16  死化粧は残された愛を葬るために

 皇帝が、死んだ。

 いまから五年前の晩夏ばんかのことだった。


 宮廷は嘆きの渦につつまれ、民は皇帝にたいする哀惜あいせきで都を涙の海に沈めた。皇帝の訃報は後宮のはずれにある離宮にも舞い降りたが、帝姫ていひであるスイ紫蓮シレンは庭で死にかけている蜻蛉とんぼを取りとめもなく眺めていた。


 父親が死んだというのに、紫蓮の心にはさざ波すら起こることはなかった。蜻蛉が死んで逝くのと一緒だ。


 紫蓮は産まれてから一度も、先帝と逢ったことがなかった。

 だが、母親は皇帝がいかに素晴らしいひとかと繰りかえし語っては娘に聴かせてきた。仁徳じんとくがあり、奴婢ぬひも士族も分けへだてなく接する度量のあるひとだと。


 母親は、皇帝を愛していた。先帝の馬車が通ると、一瞬だけでもすがたがみえないかと廻廊から身を乗りだすほどに。

 それでも、先帝の馬車が離宮を訪れることは、ただの一度もなかった。


 だから、紫蓮が実の父親に逢ったのは、彼が死んだときだった。


 訃報が届き、幾ばくかの後に豪奢なひつぎに横たえられて、皇帝のしかばねが担ぎこまれてきた。後宮の死化粧妃であった母親のもとに。

 母親は柩をあけるなり、悲鳴をあげて泣き崩れた。母親の取り乱した様に紫蓮は肝を潰して、思わず柩のなかを覗きこんだ。


 そこには地獄の亡者よりも惨たらしいしたいがあった。


 紫蓮は母に死化粧を教わりながら、様々な屍を検視してきた。腐乱しているものもあれば、ばらばらになったものもあった。だが、これほどまでに酷い屍はみたことがなかった。


 顔が、崩れている。


 しかしながら、紫蓮を竦ませたのは凄惨な死に顔ではなく――皇帝の眼だった。ひきつれた瞼から剥きだしになった眼だけが。


(紫だ)


 紫蓮と一緒だった。


 ぼうぜんとなる紫蓮の横で母親が弾けるようにたちあがり、泣き腫らした瞼を袖でこすった。


 それきり、母親は涙をみせることもなく、皇帝の竜顔かおを復元した。愛しげに微笑みながら語りかけ、夫婦ふたりきりの最後のときを惜しむように死化粧を施す母親の姿は、とても美しかった。


 愛だとおもった。

 母親は、ほんとうに皇帝を愛していたのだと。


 そのときに紫蓮は想った。


 死化粧とは、死者のためのものではない。遺されたものが未練を絶ち、死んだ愛を葬るためのものなのだと。


 だが、母親は復元の手順はおろか、復元した皇帝の屍も、紫蓮にみせることはなかった。なぜ、みせなかったのか。いまとなってはわからない。


 紫蓮の母親が死んだのはそれから七日後のことだった。


 

 …………


 

 燈火あかりの絶えた房室へやのなかでうずくまり、昔のことを想いだしていた紫蓮シレンがか細い息をついた。

 手が微かに震えている。


 絳がなにを考えているのかはわからない。だが、彼は紫蓮の知らないなにかを知っている。


「は……コウ。きみのいうとおりだよ、僕は」


 紫蓮はこれまで五百を越える屍を葬ってきた。だが、たった一度だけ、死化粧に失敗したことがある。最愛の母親の屍を、彼女はきれいに復元することができなかった。

 葬れなかった母親の死と、葬るところを見届けられなかった先帝の死。

 そのふたつが、いまだに紫蓮を呪縛している。



 窓から風が吹きこんできた。花に嵐の予感を漂わせた重い風だ。

 死を愛ずる姑娘と死をさぐる男の命運を暗示するかのごとく、月をなくした天は昏い。

 されども、中天なかぞらでは星がふたつ、陰を退け、瞬いていた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 これにて第一章閉幕となります。

 続きはまた後日に投稿させていただきますので、今後とも「後宮の死化粧妃」をよろしくお願いいたします。

 いただいたレビューがたいへん励みになっております。ほんとうにありがとうございます。


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 かなりの加筆修正をおこなっておりますので、よろしければ書籍版も御手に取っていただければ大変嬉しいです。

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