第21話 至福の時間


 ヴァルターは貪欲だ。


 リディアーナは――《氷の魔女》は、それをよく知っている。

 生まれたときから地下牢獄に繋がれていた魔狼フェンリルを、自分の第一の従者にするまで教育を施した経験から。


 彼は器用で物覚えがいい。できないことに対しても、苛立ちを覚えて投げ出したりはしない。できるまで繰り返す。素直で吸収力が高い。


 得ると決めればあらゆる知識を吸収し、自分のものにする。人間の貴族の真似事も、ヴァルターにとっては簡単なことだ。三日も立てば、立ち振る舞いも。雰囲気の作り方も、姿勢も、言葉の発音すら自分のものとしていた。


 見た目は貴公子なこともあり、あっという間に外見も中身も立派な貴族となるだろう。できないことは十五年間貴族として生きてきたリディアーナがフォローすればいい。


「ヴァルター、よく頑張っているわね」

「光栄です」


 微笑みをたたえたその表情も、胸に手を置きわずかに頭を下げる姿も、手本としているバルトロイ辺境伯によく似ている。まるで生き写しだ。


 あとは、心だけだ。

 そしてそれだけはヴァルターでも手に入れることはできない。彼は魔族だから人間の心はわからない。理解しようともしない。


「リディ、俺は外の掃除をしてきます」


 四日目の夜から、ヴァルターは剣を持って外に出ようとしていた。外で蠢いている魔物たちを一掃するために。いつもの牙や爪ではなく、覚えたての剣で。


「気をつけてね」

「はい。いつでもお呼びください。千里先からも駆けつけます」


 ヴァルターの姿が夜の中に消える。

 しんと静まり返った部屋の中で、リディアーナは寂しさを覚えた。


(……最近、撫でさせてもらえてないわ……)


 部屋で呼んでも、返事はするが姿を見せない。女性の部屋に無闇に入るものではないと心得たのかもしれない。

 もちろん、外で会っても頭を撫でる雰囲気などない。さりげなく一定の距離を引かれている。節度ある距離を。


(人間の貴族の真似をしろと言ったから……?)


 紳士的な振る舞いと言えるのかもしれないが、リディアーナは寂しい。身勝手なものだと自分に呆れながら。


 自覚はあっても欲求は収まらない。

 あの白銀の毛皮に埋もれたい。あの頭を撫でたい。誇らしげな顔を見たい。

 我慢の限界は、早かった。


「ヴァルター」


 決闘の日まであと五日。夕暮れ時、部屋に一人になったリディアーナは、ベッドに座りながらヴァルターを呼ぶ。影がわずかに揺れた。


「いかがなさいましたか」


 声はすれど姿は見せない。節度ある距離感だ。だがいまはそんな節度は必要ない。


「姿を見せなさい」


 ヴァルターは渋々ながら姿を現した。彼は決してリディアーナの命令には逆らわない。


「私の前に跪きなさい」


 命令には逆らわない。ヴァルターはリディアーナの前に跪く。

 その姿はどこから見ても理想的な貴族の青年だ。誰が出自を疑うというのだろう。きっと誰も疑いなどしない。このまま王城のパーティに紛れさせても、他の貴族は誰も気づかないだろう。


 これこそがリディアーナの望んだ姿だ。

 だが、望まない姿だ。


 リディアーナは立ち上がり、ヴァルターの頭に手を伸ばした。

 銀色の髪を――頭を、撫でる。


「…………」


 いつの間にか獣の耳が出ていて。

 いつの間にか現れた獣の尻尾が揺れている。内心の喜びを表すように、激しく。

 それは至福の時間だった。


「ヴァルター。遅くなってしまったけれど……ハイポーションのこと、ありがとう」


 魔界の冷気で弱ったとき、誰からも奪わず、薬師に頭を下げて頼んでくれたこと。礼を言う機会を逸してしまっていたが、やっと言うことができた。

 あのときリディアーナは本当に嬉しかったのだ。命が助かったことではなく、ヴァルターが奪う以外の方法を見つけ出したことが。人間に対して頼みごとをしたことが。


 ――きっと、屈辱的だっただろうに。


「私は――」

「他の人間がいないときは、普通に話して。以前のように。お願いよ、ヴァルター」

「……俺は、あなたを失いたくないのです」


 消え入りそうな声だった。

 リディアーナはヴァルターの頭を撫でる。


「私もよ。いつもありがとう、ヴァルター」


 ゆっくりと、噛みしめるようにヴァルターの頭を撫でていると、足元の影から猫が出てくる。


「ミーちゃんもありがとう」

「ふふん、あたしがいてよかったでしょう?」

「ええ。ミーちゃんがいなければ、ハイポーションのことを知ることもできなかったもの。あのまま凍え死んでしまっていたわ」


 ミルルリカは得意満面になって、細い尻尾を立てながらヴァルターの周りをくるくると回る。


「聞いたフェンリル? あたしも役に立つですって。あたしがいてよかったって、いい加減素直に認めたら?」

「ああ。貴様もたまには役に立つと認めてやってもいい」

「いつもマスターの役に立ってるわよ! これからもあんたよりも役に立ってみせるわよ! いつまでも第一従魔でいられると思わないことね」


 従魔同士の微笑ましいやり取りに、リディアーナは思わず笑みを零す。

 この穏やかな日々がいつまでも続けばいいと思いながら。


 そして決闘の日はあっという間に訪れた。



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