11 奇人官吏、妖妃に惚れる

「――きれいだ」


 あふれんばかりの歓喜を湛えていた。


 コウの喉がごくりと動き、あきらかに昂揚した息がもれる。なんで、彼がこんなによろこんでいるのか、紫蓮シレンにはわずかも理解できなかった。


 黄昏が強くなる。燃えつきるまぎわの晩照ばんしょう。それがコウまつげに火をつけ、眼睛くろめかげを垂らす。くらく燃えるのなかに強い欲がよぎったのがさきか。


 コウは身を乗りだして、紫蓮の袖をつかんできた。


「っ……」


 紫蓮シレンはとっさに動けず、彼のほうに強くひき寄せられる。絳は紫蓮の血濡れた指をいとわず、みずからの指をするりと絡め、頬を寄せてきた。


「好きです」

「……は?」


 紫蓮は一瞬、なにを言われたのか、理解できなかった。


「ああ、恋に落ちるというのはこういうことなんですね」


 なんだか「恋」とかいう言葉が聴こえたが、聞き違いだろうか。どうか、そうであってくれ――紫蓮はいっそのこと、祈るような想いになる。


 腹をかれたしたいと、腹をいた姑娘むすめがいるこの場で、「愛」だとか「好き」だとか、そんな言葉が飛びかうなんて異常にも程がある。


 だが、硬直する紫蓮シレンをそっちのけで、絳は嬉々として喋り続ける。


「恥ずかしながら、私は人を好きになった経験がなく、愛というものはくだらないとばかりおもっていたのですが、なるほど、これがそうなのですね。胸が弾んで、頭がくらくらして、あなたに触れたくてたまらない」


「――――っ」


 ぞくぞくとした悪寒が、紫蓮の背をかけあがってきた。我にかえった紫蓮は絳の手を振りほどこうと、ぶんぶんと袖を振る。


「ちょっ、ちょっと! なにがなんだか、わけがわからないよ」

「わかりませんか? 私は、あなたに惚れたんですよ、紫蓮シレン

「だから、そうじゃなくてだね」


 なぜ、解剖をしているときに、惚れたとかいう発想にいたるのかと糾弾したいわけだが、完全に会話がかみあっていなかった。


「ああ、もうっ、わかったよ。わかったから、まずは離してくれないかな! 屍と違って、生きているにんげんの肌はなまぬるくていやだ! 触れられると悪寒がする!」


「っと、それは失礼」


 いやがっているのがわかったのか、思いのほか、あっさりと指がほどかれた。


「あなたがためらいもせずに屍をひらくところが、あまりにもきれいだったもので――」


 だが、まだ、眼のなかの熱はとけていない。


「……ちょっとばかりじゃなくて、きみはずいぶんな奇人だねぇ」


 紫蓮は頭を振り、ため息をついた。


「でも、こまりましたね。振られてしまったようで。女人にょにんは振った男と一緒にいるのはお嫌でしょう。私としては最後まで、あなたが死化粧を施すところをみていたかったのですが」


 絳は残念そうに肩を落とす。

 先程までの昂揚からは、想像もつかないほどにしぼんでしまっていた。そのすがたは叱られたいぬを想わせて、紫蓮はもうひとつ、ため息を重ねる。


「……わかった。ここにいても、構わないよ。ただ、僕には触れないでくれるかな。ほんとうに人肌だけは無理なんだよ」


「誓います。あなたにきらわれたくはないので」


 コウは真摯な眼差しで承諾した。

 ようやく落ちついた紫蓮シレンは、あらためて割いた腹から臓物を取りだす。洗浄してつぼにいれた。


「腐るのはこまるけれど、ひつぎに一緒にいれてあげないとね」


「ふむ、宦官かんがんたからのようなものですね」


 宦官は男の物を切除し、宮に入るが、男根を紛失してしまうと魂は死後、再びに男にはもどれないといわれている。


 紫蓮はからっぽになった腹に沈香じんこう乳香にゅうこうといった物と綿をつめ、縫いあげた。続けて、髪から肌までを浄めてから、服を着替えさせる。

 清拭せいしきと、着替えのときだけは、絳には退室してもらった。


「さあ、ここからもっと、きれいにしてあげないとね」


 紫蓮シレンは持ってきた箱をあける。


「それは……化粧、ですか?」


「そうだよ、なんだい、意外でもないだろう? 僕は死化粧妃なんだよ」


 寄木細工の箱には唇紅くちべにまゆずみ烟脂ほおべにと、女を華やかによそおうための物がつめこまれていた。


「眉は細いほうがいいね。はしは垂れさせて、うん、幸せそうに微笑んでいるときのかたちにしよう。花嫁さんなんだからね。紅は、これかな」


唇紅くちべにだけでもこんなにあるのですね。ひとつひとつ、違うのですか?」


 箱を覗きこみながら、絳がへえと息をついた。


「赤といっても、青みがかったものから、黄みがかったもの、紫を帯びたものまであるからね。唇のかたち、厚み、肌の色調をみれば、似あう唇紅、似あわない唇紅がわかる。黄妃の素肌は黄みがかっているから、珊瑚さんごや桃の花びらを想わせるうす紅が映えるだろうね」


 喋りながら水おしろいを施して、刷毛でこなをはたいていく。


「ああ、きれいだよ。頬はどれがいいかな」


 烟脂ほおべには頬だけではなく、額と顎のあたりにも施す。こうすると、花が綻んだように顔の印象が明るくなるからだ。


「なみだぼくろがあるんだね。可愛らしいな。隠さず、際だたせてあげようね」


 紫蓮は睦事むつごとでもかわすようにしたいに声をかけながら、緩やかに化粧を進めていく。絳は魅了されてしまったかのように終始息をつめ、彼女のことを眺めていた。


「……失礼ながら」


 絳がふつと沈黙を破る。


「これまで私は、妃たちがこぞって施す化粧というものによい心証をもっていませんでした。ですが、あなたが施すと、なんでしょうか……とても、きれいだと感じます。うまく言い表せないのですが」


「ああ、妃たちは鏡をもっていないらしいね」


 妃が鏡をもたないはずがない。

 かといって、言葉どおりの悪態でもなかった。


「ただ、飾ればいいわけじゃないのさ。ちゃんと、なにが似あうのか、なにが似あわないのかを理解して、施さなければね。ついでにこれは、もとの顔を隠すものでもないよ」


 紫蓮シレンオウ妃のなきぼくろに接吻を落とす。

 水だけではなく薬もつかって洗拭せいしきをしているので、したいに触れても腐敗による毒などに感染する危険はない。


「ひとはなぜ、化粧をするとおもう?」


 絳がなにかを言いかけて、唇を結んだ。おおよそ、男を誘うため、とでもいいかけてやめておいたのだろう。


「愛するためだよ」


 虚をつかれたように絳が眉根を寄せた。


「愛されるため、ではなく、ですか」


「そう、産まれもった顔を――強いていえば、みずからを愛するためさ。死んではじめて、それは愛されるためのものになる」


 愛することは受けいれることだ。


「葬ることは死者のためにあらず。遺され、哀惜するひとたちのため、屍は一度だけ、よみがえるべきだ」


 最後しあげにひとつ、花鈿かでんを施す。

 花鈿とは梅や星のかたちに細工された紅紙で、婚礼のときにはかならず、これを額につける。


 紫蓮シレンまつげをふせ、うっそりと微笑む。


「さあ、愛するひとにさよならをいっておいで」

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