第32話 玉座の間
腐肉に覆われた城の中を、更に奥に進んでいく。リディアーナが通る場所を腐肉は避けていくので、前進に障害はなかった。城の構造もよく知っている。足取りに迷いはない。
そしてリディアーナは舞踏会の会場だった広間に辿り着いた。
シャンデリアは城が魔界化する前と変わらず煌びやかに広間を照らしている。
「セレスティア……セレスティア……許してくれ……」
聞き覚えのある声が、懺悔するかのように許しを請い続けていた。
「王太子殿下……」
肉の壁に埋もれているアレン王太子に気づいて声をかけると、アレン王太子は短く息を呑んでリディアーナを見上げた。太陽のようだった雰囲気はいまは陰っていたが、目の輝きを見るに、まだ正気があるようだった。
「……リディアーナ! ああ、リディアーナ! 助けてくれ…!」
「そうはおっしゃられましても……」
助けを求められてリディアーナは困ってしまった。
ここでアレン王太子だけ助けたところで事態は何も好転しない。剣の心得はあるようだが魔族相手に戦えるかとなると、おそらく無理だろう。
「申し訳ありませんが、もうしばらくここでお待ちください」
「待ってくれリディアーナ! 僕と代わってくれ!」
前に進もうとするリディアーナを引き留める声に、眉根を寄せる。
「代わる……?」
振り返ると、アレン王太子は力強く頷く。
「君が代わってくれたら、ここから出られると、セレスティアが言ったんだ」
「…………」
王太子と聖女の約束が本当かどうかはわからないが、それに応じる必要性は微塵も感じられない。事態が悪化するだけだ。
(そもそも聖女様は亡くなっているし……)
その約束もアレン王太子が見た都合のいい夢か、魔族の言葉としか思えない。
「申し訳ありません」
早々に去ろうとするリディアーナの手を、アレン王太子がつかむ。
「リディアーナ、怒っているのか……? でも、君が、君が悪いんだ……あんなことがあったくらいで、人形みたいになってしまって……」
――あんなこと。
リディアーナの母親レティシアが、魔物に襲われて死んだ事件。リディアーナにとっては悲しく、人格まで変わってしまった事件だったが、アレン王太子にとってはそれくらいの認識だったらしい。
「ずっと、責められているみたいで、息が詰まった……だから……セレスティアのことだって別に好きじゃなかった……」
「…………」
リディアーナは何も言えなかった。呆れ果てて。
呪われた人形が王太子妃にふさわしくないのは当然だ。だからといって結婚したばかりの相手を好きではなかったという神経が信じられない。政略結婚とは言えど。
「――うん。だから、戻そう。いまの君なら僕の妻にふさわしい」
「まあ、王太子殿下」
なんて節操がないのだろう。
「だからリディアーナ、僕の代わりに――」
腕をつかむ手を、リディアーナは叩き払った。
「大丈夫です、王太子殿下」
呆然としているアレン王太子に笑いかける。
「きっと大丈夫ですから、しばらくそのままでお待ちください」
「リディアーナ……!」
リディアーナは広間を出る。もう振り返らない。
「いいの? マスター」
ミルルリカが影の中から心配そうに聞いてくる。
「大丈夫よきっと。放っておいてもすぐには死なないわ」
魔界の冷気で凍え死ぬまでは。本当に《静謐の魔女》がいるとしても、わざわざ殺したりはしないだろう。
「私に対する人質にならなくなるもの。彼女は昔から慎重派でね。自分の手札はなかなか捨てないの」
リディアーナの目的は城の玉座の間だった。
ここは魔王城。王は玉座の間にいるものだ。リディアーナの目当ての相手もそこにいるはずだ。
魔王城の呼ばれ方にふさわしい禍々しい通路を抜けて、玉座の間の前にまでくる。扉は開いていた。
