6  ひきこもり妃は青空で死ぬ

 夏の朝は青い。

 早朝からせみの声が絶えまなく続き、離宮の静寂を緩やかに掻きまわしていた。離宮に客が訪れることはまず、ない。宮つきの女官はおらず、官吏かんりたちは声もかけずに荷車をおいていく。

 だから、後宮丞こうきゅうじょうが再訪してきたときは、紫蓮シレンはがらにもなくびっくりした。


「君は」

コウです。昨晩ぶりですね」


 コウはみだれなく結わえた髪を、朝風あさかぜになびかせて、涼やかに微笑みかけてきた。


オウ妃の事件に進展がありました。昨晩、大理少卿だいりしょうけいが妃殺害の容疑で逮捕され、朝から取り調べを受けています。これにより死刑が確定していた女官は再審理さいしんりとなりました。大理少卿だいりしょうけいの有罪がきまるまでは女官も勾留こうりゅうされることになりますが、面会はできます。あなたのお陰です」


 紫蓮シレンは事態を理解して、たまらずに笑った。


「は……はは、そうか、おどろいたな。きみはずいぶんな愚か者だったらしいね?」


 辛辣な言葉を投げかけられても動じず、コウはいっそうに笑みをふかめた。


「女官の冤罪を解いて、大理少卿だいりしょうけいを逮捕するなんて、命知らずもいいところだよ。功績をあげたと、勘違いして喜ぶほどに純朴なわけではないだろう?」


 微笑は変わらず、絳のが陰る。


「ああ、やはり――――貴女は聡明だ」


 紫蓮は絳の真意を測りかねて、ため息をついた。


「君にとっては損しかないはずだけどね?」


「ええ、そうです。けれども、それはあなただって一緒だ。これまでも不可解なしたいを視ては、あれこれと語ってきたのでしょう?」


 聴かれたら、語る、と紫蓮シレンはいった。


 だが、ほんとうは「語られたからには、語る」というのが紫蓮の信条だ。官吏かんりが尋ねようが尋ねまいが、しかばねが語ったことは伝えるのが誠実さだ、と紫蓮は受けとめていた。屍の声を聴けるのは彼女だけ、なのだから。


 官吏たちが紫蓮を徹底して避けるのは、紫蓮が死の穢れをもっているとおもっているから、というばかりではない。

 知りたくないことを語るからだ。


誣告罪ぶこくざいに問われたら、即、死刑だ。あなただって、命を危険にさらしている」


 風が吹きつけてきた。

 遠くから運ばれてきた梔子くちなしこうが漂う。強すぎる花の香はなぜか、死を連想させた。風に袖をはためかせながら、紫蓮シレンは静かに微笑する。


「僕は死をおそれないからね」


 ああ、でも、そうだねと紫蓮シレンは続けた。


「ありがとう」


 これはいっておくべきだろう。


 コウが意外そうにする。紫蓮は彼のことを愚かだといった。

 だが、嘲ってではない。事実としていっただけだ。損か得かで論ずれば、彼はあきらかに損を選んだわけだ。だがそれによって、救われたものはある。

 紫蓮もしかりだ。


「これで、女官に会って、話を聴けるね。オウ妃を最良のかたちで葬るためにも便宜をはかってくれるだろう? 後宮丞こうきゅうじょう



 ……*……*……*……



 現在、サイの後宮には妃妾や女官、宦官あわせて、五百余が暮らしている。これでも先帝が崩御したときに比べては妃妾が百ほど減った。

 眠らずの花都かとと称されるだけあって、街ほどの規模がある。

 離宮のある一郭いっかくを除けば、何処も財を投じて華やかに飾りたてられていた。離宮は万年日陰だが、後宮の庭は日差しも豊かで、季節折々の花が咲き群れている。いまは梔子くちなし睡蓮すいれんの花ざかりだ。


