14 奇人官吏の初恋

 官人かんとの昼はとかく慌ただしい。


 とくに後宮丞こうきゅうじょうは朝から晩まで職務が山積みだった。紫蓮シレンのことが気に掛かって、つい時間を割いてしまったので、今晩は日を跨ぐまで働かないと間にあわなくなりそうだとコウはため息をついた。


 だが、それはすぐに隠しきれない微笑にかわる。

 

(恋に落ちるというのはこうも幸せなきぶんになるものだったのか)


 綏紫蓮――彼女のことを考えるだけでも、頬が熱くなり、ぎゅうと胸を締めつけられる。

 絳はこれまで女人に言い寄られた経験も一度や二度ではなかったが、くだらないとおもうだけだった。きっと、死ぬときまで、恋愛というものは理解できないだろうと諦めていた。


 だが、紫蓮が屍の腹を割いたあのとき、これまでの彼が崩れた・・・


 視線を奪われる、どころではない。たった一瞬で、呼吸も意識も、すべてを彼女に奪われた。酔って眩暈でも起こすようにぐらりと頭が揺れ、指の先端まで痺れた。それほどの衝撃があった。


(産まれてはじめて、ひとをきれいだとおもった)


 聴くだにおぞましいしたいの解剖という禁を破りながら、紫蓮の眼差しは誇らかで、きよらかで、死者にたいする敬意に充ちていた。

 みせかけを飾りつけるだけではなく、腹のなかの汚穢まで浄め、最期の最期まで腐蝕や崩壊から人の尊厳を護ろうとする彼女の慈愛。


 ほかの誰に理解できずとも、絳には――絳にだけは、理解わかってしまった。


 転瞬、胸の底から燃えたぎるような激情があふれてきた。

 たまらなく愛しい――ああ、これが恋かと。紫蓮をずいぶんと戸惑わせてしまったが、あのときいったことに嘘はひとつもなかった。

 

 もっとも、浮かれてばかりはいられない。絳はひと呼吸を経て、きもちを切り替える。

 日が落ちて、人影がまばらになった屋外の裏廊うらつうろを通り、尚書室しょうしょしつにむかっていた絳は背後から声をかけられた。


「君がコウだね」


 初老に差しかかった肥えた男――吏部尚書りぶしょうしょだ。

 吏部りぶとは文官を統轄する部署で、尚書しょうしょはその第一官にあたる。部署は違うが、逮捕された大理少卿だいりしょうけい刑部丞けいぶじょうたるコウと比較しても、かなり階級が高かった。

 絳は袖を掲げ、低頭して挨拶をする。


「再捜査で裁定を覆し、女官の冤罪を解いたとか。いやはや、実に有能な若者で、頼もしいかぎりだよ」


「恐縮です。吏部尚書りぶしょうしょともあろう御方にお褒めいただけるとは」


「だが、君は考えてはみたかね。奴婢ぬひあがりの女官が減るのと、科挙かきょを通った名家の官吏かんりが減るのとでは、どちらの損害のほうが重いか」


 あからさまに釘を刺された。よけいなことをしてくれたなという意が強く感じられて、絳は嗤いだしそうになる。

 愛想笑いを張りつけて、はぐらかす。


「妙なたとえですね。審理しんりされるのは罪人か、無実かのいずれかであるはずですが……不勉強な身ゆえ、吏部尚書りぶしょうしょのお考えを察することができず、失礼いたします」


 吏部尚書が呻り、侮るように眉根をゆがめた。


「ふむ、青いな」


 吏部尚書はろうかを歩きだす。すれ違いざまに声を落として、彼はコウにいった。


「貫けるものならば、貫いてみたまえよ。月のある晩ばかりだといいがね」


 コウは微笑して、優雅に拝揖はいゆうする。


「御忠告、痛み入ります」


 吏部尚書が遠ざかっていってから、ようやくに頭をあげた絳は軒にさがった燈火とうかを睨みつけて、舌をうつ。


「あいにくと産まれた時から月どころか、星もあった試しがないんですよ。くらい路は歩きなれているものでね」


 月がなければ、進めないのはそちらでしょうと喉にからげるように嗤笑ししょうして、彼は官服の裾をさばく。

 風で燈火が揺らぎ、影の群がいっせいに渦をまいた。


 宮廷は敵だらけだ。腹のうちを詮索さぐりあい、不都合な者を失脚させようと騙しあい、策略を張りめぐらせている。

 後宮もまた、しかりだ。

 華やかな暗がりのなか、彼は臆さず、進んでいく。


 その眼には、復讐の火がごうと燃えていた。

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