第34話 王を喰い殺す獣
フェンリルに噛まれ、飲み込まれながら、《静謐の魔女》は歓喜の涙を流す。
「ああ……わたくしたち、あなたの手で、やっとひとつに……」
恍惚としている《静謐の魔女》に、更にぐっと牙が食い込む。
「ヴァルター! 殺してはダメ! 吐き出して!!」
リディアーナは焦って叫んだ。
(ひとつになんてさせない――!)
このまま《静謐の魔女》を喰い殺してしまえば、ヴァルター自身も死んでしまう。その可能性がある限り、リディアーナは《静謐の魔女》を殺すのを許可できない。
リディアーナの制止が届いたのか、フェンリルは飲み込むのをやめて吐き捨てる。
べちゃりと床にセレスティアの死体が落ちた。死体からは髪がごっそり抜けていて、まったく動かない。死体に戻っている。
もう一度フェンリルが何かを吐き出すと、炎の鎖の片側――《静謐の魔女》と繋がっていた方が、口の中から出てくる。
――鎖は外れた。
だが《静謐の魔女》は出てこない。あるのは抜け殻だけだ。フェンリルの中に取り込まれてしまったのか。
「リディ……」
弱々しいヴァルターの声に、リディアーナは安堵した。
――生きている。ヴァルターは生きている。それだけで十分だった。
だが平穏は一瞬だけのことだった。フェンリルは辛そうに身体を伏せ、苦しそうな唸り声を挙げる。
「ヴァルター!」
リディアーナはすぐさま駆け寄ろうとするが、影から出てきたミルルリカがリディアーナの行く手を阻んだ。
「ミーちゃん?」
「マスター、あれはもう無理」
強く警戒しながら言う。
唸り声が止み、フェンリルが顔を上げる。その目からは知性の光が消えていた。いつも目を見れば何を考えているのかわかった。だがいまは、何も読めない。何もわからない。
リディアーナを無言で見据えるのは、異物を見る獣の眼差しだった。
――フェンリル。王を喰い殺し、すべてを破壊する獣。
不意にその予言を思い出す。その力を恐れた魔王に、誕生と同時に地下の牢獄に囚われた魔狼フェンリル。
そこにいるのは間違いなく予言にある滅びの獣だった。
「狂化してる。あいつはもうマスターのことだってわかってないわ。逃げましょ」
――逃げる?
そうすればどうなるだろう。
フェンリルはこの城の人間をすべて殺すだろう。王都を、国を、喰らい尽くすだろう。
逃げる場所なんてどこにもない。
リディアーナは母の形見の日傘を握りしめる。
「逃げても何も解決しないわ」
ほんの少しだけ命が長くなるだけだ。
「凍れ――」
動きを止めるために単純な氷魔法を放つ。
しかしフェンリルはそれをあっさりと避ける。
氷魔法はその背後の壁に命中し、壁が凍り、壁が崩れた。
強い風が砂埃をまとって外から吹き付ける。
大型魔法は命中率が低いというフィオの忠告を今更思い出した。その隙に一気に距離を詰められた。
「マスターに、触るな! この馬鹿犬!」
獣化したミルルリカがフェンリルに挑むも、片腕で薙ぎ払われ壁に叩きつけられる。あまりにも残酷な力の差で。
「ミーちゃん!」
リディアーナはミルルリカの前に駆け寄る。ぐったりとしていてしばらく戦えそうにはない。
背後にフェンリルの気配を感じ、リディアーナは両手を大きく開いて振り返った。
目の前にはフェンリルの大きな口が迫っていた。
(――あ、死ぬかも)
死を覚悟した瞬間は、意外にも落ち着いた心境だった。
「マ、マスターぁ……やだ、やだよぉ……」
泣きじゃくるミルルリカの声が背中を打つ。
(ごめんなさい)
リディアーナが死ねば従魔契約は解除されるはず。そうしたらミルルリカも自由になれるはずだ。――ヴァルターも。
だがヴァルターは《氷の魔女》が死に従魔契約が解除されてからも《氷の魔女》の魂を求め彷徨っていた――……
ここでリディアーナが死ねば、また同じように彷徨うのだろうか。
生まれ変わって再会できたとして、今度は思い出せるだろうか。
思い出せなかったらまた殺されるのだろうか。
それを何度繰り返すのだろう。
いつまで繰り返すのだろう。
