第二部 怒りの屍

17 だから妖妃は化粧を施す

 後宮に盛夏がきた。

 軒端のきばに飾られた風鈴の音までもが、涼を運ぶどころか暑苦しく感じるほどの酷暑が続き、後宮の華たる妃妾ひしょうたちもしおれはじめていた。

 それでも、ひらかれた後宮に華を欲する男たちが途絶えることはない。

 蝶や蜂が舞うかぎりは、咲き続けるのが華の役割だとばかりに妃妾たちは意地でも着飾っていた。だが、女官たちにたいする態度は刺々しく、暑さでいらだっていることは疑いようもなかった。それは女官も同様だ。


「これだから、離宮の外にでるとロクなことがないんだよ……」


 スイ紫蓮シレンはうんざりとしていた。


 離宮には月に一度、さまざまな物が支給されるようになっている。食物から死化粧に必要な備品まであるが、今朝は新たな唇紅くちべに眼影アイシャドウなどが入荷するはずだった。だが、よりにもよってそれらが荷から抜けており、紫蓮は後宮庁舎こうきゅうちょうしゃまで取りにいかねばならなくなった。

 ひきこもり妃たる紫蓮シレンにとっては、昼から離宮りきゅうからでるだけでも、燃えさかる火を渡れといわれるほどにつらいことだったが、帰りにとんでもない現場にいあわせてしまったのである。


「こんなものつけて、ばっかじゃないの」


「あんたなんか年老いて後宮からつまみだされるまで、御渡りなんかあるわけないわよ、この不細工」


 女官たちが寄ってたかってひとりの女官を取りかこみ、嘲笑っている。女官は髪につけていた紐飾りを取られたらしく「かえしてよ」と叫んでいたが、あろうことか、ほかの女官たちはそれを池に投げ捨てた。


 女官が「あっ」とてすりのない橋から身を乗りだしたところで、側にいた女官が思いきり突きとばす。いじめられていた女官はよろめいて、池に落ちてしまった。


「やだあ、泥だらけできたなあい」


「濡れねずみみたいで、ぴったりだわ」


「溺れちゃえ」


 女官たちは笑いながら、その場から逃げていった。

 落ちた女官は泳ぐのがにがてなのか、睡蓮に足を取られたのか、水を掻きわけてあばれている。

 厄介事には巻きこまれるのはいやだ。さすがに溺死する、なんてことはないだろう。


 紫蓮はそそくさと通りすぎようとしたが、水音に後ろ髪をひかれる。


 いつだったか、紫蓮も池に突き落とされたことがあった。呼吸ができず、もがくほどに藻が絡みついてもうだめかとおもったとき、通りがかった妃が助けてくれたのだ。


「まったく、やれやれだよ」


 紫蓮はため息をつきながら、女官を助けにむかった。

 触れてもだいじょうぶなように手套てぶくろをはめてから、腕を伸ばして声をかける。


「ほら、つかまってごらん」


「なっ、なんで」


「こまっているひとを助けるのに、理窟りくつなんかいらないよ」


 微笑みかければ、女官は安堵して腕をつかんできた。


 だが、わすれてはいけない。紫蓮は運動神経もなく、腕力も握力も猫の手ほどしかないということを。紫蓮は女官をひきあげるどころか、つかまれたとたんに体幹を崩して一緒に池のなかに落ちていった。


 盛大なしぶきがあがる。

 女官は声にならない声をあげたあと、絶叫する。


「ほんとになんで、助けようとしたのよおぉぉ」


 

 …………

 


 けっきょく、紫蓮シレンと女官はなかよくずぶ濡れになって、命からがら一緒に池からあがってきた。

 夏の真昼だったのが幸いした。冬だったら、ふたりとも風邪をひいていたに違いない。


「その……なんだかごめんよ」


「いいわよ、べつに。それに……助けてくれようとしたのは嬉しかったし……まさか、一緒に落ちてくるとはおもわなかったけど」


 女官はあきれながら、ころころと笑った。

 一重の眼がゆるやかにしなって、あがったばかりの細い月を想わせる。頬にあるほくろといい、愛嬌のある顔だちをしていた。


「それにしても、なんであんなにいじめられていたんだい」


「髪飾りつけてたら、ばかにされてさ。もともと、ほかの女官たちから、なかまはずれにされてんの。ほら、あたし、ぶさいくだから」


 女官が自嘲するように笑いを重ねた。今度はひきつれたような笑いかただ。眼もとが強張っていた。


「ぜんぜん、そんなことないけどね」


「やだ、気を遣わないでよ。わかってんの、あたし、眼だってこんな変だし」


「一重なんだね。眼瞼挙筋がんけんきょきんが枝わかれしていないから、瞼板軟骨がんばんなんこつに瞼の皮膚が折りたたまれないというだけだよ。変なところなんてどこにもないけれどね」


「がんけんきょきん? がんばんってなによ」


 聴きなれない用語の連続に女官がにぽかんとなる。


「でも、強いていうならば、化粧があっていないね」


 紫蓮は橋におかれた荷を解いた。


「ちょっと、こちらをむいてごらん」


「な、なになに」


「せっかくだから、施してあげるよ」


 乾いた布で濡れていた女官の顔を拭いてから、紫蓮シレン香粉おしろいをはたいた。まゆずみをひいて、彼女が劣等感をもっている一重ひとえまぶたに眼影がんえいを施していく。


