をあけている。今にも柩からよみがえり、喉もとを喰い破らんばかりの鬼気せまるさまだ。


「祟りだ!」


「呪われちまうぞ!」


 怨嗟に満ちたその表情をみた参列者たちは恐慌をきたして、逃げだす。の親族は震撼してへなへなと崩れ、気絶するものまでいた。妓女も演者も漫才師まで先を争って、邸の院子なかにわから飛びだしていった。


「どうなっているんだ、これは!」


 祭りのような賑わいは一瞬にして、静まりかえった。面子めんつを潰された牟だけが恐怖をも凌ぐ屈辱感に打ち震え、喚きたてる。


死化粧師しげしょうひの仕業か!? 許さぬぞ! 俺に恥をかかせよって」


 家の女官たちは青ざめながら、互いに視線をかわす。震える拳を握り締めて、彼女たちは一様にうつむいた。




           ✦

 


 

 死してなお、奇麗な蝶だった。


 宵のとばりに似た黒を基調とした翅に青や緑のきらめきを帯びている。

 房室へやに迷いこんだはいいが、外に帰れなくなってしまったのか、格子窓の側で息絶えていた。


「可哀想に。もういちど、青空を舞いたかっただろうにね」


 紫蓮シレンは蝶の死骸をつかって、標本箱をつくろうときめた。織錦おりにしきを想わせる縞紋様が崩れて、ぼろぼろになっていく様を想像するだけでも、胸がきゅうと締めつけられる。

 せめて綺麗なかたちで残したかった。


 針のついた特殊な器具に沸かした湯をいれ、死骸に挿してわずかに注入する。こうすると死後硬直がとけるので、とじかけていた翅を拡げ、展翅板てんしばんに張りつける。


「きれいだね。標本箱のなかは群青あおにしてあげよう。雲ひとつない青空の夢をみられるように」


 飾られて愛でられることが幸せなのか。土にかえるほうが幸せなのか。紫蓮にはわからない。だが葬礼そうれいとはそもそも残されたものが未練を絶ち、安堵するために執りおこなうものだ。


 したいは語れど、死者は語らない。

 喜んでも、嘆いてもくれず、許すこともなければ、恨んでくれもしない。


「これで、よかったのかな」


 蝶の死骸に親友の姿を重ねて、紫蓮がこぼす。


 そのときだ。昼さがりの静寂を破って、乱暴な足音が押し寄せてきた。


 ああ、きたか。

 紫蓮は眉ひとつ動かさず、まつげをふせる。


スイ紫蓮シレンはいるか!」


 声を荒らげて、捕吏ほりが踏みこんできた。


「そんなに大声をださなくとも聴こえているよ。まったくもって、騒々しいね」


 紫蓮は振りかえりながら、ため息をつく。

 こうなることはわかっていた。いまさら臆することもなかった。


スイ紫蓮シレン! 勇明ユウメイの妻である琉璃ルリしたいを損壊し、死をけがした罪で捕縛する!」


「へえ」


 紫蓮は唇をゆがませ、捕吏に微笑みかけた。


「死をけがした、ね。そこだけは、訂正させてもらうよ。琉璃ルリの死はすでに穢されていた。その証拠に彼女は病死ではなく――」


 言いかけたところで、むちが振りおろされた。肩を想いきり打擲ちょうちゃくされた紫蓮シレンは声にならない声をあげ、倒れこむ。


「っ……は、はは、しかばねの声なんか聴きたくない、か」


 また一撃。背に強い打撃をうけ、紫蓮が息をつまらせて噎せこむ。拡がった髪を踏みつけ、捕吏が唾棄する。


「底気味の悪い妖妃ようひめ」


 蔑みに満ちた視線が突き刺さる。

 いつだってそうだ。誰も彼もが紫蓮のことを嘲り侮って、検視結果に耳を傾けてくれたものなどはいなかった。


 ああ、でもひとりだけ。


 コウは違った。

 彼だけは彼女の語る死者の声を聴いてくれた。聴くだけではなく、真実かどうかを検証し、再調査までしてくれた。


 だからなのか。


 宮廷なんてこんなものだと諦めてきたのに、いまさらになって胸に風が吹きこむのは。

 豊かな髪をつかまれ、紫蓮は捕吏ほりに連行されていく。


 物も言わぬ蝶の標本が、ぽつりと哀しげに残された。

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