第33話 静謐の魔女
「あらあら。随分威勢がいいことね。自分の立場を理解している?」
とても嬉しそうに《静謐の魔女》は玉座からリディアーナを見下ろす。
「そうそう。いいことを教えてあげましょう。お前の母親を殺したのも、わたくしなのよ」
「…………」
「本当はお前を殺すつもりだったのに。お母様も残念ね……お前なんて産むから死んでしまった」
セレスティアの姿をした《静謐の魔女》はリディアーナを弄ぶように言う。怒らせるための言葉は的確にリディアーナの奥にある復讐の炎に薪をくべていく。
(《静謐の魔女》が、お母様の仇……)
頭の奥が怒りで白く塗りつぶされていく。
いますぐ目の前の女を殺したい衝動が育っていく。リディアーナは母の形見である日傘を強く握りしめた。
「お前の母親も、ちゃんと使ってあげるつもりだったのに、うまくいかなかったのよ……残念だわ」
リディアーナは動かなかった。《静謐の魔女》はわざとリディアーナを挑発している。ここで怒りのままに振る舞えばそれこそ向こうの狙い通りだ。
だからリディアーナは感情を殺した。人形のように。
――フォーデルハイド家の呪われた人形は、感情の殺し方をよく知っている。
「……でもね、悲しんでいるあなたの姿を見て、考え方を変えたの。すぐ殺すよりも、長く苦しませた方が楽しいかもって」
「…………」
「お前がいままで生きてこられたのはお母様のおかげなのよ!」
魔物に殺された母の姿を忘れたことがない。
だが復讐の炎を燃やすのは、己の身の内でだけでいい。
「……何が目的?」
声は自分でも驚くぐらいい落ち着いていた。
「そんなに私が憎いの? 一緒に魔王までした仲なのに。転生してもいやがらせなんて」
「……あら、こんなに言ってもわからないのね。本当に残念な女。そもそもお前がわたくしに酷いことをしたのに」
「わからないわね。もしかして、ヴァルターのこと?」
リディアーナは小さく笑う。
「まさかね。ヴァルターはあなたとは何の関係もないはずだから」
乳白色の髪が大きく膨らむ。まるで怒った獣のように。
「まあいいわ。まずはヴァルターを返して頂戴。私はこれからこの城の邪魔なものを排除しないといけないの。そのためにヴァルターの力が必要なのよ」
この城内を覆っている醜い腐肉を。そして分不相応な玉座に座る《静謐の魔女》を示唆しながら言う。
「――いい加減にして!」
怒りが爆発するのは早かった。
「彼を自分のものみたいに言わないで! そんな名前で呼ばないで! フェンリルは――彼はわたくしの
嫉妬まみれで叫ぶ。その様子には一片の余裕も落ち着きもなかった。
――ヴァルターは《氷の魔女》がつけた名前だ。リディアーナがヴァルターをその名前で呼び、ヴァルターがそれに応えるのが耐えきれないのだろう。
「ずいぶん勝手な言い草ね。ヴァルターは一度だって
――むしろリディアーナに対して「俺はあなたの夫ではないのですか」と言ってきた。
リディアーナは確信していた。《静謐の魔女》のヴァルターに対する愛情は、完全な彼女の一方通行だと。
「あなたとヴァルターの間のことには、まったく興味がないわ。ヴァルターは私の第一の従魔で、いまは私の夫よ。ヴァルターは私に絶対の忠誠を捧げてくれている。あなたの入り込む隙間なんて、これっぽっちもないの」
城に湧き出す腐肉の量が増す。《静謐の魔女》の怒りに応じるように肥大化する。
「恨むのなら、自分の行動の遅さを恨みなさい」
フェンリルを先に開放していたのが《静謐の魔女》だったなら、
セレスティアの身体がぽたりと腐り落ちる。
「ふ、ふふふ……《氷の魔女》――お前は殺さないわ。またどこかに転生されたら困るもの。まずは死ぬまで牢獄に繋いであげる。次は魔族に生まれるといいわね。そうすればずっと繋げておけるもの」
「あなたの悪趣味なコレクションに加わるつもりはないわ」
死体を利用されるのも真っ平だ。
「良いものを見せてあげる」
じゃらりと二本の鎖を鳴らす。鎖に繋がれているヴァルターの目は閉ざされたままだ。
死んではいない。だがかなり弱っている。
「ふ、ふふ……見てこれ。これはお前の――《氷の魔女》の死体と権能でつくった鎖よ」
これみよがしに見せてきたのはヴァルターに絡まる青い鎖だった。