――それこそ、地獄だ。
そのとき、爆音と共に崩れかけていた壁がさらに大きく崩れる。外からの力で。
崩れ落ち、拡大する穴の隙間から見えたのは生物の――飛竜の影だった。
さらにもう一度壁に衝撃が走り、崩れる石と共に黒い影が玉座の間に飛び込んでくる。その影は一気にフェンリルの足元まで潜り込み、槍で反動をつけてフェンリルの顎を蹴り飛ばした。
「カイン様?!」
驚きに声を上げる。
そこにいたのは辺境にいるはずのカイン・バルトロイだった。
まさか辺境から飛んできたのだろうか。飛竜ならフェンリルと同じくらい早いだろうけれども。
「嫌な予感がしてきてみれば、なんてざまだ……おいヴァルター!!」
カインが強く呼びかけるが、届いている様子はない。
フェンリルの目はカインの存在を、邪魔な、排除するべきものとして見ている。
「くっそ――言葉も通じねえか」
カインは握っていた槍を構え直し、フェンリルに立ち向かった。
カインとフェンリルの戦いは、カインが優勢だった。素早く立ち回るカインに、フェンリルがついていけていない。フェンリルの動きはどこか緩慢で、戸惑いという枷がかけられているかのようだった。
リディアーナは思い出す。――許可なく人を傷つけてはいけない。そうヴァルターに命令したことを。
まさかその命令がまだ効いているのか。だとしたらカインの方に分がある。あとは――
(――権能を使えば……)
権能を使って弱体化させれば、カインが勝つ。
リディアーナはそう思った。心からそう思ったのだが、権能である【
この期に及んでもまだヴァルターを敵だとは思うことができない。
権能が使えないのなら、やはり氷魔法しかない。
(凍らせて動きを止める)
先ほどは失敗したが、カインに気を取られているなら隙をつけるはずだ。リディアーナは氷魔法を発動しようとしたが、フェンリルの耳がリディアーナを向く。
魔法の気配を感じたのか、フェンリルの爪がリディアーナを向いた。発動を遮るために、その爪で敵を引き裂こうとする。
「ヴァルター! ――お前は、お前だけは、リディアーナを傷つけるな!」
カインの義憤が玉座の間に響き渡る。
フェンリルとリディアーナの間に割り込んだカインが、フェンリルの足払いをまともに受けて吹き飛んだ。
その身体は壁の穴の方に滑っていく。このままでは外に落ちる――リディアーナは考えるよりも先に日傘から手を放し、カインに手を伸ばした。腕を強く握りしめるが、勢いは強く、共に穴が開いた場所まで滑っていく。
(あ――)
このままでは落ちる。リディアーナは何とかカインの身体を横へ押し、壁に引っかかるように動かした。
リディアーナが踏んだのは、穴と床の境だった。その部分が崩れ、がくりと身体が傾ぐ。カインを巻き込まないように慌てて手を放す。
そして――落ちる。
一度外に出た身体は、勢いのままに下へ落ちていく。
風がリディアーナの身体を包み込み、空の抱擁を受ける。落下。
この高さから地上まで落ちれば、苦しむことなく死ねるだろう。
そのときリディアーナの頭によぎったのは、ヴァルターのことだった。自分が死ねばあのフェンリルはこれからどうなるのか――……
思考が実を結ぶ前に、不意に落下が止まる。弾力ある肉の感触がしたかと思うと、リディアーナは黒い飛竜の背にいた。カインが連れてきた飛竜の上に。
「あ……ありがとう、リューグ。あなた、とても勇敢なのね」
飛竜の名を呼んで礼を言う。なんて勇敢で利口な子なのだろうかと。
「……リューグ! そのまま辺境まで飛べ――!」
上方――城の中からカインの声が響いてくる。
リディアーナは飛竜の首の鱗に触れる。
「リューグお願い。私をあの場所に戻して」
主の命令に反する願い。飛竜の戸惑いが伝わってくる。
「私は逃げるわけにはいかないの。あなたのご主人様も助けるわ」
決意し、顔を上げる。
(私は死ねない。このまま死ぬわけにはいかない)
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