10 死化粧妃は屍に命を分ける

「素晴らしいですね。あれほど酷かった傷がすっかりと塞がって。いやはや、感服いたしました。処置はすでに終わったのですか」


 ひとのかたちを取りもどしたオウ妃の屍をみて、コウは感嘆の息を洩らす。


「いいや、まだだよ。これからさ」


 復元。修復。それだけでは、したいをよみがえらせた、とまではいえなかった。

 てっきり報告を終えてすぐに帰るものだとおもっていたのに、紫蓮シレンが箱から様々な薬剤や器具を取りだしていると、コウがついと覗きこんできた。


「側でみていても、構わないでしょうか」

「僕は構わないけれど……」


 紫蓮シレンは眉の端をあげて、あらためて傍らの男をみる。

 微笑を絶やさないが、眼睛がんせいかげはらんでくらく、さわやかに振る舞いながら唇には時々嘲りめいたわらいがよぎる。男にしては骨が細く、腰といい、肩幅といい、ほっそりとひき締まっていた。植物ならば、柳を。動物ならば、ヤマイヌを想わせる。


「逢ったときからおもっていたけれど、きみはちょっとばかり変わった男だね?」


 だが、紫蓮シレンがもっとも奇妙に感じたのは、彼には死を畏れる素振りがないことだ。


「大抵のものは、死のけがれをいやがるというのに」


「はっ……」


 コウわらった。彼らしからぬ荒っぽい嗤いかただ。あるいはこれが素なのではないかと紫蓮はおもった。


「死のけがれですか。そんなものは、生者のほうが上等だとおもっているものたちが造りだした幻想にすぎませんよ」


 窓から差す夕日が陰る。

 コウの声が喉にかかるように低くなった。


「人の腹を斬ると収まっていたはらわたがあふれだすのですが、破れた腸というのはね、非常に臭うのです。まだ息があってもね。腸の噎せかえるような臭いこそが、人の本質だ」


「違いないね」


 想像するだけで酸鼻さんびをきわめる話にも、紫蓮シレンは臆さず唇を綻ばせた。


「死んでいるものがけがれているのならば、生きているものだっておなじくらいに穢れているさ。いいや、死者のほうがよほどにいいね」


 横たわるオウ妃の頬をなでる。


「彼女らは悪意をもたず、ひとを欺かない」


 指は踊るように頤をたどり、頚のつけ根にある血管を捉えた。


「ああ、ここだね」


 絳が奇妙そうな視線をむけてくる。


 紫蓮は黒曜石の医刀を執り、頚筋を僅かに切った。

 絳が一瞬だけ、眼を見張る。紫蓮が屍を切りつけるとは想わなかったのだろう。傷に鑷子を挿しこみ、動脈、静脈をつまんで取りだす。


「いったい、なにをなさるのですか」

「血は腐る。だから、抜きとって、腐らない秘薬と換えるのさ」


 動脈と静脈に管を挿す。動脈にうすくれないの薬をそそぎこんでいった。梅の花をとろかせたような雫だ。替わりに静脈から押しだされた血潮が横に据えられた桶のなかにたまる。腐敗した血潮の、異様な臭いが漂った。


 コウはわずかに眉を寄せたが、臭気にあてられてえずくようなことはなかった。もとから死臭になれているのか。それよりも紫蓮シレンオウ妃の腕や脚を揉みほぐし、停滞している血潮を抜きだす姿を、熱心にみている。


「……あなたはどうやって、このような技巧を身につけたのですか? 失礼ながら、姑娘おんなの身では、医官に習ったというわけでもないでしょう」


「母から教わったんだよ」


「あなたの母親といいますと」


「母は後宮につかえる死化粧妃だったからね」


 死にまつわる官職は総じて身分が低い。

 後宮では妃という階級におかれているが、便宜上にすぎず、実のところは宦官かんがん奴婢ぬひと変わらない身分だ。紫蓮の宮に女官がつかないのもそのためだ。


スイ氏族しぞくは脈々と続く死化粧師の一門だよ。この秘薬も先祖から受けついだ叡智のひとつだ」


 オウ妃の肌が緩やかに息を吹きかえす。

 吸いつくような肌の張りがよみがえり、血が取りのぞかれたことで死斑もなくなっていた。ふるぼけた蝋を想わせた死人の肌が、すっかりと健やかな赤みを帯びている。


 奇蹟だ。


「死者に効能がある薬か。どのように造られているのか、うかがっても?」


「ふふ、秘密だよ。でも、ああ、きみにだったら、あるものをつかっていることだけは教えてあげようかな」


 紫蓮が指をたてる。


「水銀と、砕いた紺青こんじょうだよ」


 コウは敏い。すぐに表情が変わる。


「……どちらも致死毒ですね」


 水銀は不老不死の霊薬れいやくと語られた劇毒げきどくで、紺青は壁画等につかわれる鉱物のひとつだが、毒をもち、つかい続けては身を蝕む。


「ああ、そうだよ。死化粧には毒がある。だからね、死の穢れなんてものはないが、死化粧師の側にいると寿命が縮むという噂だけは真実ほんとうさ。死化粧師も次第に毒に蝕まれていき、大抵は而立じりつ(三十歳)から不惑ふわく(四十歳)のうちに命を落とす」


 紫蓮が声を落として、瞬きをする。


「死者にちょっとずつ、命を分けているみたいだろう?」


 動静脈を糸で縛った。血液の交換は終わりだ。

 紫蓮は再度、医刀いとうを執った。かぶせていた布を、腹のところだけまくりあげる。


「ああ、そうだった。きみがいっていたとおり、腸も腐敗するんだ。だからね、さきに取りのぞいておく・・・・・・・・・・・んだよ」


 言いながら、紫蓮がひと息に屍の腹を割いた・・・・・・・


 背後でコウが息をのんだ。

 無理からぬことだ。


 サイにおいて、解剖は禁ぜられている。

 すでに死したものをなおも傷つけ、遺体を損壊するのはいまわしいことだと考えられているためだ。よって、検視官は外傷、死後の経過による損傷だけをみて、調査をする。


 だというのに、紫蓮シレンは禁を破った。

 絳は言葉を絶しているのか、とがめるどころか、呻き声ひとつあげなかった。

 さすがに蔑まれるか、おそれられるか。もっとも逮捕されるのはご免だ。弁明だけはしておこうかと紫蓮は苦笑する。


「おどろかせたかな。解剖は禁だが、死化粧師だけは特例として屍をひらくことを許されて……」


 喋りながら振りかえった紫蓮は、言葉の端をかすれさせた。

 紫蓮を映す絳の眼がそこにあった。そのは事態を理解できずに戸惑っているわけでもなく、かといって禁を破った姑娘むすめを蔑むでもなく。


「――きれいだ」


 あふれんばかりの歓喜を湛えていた。

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