前世魔族の伯爵令嬢です。家から捨てられたら忠誠心の強すぎる従魔と再会し、魔王だった記憶が戻ってしまいました。私は辺境で慎ましく暮らしたいのですが

朝月アサ

第1話 捨てられた令嬢は、従魔の名を呼ぶ


「リディアーナ。お前には辺境伯のバルトロイ家に嫁いでもらう。これは王命だ」

「……はい、お父様」


 父親であるフォーデルハイド伯爵の言葉を、娘であるリディアーナは静かに受け取る。王都の伯爵家の屋敷で。


 窓の外に春の柔らかな日差しに満たされているというのに、伯爵の書斎は昼間でもどこか薄暗い。そして空気が重苦しい。淀んで澱が浮いているかのように。


「まったく……王太子殿下の心を留められんお前には失望した」


 伯爵は椅子に座ったまま、机をはさんで前に立つリディアーナを一瞥し、また視線を逸らす。

 リディアーナは生まれたときから王太子アレン・ウィスタリウスの婚約者だったが、先日その婚約は破棄された。リディアーナも知らないうちに、密やかに、迅速に。

 王太子の婚約者の座にはいま、エシュトー侯爵家の令嬢であり聖女に認定されたセレスティア・エシュトーが座っていた。


「辺境伯は、何も持ってくるなと仰せとのことだ。従者も侍女も、私物も。お前は何一つ持たずここを出ていけ。出立は十日後だ。わかったな」

「はい」


 リディアーナは表情一つ変えず、ぼんやりと遠くを見ている。まるで人形のように。

 ――フォーデルハイド家の呪われた人形。それが社交界で囁かれているリディアーナの評価だ。


「……やれやれ。これでやっとお前の陰鬱な顔を見なくて済む。嫁いだ後は二度と戻ってくるなよ。私もお前を死んだものと思おう」


 従順すぎる娘を見る伯爵の目は険しい。忌々しく憎らしい化け物を見るかのように。

 およそこれから魔族との戦いの最前線である辺境に嫁ぐ一人娘に向けるものではない。

 リディアーナは濁った青い瞳で、表情一つ変えず頷いた。


「はい、お父様」




 リディアーナ・フォーデルハイドは五年前――十歳のときに魔物に襲われた。


 王の従兄妹でもあった母親がリディアーナを庇い、リディアーナは一命を取り留めたが、母親はその場で亡くなった。

 リディアーナはその時から感情というものをほとんど露わにしなくなった。表情は消え、笑顔も消え、涙さえ失った。


 父親は、愛する妻が死んだのはリディアーナのせいだと考え、リディアーナを邪険に扱うようになった。


 生まれたときからの婚約者であったアデル王太子も、リディアーナから次第に距離を取るようになった。

 リディアーナをあからさまに冷遇し、侯爵家の令嬢であるセレスティアと親密になっていった。


 そして先日、セレスティアに神聖力が認められて聖女と認定されると、王家はすぐに婚約者をセレスティアに変更し、リディアーナをルギウス・バルトロイ辺境伯の元へ送ることに決めた。


 辺境伯は、その武勇から魔族との戦いの最前線である辺境伯に任じられ、いまもまだ現役の騎士である。国防の要でもある国の重鎮との婚姻は、非常に重要なものである。


 ただし辺境伯は六十近い老齢であり、一年前に最愛の妻を失くしたばかりであった。さらには魔族との戦いで、子も孫も全員失っている。


 すべては当然の流れだった。水が高い場所から低い場所に流れるように、淀みなく進められた。





 辺境への馬車が出発したのは予定どおり十日後のことだった。

 リディアーナは辺境への旅路は、馬車の中でひとり過ごし、一日の大半を眠りに費やすというものだった。


 そばにいる人間はいない。魔物との戦いの最前線である辺境に随伴する使用人はごくわずかで、馬車の中で世話をするはずのメイドすら同じ馬車にはいなかった。辺境伯からの身一つで来るようにと言われているとしても、王家の血を引く姫に対してあまりにもぞんざいな扱いだった。


 だがリディアーナは文句ひとつ、それこそ言葉一つ発しなかった。


 ――馬車が走り始めて三日目の夜。

 その時もリディアーナは眠っていた。そして、目覚めた。あまりにも静かすぎる空間で。


(馬車が……止まっている)


 休憩に入っているとしても、あまりにも静かすぎる。外からは物音ひとつしない。人の気配も、馬の気配も。わずかに風の音のみが聞こえるのみだ。虫の鳴き声すらしない。


(それにしても、眠いわ……睡眠用の香を焚きすぎよ……そんなことをしなくても、逃げたりはしないのに)


 リディアーナは馬車の中にあった白レースの日傘を手に取った。辺境伯から私物は持ってくるなと言われているが、これは母親の形見のひとつだ。これくらいなら許されるかもしれないと選んで持ち込んだものだった。もし駄目でも諦めがつく。そんな理由で。


