第35話 ヴァルター
飛竜に運ばれ、空から玉座の間に降り立つ。
ひどい有様だった。壁や床の腐肉に埋もれた国王に貴族たち。倒れたミルルリカとカイン。
そして、苦しみうずくまるフェンリル。その姿はまるで嘆き悲しんでいるようだった。怯え震えているようだった。
【
リディアーナの権能が発動し、花びらが舞う。魔を弱らせる黄金の花が。
リディアーナはまだヴァルターを敵だとは思えない。
敵だと判断したもの――それはヴァルターの――フェンリルの中にいる《静謐の魔女》だ。
ヴァルターが吐き出していないから、まだ身体の中にいるはずだ。身の内からヴァルターを苦しませているとしたら――許せない。
花が降る。降り積もる。
フェンリルは苦しそうに四肢を折り、地に伏して低く唸っている。
「ヴァルター、あなたの名前を覚えている?」
問いかける。
「あなたは支配するもの――何ものにも支配されないように、その名前を与えたのよ?」
最初に会ったときのことを思い出す。繋がれている白銀の魔狼との出会いを。
なんて美しく、哀れな獣だと思ったことを。
「あなたと私以外のものに支配されてどうするの」
リディアーナは苦しんで動けないフェンリルの元へ歩いていく。そしてその左手から伸びている炎の鎖の先にある、輪を拾った。《静謐の魔女》が指を通していた輪を。
小さな輪だ。指輪ほどのサイズしかない。
そして、さすが《炎の魔女》の鎖――魂まで灼けるほどに熱い。
リディアーナはそれを、左手の薬指に通した。
熱が、身体を駆け抜ける。一瞬で燃え尽きそうだったが、生きていた。
「ふふ、ヴァルター……これで、私が死ぬときはあなたが死ぬとき。あなたが死ぬときは、私が死ぬときね」
リディアーナはヴァルターに枷をつけた。《静謐の魔女》がやったのと同じように、命という名の鎖で互いを繋げた。
片方が死ねば、もう片方も死ぬ。
決して置いていくことはないように。
「私たちは一生を共にするの。もうあなたを置いてはいかないわ。――さあヴァルター、私に永遠を誓いなさい」
フェンリルが咆哮を上げ、リディアーナに向かって大きく口を開く。
この口が閉ざされたとき、きっとリディアーナは死に、そしてヴァルターも死ぬだろう。
――それでいい。
(それでいいわ。ヴァルター)
ずっと死ぬのが怖かった。
だがいまは死が怖くない。不思議と穏やかな気持ちだった。ひとりで死なずに済むからか。置いていかずに済むからか。
リディアーナだけが死ねば、ヴァルターはまたその魂を探して悠久の時を彷徨い続けるのだろう。そんなことはさせたくない。時の果てで再会するたびに命を奪い合うような関係にはなりたくない。
――フェンリル。王を喰い殺す獣。
その予言はいまこそ果たされるのかもしれない。
だが――
いつまで待っても、その牙がリディアーナの皮膚を裂くことはなかった。
「ヴァルター……?」
顔を上げる。フェンリルの顔は、牙は、口は、すぐそこにある。
あとほんの少しで大きな口はリディアーナを咥え、噛み砕くことができる。
だがフェンリルはそうせず、苦しそうに身体を震わせていた。本能のままに殺そうとする身体を、心が必死に抑えつけているように見えた。心と身体がバラバラで、いまにも引き裂かれそうに見えた。
フェンリルが、血を吐く。
大量の赤黒い血の塊が床を濡らす。
そしてリディアーナは見た。血だまりの中で蠢いている何かの塊を。それは虫のようにうねうねと動き、宿主を探しているようだった。
――それは髪の毛だった。
(《静謐の魔女》……)
不意に理解できた。《静謐の魔女》――その本体は髪の毛に似たもので、これがヴァルターの中で暴れまわって彼を苦しめていたのだと。
「………」
口を開かず、無言で氷魔法を発動させ、《静謐の魔女》を凍らせる。永遠に解けない氷で。
降り続くリディアーナの権能――弱体化の花びらと共に。
(さようなら。永遠に)
――氷で封じ、黄金の花びらと混ぜ、砕く。
その瞬間、城を覆っていた腐肉が死んだ。一切の動きを止めて、とろとろと溶けていく。