「これに囚われると、決して抜け出すことはできないの。最後に役に立ててよかったわねぇ」
「人の身体で勝手に趣味の悪いものを……」
さすがは死体遣いの一族。
リディアーナはヴァルターを敵だと思っていない。思っていないが、死体に込められている権能は相手を選ばないようだ。
「なら、その赤い鎖は、誰の死体で何をつくったの?」
赤い鎖は《静謐の魔女》の左手から伸びて、ヴァルターの左手に巻きついている。
「もちろん《炎の魔女》の死体でつくった鎖よ」
「…………」
ヴァルターが殺したという《炎の魔女》――その死体も弄んだらしい。
「この鎖はとっても素敵なのよ。この炎で繋がれたものは、命の炎を共にするの。死がふたりを分かたない――永遠に共に生き、終末に共に死ぬ。絶対に互いを置いていったりしない……素敵な誓いよ」
恍惚の表情でヴァルターと繋がっている赤い鎖を見つめる。その言葉が本当なら、いまの二人は命を共有している状態だ。《静謐の魔女》を殺せば、ヴァルターも死んでしまう。
「ふふ……わたくしたちはもう、ひとつなの」
その姿は幸せな花嫁そのものだった。
彼女はリディアーナにこれを見せつけるために、城の中に招いたのかもしれない。
(どうやら《静謐の魔女》がヴァルターを想う気持ちは本物らしいわね……)
相手の心を無視しても、手に入れたいほどに。
「さあ、わたくしを殺しなさい。わたくしたちはそれで、完璧になれるのよ……」
「私にあなたたちを殺させるつもり?」
「お前ならできるでしょう? さあ、わたくしたちの門出を祝いなさい」
共に死ぬことこそが、《静謐の魔女》の最高の喜びだというのなら。
(冗談じゃないわ)
そんなことを実現させるつもりはない。
リディアーナはヴァルターを迎えにここに来たのだ。
「……《静謐の魔女》は私の権能を知っているのかしら」
「当たり前でしょう」
「ならどうしてあなたがまだそんな元気でいられると思う」
「まあ。母親を殺されても、わたくしのことをまだ敵だと思っていないの。親不孝者ね。お前の心は既に魔族になってしまったのね」
「そうよ。私にとっては敵でも何でもない。殺すなんてとんでもないわ。同じ魔女――仲間だもの」
――本当に死を願っているのなら、自分で自分を殺せばいい。あるいはヴァルターを殺せばいい。だがそれをしないのは、わざわざリディアーナに殺させようとしているのは、そうでないと死ねないからではないか。
肉体はただの器だと《静謐の魔女》は言った。
その存在ごと消滅させなければ、《静謐の魔女》はきっと死ねない。生まれてからずっと世界をたゆたってきたのだろう。死ねないまま。それがどれほど長い旅路であったか、リディアーナには知る由もないし知りたくもない。
「あなたがヴァルターを鎖で無理やり繋げようと、ヴァルターの心と身体が私のものであることは変わりない。永遠にね」
「ヴァルター、そろそろ起きなさい」
リディアーナが呼びかけると、ヴァルターの身体がぴくりと揺れる。
目を開け、身体を起こす。その青い目はまだ虚ろで、正気は戻っていない。その身体は青い鎖――《氷の魔女》の権能である弱体化の鎖で縛られている。
「あなたを縛っているのはあなた自身よ。その鎖はあなたが思っているより、ずっと脆い」
「……我が君……」
掠れた声で昔の呼び方を口にする。
「さあ。自らの力でその鎖を壊し、私の下へ来なさい」
――それは、地下牢獄で繋がれていたフェンリルにかけた言葉だ。
生まれてからずっと束縛されていたフェンリルに。
そしてフェンリルは己を繋いでいた鎖を破壊し、《氷の魔女》の従魔となった。
それからずっと一緒にいた。《氷の魔女》が死を迎えるまで。
「さあヴァルター。目覚めなさい」
主の声に、従魔が目を覚ます。
己を縛っていた青い鎖を破壊する。粉々に砕けた氷の鎖が落ちる中、美しく巨大な白銀の魔狼――フェンリルがその姿を現す。
王を喰い殺す獣が。
「――フェンリル! わたくしの敵を喰い殺しなさい!」
大きく開かれた口は、白い牙は、間近にいた《静謐の魔女》に突き立てられた。
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