「一重だと眼もとを強調したくなくて、眼影がんえいを薄めにしがちだけれどね、じつは濃いめの眼影でも品のいい印象になるのが一重の特権なんだよ。かわりに華やかな緋色ひいろとか珊瑚色さんごいろあたりを取りいれて、暗くなりすぎないように」


 息のあるものに化粧を施すのはいつ振りだろうか。

 腫れぼったくならないよう、眼もとのべには目頭の部分にぼかしていれ、下睫したまつげのところにはもう一段階、淡めのべにを乗せた。最後に細かなはくを散らす。


「ほら、一重がいっきに華やいだだろう?」


 鏡をみせる。

 女官が息をのんだ。


「うそ、これが、あたしなの?」


 厚ぼったかった一重がすっきりとして、それでいてぱっと雅やかな印象を振りまいている。いっけんすれば近寄りがたい美人感を漂わせているが、微笑すると愛らしく、その落差が魅力的だ。


 感激して、女官はきらきらと瞳を輝かせる。


「これだったら、御渡りも夢じゃないかも」


 斉の後宮にあがった女官に与えられた道は三通りだ。

 年季が明けるまで働き続けるか。女官を統轄する命婦みょうぶにまで昇級して知命ちめい(五十歳)まで勤めあげ、莫大な報酬を貰い退職するか。妻やめかけを捜しにきた高官に寵愛されるか。

 昇進なんてどうでもいいから、高官の妻になって玉の輿こしに乗りたいと考えている女官が殆どだと、紫蓮も噂には疎いなりに聞きおよんでいた。


「そんなに嫁ぎたいものかな。よい官職についているとはいえども、どんな男かもわからないのに」


「だって、条件のいい男をつかまえてこそ、後宮にあがったかいもあるってもんよ。胸を張って家族にも報告できるわ。それにどんな男だろうと、働きもせず麻雀ばくちばっかしてる八百屋の親父とか、貧乏でけちくさい農夫なんかに嫁ぐよりも、ずっと幸せだもの」


「……例えがえらく、なまなましいね」


 女官は地方士族ちほうしぞくや役人といった良家りょうけ姑娘むすめから選ばれるものだ。正確には親が姑娘むすめを差しだすようなかたちだろうか。器量がよければ、後宮についてから女官ではなく妃妾ひしょうになることもある。良家とはいっても地方士族や役人たちは貧しいため、姑娘がよい身分の男に嫁がないかと期待を寄せて送りだすのだろう。


命婦みょうぶになるっていう道もあるけど、努力に努力を重ねて、やっと昇進できるかどうかだもんね。ゼン命婦みょうぶみたいにはとてもなれないわ」


 紫蓮シレンが瞬きをする。後宮で有名な命婦みょうぶなのだろうか。


「あれ、知らないの? 現皇帝陛下の養育係を務めたひとなんだけど」


「残念だけど」


 紫蓮は万年離宮にひきこもっているので、後宮の命婦にも女官にも知りあいがいないどころか、係わることがまず、ない。


「ほんとにすごいひとだったのよ。若い時はたいそうな美女だったらしいけど、身持ちが堅くて、男を近寄らせず蹴散らすくらいだったとか。仕事一徹で、男だったら尚書まで昇進していたでしょうね」


「へえ、そんなひとがいたんだね」


 女の身で仕事一徹か。よほどに強い信念のもとに突き進んでいったひとだろう。


「五年前かな。華々しく退職されて。最後まで格好よかったわ。憧れはするけど、あたしはいい男をつかまえて楽したいなあ」


 できることならね、と女官がため息をついた。


「それはそれで、たくましいことだね」


 紫蓮は苦笑する。


「でも、これでなんとかなるかも。ありがと、こんな眼でも可愛くなるんだってわかって、嬉しかった」


 女官は頬をそめて、幸せそうに眼もとを綻ばせる。


「それはよかったよ。化粧というものは他人のためじゃなくて、自分が自分を好きになるために施すものだと、僕はおもっているからね」


「あなたって、変わっているのね。喋りかたもそうだけど」


「まあね」


 変わっているどころか、後宮の妖妃ようひとまでいわれているのだが、それについては紫蓮は敢えて触れなかった。


「私は珠珠ジュジュよ。服をみるかぎりでは、あなたは妃妾ひしょうよね。あ、敬語のほうがよかったかしら」


「お互いに気楽なほうがいいよ」


「そうよね、あなた、まだちいさいし」


 みるかぎり、珠珠は十九歳くらいだろうか。


「また会えたらいいわね、あっ、あなたの宮つきの女官にしてくれてもいいのよ? たまにお小遣いくれたら、いっぱい働いたげるから」


 ぶんぶんと濡れた袖を振って、珠珠ジュジュは橋を渡っていく。賑やかな女官の声がせみみたいに残る。紫蓮は苦笑を織りまぜたため息をついてから、荷をまとめなおした。


 離宮に帰ろうとおもったのがさきか、後ろから声をかけられる。


紫蓮シレン


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 今晩から第二部連載再始動でございます。

 毎日18時前後に投稿させていただきますので、今後とも紫蓮と絳の活躍を楽しんでいただければ幸甚です。


 お知らせ

「後宮の死化粧妃 ワケあり妖妃と奇人官吏の暗黒検視事件簿」書籍化決定!!

 アース・スタールナさまより 9月2日に発売となります。

 出版に際してかなりの加筆修正をおこなっております。なにより夢子様による表紙絵、挿絵、口絵がとんでもなく素敵ですので、よろしければ書籍版も御手に取っていただければ大変嬉しいです。

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