第2話 元魔王と元従魔
――思い出した。
リディアーナは思い出した。自分の前世を。《氷の魔女》――それが魔族だったときの自分の名だということを、思い出してしまった。
(――何があっても来世では恨みっこなしと、仲間でかけあった記憶封印の魔法が!)
儚く砕けてしまった。
(思い出してしまったものは仕方がない!)
そしていまはゆっくり考えている暇はない。
前世の記憶とリディアーナとしての記憶が混ざり、混乱しているが、いまするべきことはひとつだ。この場を何とか乗り切ること。
リディアーナは腹を据えて、足元で頭を垂れて傅く男を見下ろした。
――魔獣フェンリル。かつての従魔だった存在を。
いまリディアーナの頭の中に蘇ってきている前世の記憶は、目の前のフェンリルのものが大半だ。名はヴァルター。《氷の魔女》が付けた名前。
(私の従魔……)
リディアーナの感情の大半を占めたのは、憐れみだった。
(あれから、どれぐらいの時間が経ったの……? 私が死んでから、ずっと私を探していたの? ……主が死んだのだから、自由になればよかったのに)
それでもフェンリルは――ヴァルターは、かつての主を忘れずに探し続けていたようだ。人間に生まれ変わったかつての主を。
ならばその忠義に応えなければならない。
「ヴァルター。これよりは私の影にて私に従い、私を守りなさい」
「はい、我が君。あなたのためなら百万の兵を切り裂き、神をも飲み込みましょう」
ヴァルターは傅いたまま、紫の瞳を無邪気に輝かせてリディアーナを見上げる。人化が少し解けているのか、狼の耳と尻尾が飛び出している。耳はまっすぐにリディアーナを向いてその言葉を一言も漏らさぬようにしている。誇らしげな顔で。
(この従魔……前から思っていたけれど、絶対に私より強い)
魔王だったときよりも。
――《氷の魔女》は、およそ魔王にふさわしい器ではなかった。それでも魔王になったのは、協定があったからだ。三人の魔女――《氷の魔女》《炎の魔女》《静謐の魔女》の協定が。
三人の魔女で当時の魔王を倒し、魔王の座を三人で交代しながら回していた。魔女たちは三人でようやくひとりの魔王だった。
リディアーナはふらふらと馬車のある場所に戻り、扉部分の足踏み台に座る。日傘を差したまま。
ヴァルターはその場から動かない。傅いたままだ。
「私が死んだ後どうしていたの」
「はい。まずは玉座の間にいた《炎の魔女》と《静謐の魔女》を殺しました」
あっさりと、悪びれず。
(殺したのっ?)
リディアーナは前世の自分が死んだときの記憶は曖昧だ。ヴァルターの言葉を聞く限りは、二人に殺された可能性が高い。理由に心当たりはないが、魔族とはシンプルなものだ。消そうと思ったら消す。それだけだ。
「……ならあなたがいまの魔王なのね」
氷の魔女が死んだあとで二人の魔女をヴァルターが殺したのなら、ヴァルターが次の魔王だ。
魔王の継承もシンプルだ。魔王自身が認めたものにその座を譲れば、そのものが魔王に。もしくは魔王を倒したものが次の魔王になる。血統も身分も関係ない。
「いえ。王の証は破壊しましたので、いまは王は不在です」
魔王の資格を手にしていた男はこともなげに言う。
リディアーナは平静を保ちつつもいまにも倒れそうだった。座っていなければ、確実に倒れていた。
(玉座破壊……秩序破壊……そして崩壊へ……)
魔族を統べる王の座。
魔王によって守られていた魔族の秩序。三人の魔女が目指した安定と安寧は、すべてこのフェンリルに破壊された。
リディアーナはくらくらしながらも、苦笑した。
(さすが破壊者として投獄されていた魔狼フェンリル……破壊こそが本能なのね)
氷の魔女がフェンリルに会いに行ったとき、フェンリルは地下の牢獄で鎖に繋がれ拘束されていた。
フェンリルは誕生以前から、王を喰い殺し、すべてを破壊する獣と予言されていた。そして誕生と同時に、その力を恐れた当時の魔王に封印された。そして拘束されながらも、近づいた魔族を何人も喰い殺したという。
三人の魔女で魔王を倒したあと、氷の魔女は興味本位でフェンリルに会いに行き、その拘束を解いた。
そして彼にヴァルターと名付けた。
すべてを破壊するとされていたフェンリルは一度も反抗することなく、氷の魔女の従魔となった。
「……どうして魔王にならなかったの」
「俺はあなたの従魔です」
ヴァルターは誇らしげに、そして嬉しそうに言う。立派な尻尾が横に大きく振れていた。
(この従魔……忠誠心が重すぎる)
魔狼の特性なのか。本人の性格なのか。
「我が君は、再び玉座をお望みですか」
「いいえ。魔王はもういいわ」
はいと言ったらすぐにでも魔王の座を用意してきそうだ。
無秩序の魔族を統治するなんて想像するだけで恐ろしい。しかもいまは人間の身体。寿命も魔力も衰えている。
「とりあえず、休むわ。人間は疲れやすいの」
いろいろなことがありすぎた。身体もだが、特に頭が痛い。
ヴァルターに背を向けて、馬車の扉を開く。中に入る前に、傅いたままのヴァルターを見下ろす。
「ヴァルター。私の許可なく人間を傷つけてはだめよ」
「承知しました、我が君」
「他の人間の前でフェンリルの姿になることも禁じるわ」
「承知しました、我が君」
返事がいい。不満など微塵も抱いていない。リディアーナの言葉をそのまま受け取り、そのまま己の鎖とする。
「それから、いまの私はリディアーナ。リディアーナ・フォーデルハイドよ。私のことはリディと呼びなさい。我が君なんて大仰な呼び方、他の人に聞かれたら何事かと思われるわ」
「リ、リディ……承知、しました……」
困っているヴァルターを微笑ましく思いながら、リディアーナは日傘をたたんでひとりで馬車の中に入った。
扉を閉めると、肩と足から力が抜けて座席に座り込む。
(これからどうしよう……)
このまま辺境に向かうことも、王都に戻るのも憚られる。どちらも望まれてはいないだろう。特に父親からは二度と顔を見せるなと言われている。
どこにも行けない。食べ物もない。着替えもない。不安しかない。これからどうやって生きていけばいいのか――……
こんな不安を吐き出そうものなら、ヴァルターに失望されて殺されるかもしれない。やはり脆弱な肉体には脆弱な精神が宿るのだと滅茶苦茶なことを言って。
(ヴァルターなら、する)
横たわり、クッションに身体を預け、日傘を抱きしめて目を閉じる。ざらりとした布の感触が頬に、日傘の骨の感触が手に当たる。
(お母様……)
滲んだ涙には気づかないようにして、リディアーナは目を閉じた。
(生き延びてみせる……絶対に生き延びてみせる……そのためなら……なんだって利用してみせる)
そうして夜は更けていく。
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