(ああ……本当に死んだのね)
死んでしまえばあまりにも呆気ない最期だった。
「……ヴァルター、よく頑張ったわね」
浅く呼吸を繰り返すフェンリルを撫でる。白銀の毛並みを。
そのとき、フェンリルが大きく動きリディアーナに圧し掛かる。
「あ――……」
リディアーナの身体に触れたのは、鋭い牙ではなく、しなやかな両腕だった。
人の姿となったヴァルターが、二本の腕でリディアーナを抱きしめていた。
強く縋りつくように。だがその力は弱々しく。その身体は重かった。
「ヴァルター……」
リディアーナはヴァルターの身体を両手で抱きしめ、背中を撫でる。
「リディ……」
呼ぶ声は儚い。
リディアーナは背中を撫でていた手で、今度は頭を撫でた。髪の感触が心地よかった。
少しだけ身体を離し、顔を見つめる。その青い瞳を。
「おかえりなさい、ヴァルター」
◆ ◆ ◆
炎の鎖が消える。まるで役目を果たしたかのように。
だが指輪は消えず、リディアーナの薬指に残っていた。反対側の指輪は、ヴァルターの左手の薬指にはまっていた。
同じ赤色の指輪が。
そして感じる。鎖は消えたが、命の炎はまだ共にある状態だと。
(……まあ、いいか)
片方が死ねばもう片方も死ぬ。お互いを置いていくことはない。そう思うととても安心できた。
リディアーナは玉座の間を確認する。あれだけの騒ぎがあったが、国王や貴族は腐肉に埋もれたまま死んではいなかった。
「ん……」
気を失っていたミルルリカが目を覚まし、リディアーナとヴァルターの姿を見てほっとしたように笑った。
「さっすがマスター」
「すまなかった」
ヴァルターの謝罪にミルルリカは目を見開く。
「えっ、あんたも謝れるんじゃん!」
驚きつつも嬉しそうにヴァルターの顔をじろじろと見る。
「どう? あたしがいてよかったでしょ?」
「そうだな」
「もっと素直に言えばいいのにー」
にこにこ上機嫌に笑いながらヴァルターの周りをくるくる回る。
「呑気だな、お前らは」
目を覚ましたカインの呆れ声が響く。
「カイン様もありがとうございます。おかげで助かりました」
「……お前らが無事ならいいんだ。爺様に殺されずに済む」
「ルギウス様はカイン様の無事を一番喜ばれますよ」
「どうだかな。ま、バルトロイの名を汚してなきゃいいだろ」
額の髪を払いながら、ヴァルターを見る。
「お前も汚すなよ」
「……ああ」
「それから、リディアーナを傷つけるなよ」
「……ああ」
そのやり取りをリディアーナは感動しながら聞いていた。ヴァルターが人間と会話している。うわべだけの、手本をなぞるような会話ではなく、言葉を交わし合っている。情緒が成長している。
だが会話はそれで終わり、ヴァルターはすたすたと玉座の間の隅に歩いていく。そして、床に落ちていた日傘を拾った。リディアーナの日傘を。両手でそれを大切そうに持つと、リディアーナの前に戻ってきて跪く。
「――リディ。あなたがこの地を支配すれば、この不快極まりないものも消えるはずです」
それは、王都の王城をリディアーナの支配下に置くということになる。
(とんでもないことね)
思いながらも、リディアーナは日傘を受け取る。城に囚われている人々の一刻も早い救出のためにも。
玉座のある場所に行き、日傘の先で城の中心を突いた。
「地精霊たちよ、聞きなさい。この地を、リディアーナ・フォーデルハイド・バルトロイが支配する!」
宣言と共に、黄金の花びらが降る。
大地との契約が成され、《静謐の魔女》の契約が上書きされる。魔王城は消え、腐肉は消え、元のデュンケ城が戻ってくる。魔界化は解除され、いままで通りの――王都の姿が戻ってくる。
そして同時に王都の城はリディアーナの土地となる。大いなる、荘厳なるデュンケ城。
玉座の間の崩れた壁から、太陽の光が差し込んでくる。いつの間にか夜が明けていたらしい。そこから見えた朝の空は、きらきらと金色に輝いていて、黒い飛竜が飛んでいた。
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