13 妖妃、妃妾から苛められる

 夏の朝は青紫がかっている。


 翌朝になって、喪に服した柩車きゅうしゃが後宮の橋を渡っていった。


 オウ花琳カリンひつぎは、都にある黄家のもとに運ばれる。黄家は都では知らぬものがいないほどの名声を誇る士族しぞくだ。

 歌媛うたひめであった娘の死を嘆き、多額の財を投じて葬礼を執りおこなうに違いない。


 だが、黄花琳はすでに葬られた。

 彼女を愛し、彼女が愛したひとによって。


一路走好路すがら、どうかやすらかに


 遠くからそれを眺めていた紫蓮シレンは、微かにまなじりを緩めた。蝶のように袖を拡げ、踵をかえす。

 さきほどまではうす昏かったのに、段々と日があがってきた。暑くなるまでに帰ろうとおもったのがさきか。

 紫蓮の頭上から、水が降ってきた。


「まあ、死臭がするとおもったら、死化粧師しげしょうしじゃないの」


「いやねぇ、けがらわしい」


「後宮のなかでけがれをまき散らさないでちょうだいな」


 振りあおげば、二階の窓から妃妾ひしょうたちが顔を覗かせ、嘲笑していた。ずぶ濡れになった紫蓮シレンを指さして、妃妾が嗤う。


「離宮にいれば、こんなことにならなかったのに。身の程も知らずに庭なんかにきたからよ。したいに触れるような女が、妃として後宮におかれているなんて、まったくいとわしいったら」


 侮蔑、嘲弄といったつぶての嵐が、紫蓮にむかって降りしきる。

 だが、紫蓮は眉の端すら動かさなかった。ただ、やれやれとため息をついて、濡れた髪を掻きあげる。


「いとわしいとおもうのならば、僕には構わないことだね。触らぬ神に祟りなしというだろう?」


 髪の帳から覗く紫のひとみが、笑む。

 妖妃ようひという称にふさわしい凄みを漂わせて。


「それとも、祟られたいのかな」


 妃妾たちは背筋を凍りつかせて、わずかに後ろにさがった。

 だが、こんな小姑娘こむすめに臆しているとは想われたくないのか、頬を強張らせながら、喧々と声をあげた。


「なによ、おどすつもりなの? ほら、それも落としておやり」


 からっぽの水桶をかかえていた女官がためらいを覗かせる。だが、妃妾のめいにはさからえず、紫蓮にむかって桶を投げつけてきた。


「っ」


 紫蓮には運動神経がない。

 どう頑張っても、落ちてくる桶を避けられそうにはなく、彼女はぎゅっと身を縮める。


 だが、想像した衝撃は、やってこなかった。


 赤紫の官服が、視界の端で揺れる。

 コウだ。


 彼は剣を抜き、一瞬にして桶を両断した。ふたつに割れた桶が石畳を転がる。


「これはいったい、どういうことですか」


 コウは冷徹な眼差しで妃妾たちを睨みあげた。


 「あ、あれって、後宮丞こうきゅうじょうの……」


「なっ、なによ。ただの遊びじゃない。死臭がしみついていたから、きれいにしてあげようとおもっただけよ」


 官人かんとの登場に妃妾たちは慌てだす。


「遊びですか。姑娘むすめに水をかけ、桶を投げつける――これは傷害罪ですよ」


「どっ、どちらもこの女官がやったことよ」


 妃妾はあろうことか、女官に責任をかぶせた。青ざめて縮みあがっている女官をみて、絳は女官を責めてもしかたがないと諦め、かぶりを振る。


「……再びにこのようなことがあれば、つぎは捕らえます」


「っ……いきましょう」


 妃妾たちがいっせいに逃げていった。彼女らの背が遠ざかってから、紫蓮シレンコウに声をかける。


「厄介事にまきこんで、すまなかったね。これだから、生きているにんげんはきらいなんだよ」


 紫蓮はため息をつきながら、濡れた袖をしぼる。

 ほたほたと髪からは雫が垂れた。朝ということもあって、風がひんやりとしており、濡れた肌は微かに粟だっている。


 絳がそれをみて、遠慮がちに近寄ってきた。


「触れるのはだめでも……外掛はおりだけならば、許されますか」


 そうっと、いたわるように外掛をかけられた。

 想わぬ心遣いに紫蓮は一瞬だけ、肩さきを震わせたが、拒絶することはせずに「ありがとう」と果敢なく微笑んだ。


「でも、気遣うことはないよ。幼いときから、ああいう扱いにはなれているからね。いまは、ましになったほうさ」


 強がりではなかった。


 幼少期から、ずっと繰りかえされてきた。つぶてを投げられたこともあれば、階段からつき落とされたこともある。なれたというよりは、諦めた。離宮をめったに離れないのも、他人にかかわると碌なことにならないからだ。


 紫蓮は窓をみながら、たんたんと続ける。


「かわいそうなひとたちだよ。どれほど死を疎み、穢れだと遠ざけても、結局は彼女たちだっておそかれ早かれ、死に逝くのにね」


 妃妾を含めて、斉では柩の乗った柩車が通りがかると慌てて口を噤み、耳を塞ぐという風習がある。死者の穢れを避けるためだ。


「あるいは、だから、か。死に逝くとわかっているから、おそれるのかな」


 おそれるだけならば、構わないのだ。

 だが、ほとんどのものは、死にまつわるものを蔑む。


「死者は下等で、命ある身は上等であるかのような振る舞いには辟易へきえきするね。ましてや、他人を嘲ることが娯楽だなんて、そちらのほうが意地ぎたない」


 紫蓮はふと妙な視線を感じて、絳を振りかえった。

 コウが蕩けるような眼をして、紫蓮シレンをみていた。


「ほんとうにあなたというひとは……」


 コウがうっとりとつぶやく。

 このあいだもそうだったが、なにが絳の琴線に触れたのか、紫蓮にはまったく理解できない。


「あなたは、あのようなことをされていながら、虐げてきた側を哀れむのですね」


 強い風が吹きつける。

 絳の髪がさらさらと、笹の葉のようになびいた。彼は嬉しそうに唇をなでて、かたちのよい口端を持ちあげる。


「……ますます、好きになってしまいました」

「えぇぇ……?」


 たいする紫蓮は眉を曇らせて、あからさまにげんなりとする。


「そんなにいやがらないでくださいよ。臓物はらわたを取りだすときも、妃妾から虐げられたときも、眉ひとつ動かさないあなたにこうもいやがられると……嬉しくなってしまうではありませんか」


「えええぇぇぇ……?」


 笑いかけられて、紫蓮はまた一段といやそうな声をあげたが、絳は幸せそうにひとみを綻ばせるばかりだった。



 ***



 朝は終わって、また昼になる。

 誰が逝っても季節はめぐり続ける。遺されたものたちはただ、果敢はかない時のなかで死を受けいれ、愛の残り香を抱き締めるほかにない。

 だが、そんなうれいもまた、過ぎゆくものだ。


 他愛のないことを喋りながら、ふたりして夏の庭をいく。咲きにおっていた夏椿がひとつ、ほたりと落ちた。

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