 馬車の扉を開ける。

 リディアーナの感じていた通り、外には誰もいなかった。

 護衛の一人も、馬車の御者も。

 馬車を引いていた馬さえいない。


 街道しかない平原は青い満月に照らされるばかりで、他には灯りのひとつもない。

 そして馬車のすぐ近くでは香木が焚かれていた。


(この、香りは――)


 魔物討伐によく使われる、魔物を呼ぶ香木だ。


 そしてその側には銀貨が十五枚。

 これは死者が旅立つ時の風習だ。決まった数の貨幣を冥界の案内人に渡すことで迷わず冥界に行けると信じられている。


 平民は銅貨、貴族は銀貨、王族は金貨。それを死者の歳の数だけ供える。


(これは……)


 これは弔いだ。死にゆくリディアーナへの弔い。

 リディアーナは銀貨を懐に入れ、月明かりの下で日傘を差す。月から隠れるように。


(私に使えるのは、中級魔法だけ……これが魔物に通じるのかはわからない)


 母親が目の前で亡くなってから、必死で勉強してきた魔法の数々。


(それでも、影の魔物ぐらいになら……)


 そう考えたときには既に、周囲には魔物が集ってきていた。


 いつの間にか現れる、不定形の影の魔物。人のような形をしたものや、狼のような姿をした下級の魔物が、リディアーナをじわりじわりと取り囲んでいる。


 リディアーナは魔法を使おうとした。

 しかし手が、歯が、震えて魔法の形にならない。


 ――魔物。母を殺した魔物。殺さなければ殺される。なのに――身体が動かない。心が凍りついている。


(殺される……)


 それだけはしっかりと理解できた。

 このまま何もできず、何も為すことなく殺される。


 しかし次の瞬間、魔物たちが陽炎のように揺らめき、怯えるように逃げようとした。

 しかしそれは間に合わず、影の魔物は消し飛ぶ。一匹残らず夜の闇にかき消される。


(なに? ――何が起こって――助かった……の?)


 のそり、と背後で大きな気配が動く。


 振り返ったリディアーナは、己の浅はかさを思い知った。

 そこにいたのは大きな獣だった。

 銀色の毛並みの美しい魔狼――フェンリルが、紫の目でリディアーナを見下ろしていた。


 その腕が一振りされればリディアーナは潰される。背を向けた瞬間、爪は背中を切り裂くだろう。大きな口は脆弱な身体を一口で噛み砕き、飲み込むだろう。


 リディアーナに許されているのはおとなしく死を待つことのみだ。


(せめて、お母様の仇を取らないと……)


 たとえ一匹でもこの手で魔物を倒してみせる――そんな決意で魔法の練習を続けてきたのだ。なのに、魔法が魔法の形にならない。身体が震え、心がざわめき、何もできない。影の魔物に取り囲まれたときと同じように。


(動け、動け、動け――!)


 心はなんとか動き出しても、身体は動かない。己の弱さに、愚鈍さに、怒りを覚えたその時だった。


「脆弱な肉体に、愚鈍な精神――ようやくあなたを見つけ出したというのに……」


 それはリディアーナにも理解できる人語だった。だがその言葉の意味は理解できなかった。

 その声には主を失った騎士のような寂しさと、失望が混ざっていた。

 美しい魔獣は、憐れみと怒りのこもった紫の瞳でリディアーナを見据える。


「嘆かわしい……あなたをこのままでいさせることこそ不忠というもの」


 魔狼の姿が変わる。

 人間の男性の姿に。銀色の髪の美しい青年は、冷たい眼差しでリディアーナを見ていた。


「俺が、その檻から解放して差し上げます。そしてまた必ず、探し出しましょう。何万年かかっても」


 悲しそうな表情で、許しを請うような声で言う。


「その時こそ、俺の名前を呼んでください」


 ゆっくりと大きな手が伸びてくる。リディアーナの首を簡単に折りそうな手が。


 頭の中に警鐘が鳴り響く。

 湧き上がってきたのは先程よりも強い怒りだった。


 リディアーナは怒った。自分に。運命に。世界に。

 ――この魔狼フェンリルに。



女王の氷華オートデバフ



 人の姿となったフェンリルががくりと両膝をつく。驚きを隠さない表情で。


「――ヴァルター」


 フェンリルは顔を上げて、リディアーナを見上げる。喜びに震える瞳で。


 天からは白い光が舞い降りてくる。雪のように、あるいは白い花弁のように。リディアーナの日傘に、フェンリルの身体に、夜の世界に降り注いでいく。


 フェンリルの目許から涙が零れ落ちた。


「嗚呼……やはり、やはりあなたこそが我が君、ようやく……ようやく、お会いできた」


 フェンリルは感動で打ち震えている。

 暗く長き旅路の果てに、ようやく光を見つけたかのように。


「我が《氷の魔女》……! このヴァルター、今度こそ命尽き果てるまで、あなたをお守りいたします……!」





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