 雲ひとつない晴天にさらされて、紫蓮シレンまつげをふせる。


「ううっ、酷い天候だね。眩暈がしてきたよ。日差しが肌に刺さりそうだ。というか、刺さった」


「日にあたったくらいでそんな。妖魄あやかしじゃないんですから」


 紫蓮はほんとうにふらついている。


「三年は離宮からでていなかったからね。真昼の日差しになんか、たえられないよ」


 訳アリの妃である紫蓮シレンは宴に招かれることもない。それをよいことにひきこもり続けてきたのか。

 コウがあきれて苦笑する。


「とんだひきこもり妃ですね。不摂生は祟りますよ。適度に日のもとで運動をしないと早死にしやすいとか」


「早死にどころか、僕はいま、死にそうだよ……」


 塩を振った青菜みたいにぐんにゃりとなっている紫蓮を振りかえりながら、絳は双眸ひとみを細める。


 実に奇妙な姑娘むすめだ。

 屍に接吻くちづけをしていたかと想えば、ぞっとするほどの観察眼を発揮し、洞察に富んだ推理を語ったかと想えば、晴れているだけでこのざまだ。


「あなたはいったい」


 紫蓮シレンが振りかえる。


「ん、なんだい」

「いえ」


 透きとおるような紫の瞳が、コウにあることを想いださせる。燃え滾る恩と怨嗟を。取りかえしのつかない後悔を。


「なんでもありません」


 絳は静かに視線を逸らして、胸のうちに湧きあがった想いをのみくだす。


 彼の葛藤を知ってか知らずか。あるいは気を紛らわせたかったのか、紫蓮が黄妃について尋ねてきた。


「黄妃は歌媛だったといっていたね」


「ええ、後宮の知更雀コマドリと称えられていました。私も宴のときに彼女の歌を聴いたことがありますが、じつに素晴らしいものでした」


 実のところは絳には歌のたえというものはわからなかったが、まわりがそろって感銘をうけ、涙をこぼすものまでいたので、素晴らしかったのだろうとおもった。


 知人いわく。


「春の訪れを歓ぶような雅やかな響きだと」


「へえ、だから知更雀コマドリか」


「ああ、あともうひとつ、彼女には異称がありました」


 後宮の知更雀コマドリに比べたら、さほど知られていない。ともすれば悪態のひとつだからだ。


「――――舌きり雀」


 意外だったのか、紫蓮は睫をあげた。


「ずいぶんと穏やかじゃないね」


「いうまでもないことですが、ほんとうに舌がないわけではありませんよ。そうであれば、歌うこともできませんからね。ただ、オウ妃はいっさい喋らないのです。なにを尋ねられても、なにをいわれても、微笑んで頷くばかりで。歌いがいに彼女の声を聴いたものは後宮にはいません」


「誰も、かい?」


「ええ、女官でさえ、黄妃とは喋ったことがないと。必要なときは筆談をしていたそうですよ。識字のできない女官もおりますから、容疑者の女官が読みあげ、黄妃の意を伝達していたとか。舌きり雀という異称は、妃妾たちがおもしろがってつけたようです。もっとも、男たちにはそのようなところもたいそう好まれていたようですが」


 女はなにも語らず、微笑むだけのはながいい。


 コウには理解できないが、そう語る男は多かった。

 結局のところは、男に意を唱えない従順な女がいい、ということだろう。だが、それでいて、「俺にだけは声を聴かせてくれ」と都合のいい言葉だけを欲する。


「くだらない話をしてしまいましたね」


「いや、参考になったよ。受けもったからには、ふさわしく葬らないとね」


 いかに葬られようとも、オウ妃はすでに死んでいる。

 かといって、紫蓮シレンは死後の霊魂の実在を信じているようにも想えなかった。


 遺族にひき渡せる程度に修復してくれたら依頼は果たせるというのに、彼女にはほかの思惑があるようだ。


 絳が微かに眉を寄せたからか、紫蓮がいった。


「じきにわかるよ」


 くすくすと妖しげに微笑する紫蓮は、先ほどまで暑さにうだっていた姑娘むするの姿とまったく重ならず。


(さながら、透きとおった水の奈落だな)


 知れば知るほど、底がなくなる。ぞっとさせられるのに、こころ惹かれ、覗きこまずにはいられない。

 妖妃ようひという異称は、あながち誤りではないのだと、絳は想わずにはいられなかった。

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