20 怒りの屍
蓋を外す。現れた女の顔は死んでもなお、完璧な微笑を湛えていた。
「やあ、久し振りだね」
紫蓮は親友と再会したような口振りで、物言わぬ
朝になっても起きてこないため、女官が
事故ではなく病死ということもあって、
発見時、
人は、死ぬものだ。あとはどう死んだか、だ。
背部は圧迫すればすぐに、腹部は体重を掛ければ死斑が退色した。
「死後十二時間は経過、かな」
死斑とは循環の停まった血液が遺体下部に沈滞して、皮膚組織に浸透することで起きる。死んでから五時間ほどだと
背部にくらべて腹部の死斑の定着が進んでいるということは、彼女は死後、七時間ほどは
「死亡推定時刻は昨晩の鶏鳴(午前二時)だね。眠っていて、異常を感じて起きだしたはいいが、女官たちを呼びにいくこともできず事切れたのかな」
唇はすでに潤いをなくして、しぼみはじめていた。だが、口端だけは縫いつめたようにあがっている。死後は頬などが
彼女は息絶えたあとも、親の呪詛に縛られているのか。
「それとも、嫁いださきでは、ちゃんと幸せだったのかな」
いまから五年前、先帝が崩御して後宮がひらかれたとき、
相手は
つまり、そうとうに身分が高い。
「幸せになれるかしら」
言葉の端から心細さがにじむ。
まともに会ったこともない男に嫁ぐのだ。十七歳の身で。
懸念がない、はずがない。
励ますこともできず。なぐさめることもできず。紫蓮は言葉を捜し続けて、想ったことをひとつ、つぶやいた。
「……あなたは、幸せになるべきひとだと、僕はおもうよ」
それは、ともすれば、祈りだったのだ。死にたいして祈らない紫蓮の。せめてもの。
別れの時を想いだしながら、紫蓮はやさしく、
腹部の死斑に指を乗せた。
「これは……」
腹部の一部だけ、どれだけ指圧しても、死斑が消退しなかった。
瞳を強張らせ、紫蓮は
ひと息に琉璃の腹を割いた。
「そうか、そうだったのか、…………つらかったね」
いつだって、彼女の哀しみにかなうなぐさめなんか、想いつかず。
だが、たったひとつ――
「約束は、果たすよ」
✦
都にある武官の邸では、朝から盛大な祭りが催されていた。
祭り――いや、これは
中都督である
斉においては、大勢の人が葬礼に参列するほどに家の権威があがると考えられる。よって
「旦那様、そろそろ開棺となります」
「ふむ」
妻の遺言書に書かれていたとおり、
かねてから、後宮の死化粧師は優秀だという噂は聴いていた。準備でばたついていたため、後宮から帰ってきた
続けてこう、うながした。
「最愛の妻。
哀歌が奏でられ、それにあわせて
花を捧げようと
腰を抜かすもの、列にならんでいたものを突きとばして逃げだすもの、なにがあったのかと身を乗りだすものと、あたりはいっきに桶をかえしたような喧騒につつまれた。
「な、なんだ、いったい」
後れて柩を覗きこんだ
眼を見張り、眉をはねあげ、歯が剥きだしになるほどに口をあけている。今にも柩からよみがえり、喉もとを喰い破らんばかりの鬼気せまるさまだ。
「祟りだ!」
「呪われちまうぞ!」
怨嗟に満ちたその表情をみた参列者たちは恐慌をきたして、逃げだす。
「どうなっているんだ、これは!」
祭りのような賑わいは一瞬にして、静まりかえった。
「
✦
死してなお、奇麗な蝶だった。
宵の
「可哀想に。もういちど、青空を舞いたかっただろうにね」
せめて綺麗なかたちで残したかった。
針のついた特殊な器具に沸かした湯をいれ、死骸に挿してわずかに注入する。こうすると死後硬直がとけるので、とじかけていた翅を拡げ、
「きれいだね。標本箱のなかは
飾られて愛でられることが幸せなのか。土に
喜んでも、嘆いてもくれず、許すこともなければ、恨んでくれもしない。
「これで、よかったのかな」
蝶の死骸に親友の姿を重ねて、紫蓮がこぼす。
そのときだ。昼さがりの静寂を破って、乱暴な足音が押し寄せてきた。
ああ、きたか。
紫蓮は眉ひとつ動かさず、
「
声を荒らげて、
「そんなに大声をださなくとも聴こえているよ。まったくもって、騒々しいね」
紫蓮は振りかえりながら、ため息をつく。
こうなることはわかっていた。いまさら臆することもなかった。
「
「へえ」
紫蓮は唇をゆがませ、捕吏に微笑みかけた。
「死を
言いかけたところで、
「っ……は、はは、
また一撃。背に強い打撃をうけ、紫蓮が息をつまらせて噎せこむ。拡がった髪を踏みつけ、捕吏が唾棄する。
「底気味の悪い
蔑みに満ちた視線が突き刺さる。
いつだってそうだ。誰も彼もが紫蓮のことを嘲り侮って、検視結果に耳を傾けてくれたものなどはいなかった。
ああ、でもひとりだけ。
彼だけは彼女の語る死者の声を聴いてくれた。聴くだけではなく、真実かどうかを検証し、再調査までしてくれた。
だからなのか。
宮廷なんてこんなものだと諦めてきたのに、いまさらになって胸に風が吹きこむのは。
豊かな髪をつかまれ、紫蓮は
物も言わぬ蝶の標本が、ぽつりと哀しげに残された。
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