外からでも、玉座の間の肉壁や床に取り込まれている王や重鎮たちの姿が見えた。結婚式の舞踏会の夜も、ここで何やら話し合いがあったようだ。
最奥の玉座の下には、腐肉に取り込まれていない人影があった。青い燐光を放つ鎖に繋がれ、ぴくりとも動かず横たわる人影が。
「ヴァルター……!」
遠くからでも彼を間違えることはない。死んでいるかのようなヴァルターに、走り寄りたいのをぐっと堪え、玉座に我が物顔で座っている影を見る。白いドレスを着た、乳白色の髪の少女を。
「やっと戻ってきたのね、《氷の魔女》」
――聖女セレスティア。その死体は、たおやかに微笑む。左手の薬指から延びる赤い鎖は、ヴァルターと繋がっているようだった。
二本の鎖に繋がれているヴァルターを見ながら、ゆっくりと玉座の間の中に入る。
入り口と玉座を繋ぐ赤い絨毯の上だけは、腐肉もなくきれいだった。
「本当におかしな女。どうして泣いて逃げなかったのかしら」
「……あなたが私を招いたんでしょう?」
「あら。もしかして、やっとすべてを思い出した?」
「《静謐の魔女》……」
名前を呼ぶと《静謐の魔女》は花が咲くように笑った。
「うふふ。やっぱり思い出していたのね。でも遅いわよ、《氷の魔女》――やっぱりお前は、とっても冷たいわ。わたくしはよく覚えているのに。お前を殺した感触も、高揚も」
嬉しそうに犯行を自白する。やはり《氷の魔女》を殺したのは《静謐の魔女》らしい。リディアーナにとっては、いまとなってはどうでもいいことだったが。
しかし《氷の魔女》の殺害後、《静謐の魔女》たちはヴァルターに殺されたはずだが――……
「お互いに、記憶封印の魔法はまったく効いていないみたいね」
「当たり前じゃない。わたくしは死んではいないのだから。肉体の生も死も、わたくしには関係ない。ずっと、たゆたって存在してきたのだもの。肉体はただの器よ。これもね」
セレスティアの死体の胸を押さえながら、《静謐の魔女》は優雅に微笑む。ヴァルターが仕損じたわけではないようだ。《静謐の魔女》の性質が異常すぎる。
「ふふ、驚いて声も出ない?」
「……聖女に生まれ変わったわけじゃないと知って、少し安心しただけよ」
もしそうだったならさすがに神の正気を疑う。
「人間なんて下等な生命体に生まれるわけがないじゃない。これもただの器。死体にして人形にしていただけよ。ふふ、忘れたの? わたくしは誇り高き《死体遣い》の一族よ?」
自尊心に溢れている。
「それにこの聖女。聖女といってもろくなモノではなかったわよ? お前の父親を脅して、お前を辺境に捨てようとしたのはこの聖女よ?」
「唆したのは《静謐の魔女》でしょうに」
「神の声と勘違いして魔族であるわたくしの声に耳を傾ける時点で、聖女失格よねぇ」
聖女の資質になど興味はない。
だが自分が聖女だと思い込まされたセレスティアには同情を覚えた。神を装う声が聞こえたとき、セレスティアはそれこそ幸福の絶頂だっただろう。
教会から聖女に認定され、王太子と婚約して、そして幸福の絶頂で《静謐の魔女》に殺されて、いまは死体を弄ばれている。
「あなたらしいやり方だわ。アンデッドドラゴンにアンデッドビーストもあなたが作って私にけしかけてきたんでしょう? 神の信者を使ったのも」
「ええ、もちろんわたくしよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
驚いたように目を丸くして、おかしそうに笑う。
「もちろん、お前を苦しめたかったからよ」
愛嬌のある無邪気な笑顔で。
「他の人は死に顔の方が好きだけれど、お前だけは生きて苦しむ姿を見る方が楽しいの」
「あなたの趣味はどうでもいい。でも、その趣味のせいで足元をすくわれることになるかもね」
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