第29話 聖女セレスティアとの対面


 王城広間の舞踏会。

 久しぶりに見たきらびやかな世界は、夜と暗闇に慣れたリディアーナには眩しすぎた。輝くシャンデリアも、女性たちのドレスや宝石も、そして何より貴族たちの自信と笑顔が。


(眩しい……)


 悪目立ちしないように胸を張り、表情を引き締める。ここは戦場だ。森の小動物のように怯えていてはいけない。自然に壁の花になるように、壁際に行く。


(それにしても、視線を感じるわ……)


 リディアーナもヴァルターも、会場で浮いた格好はしていないはずだ。

 こっそり入場したから名前も呼ばれていないので、リディアーナだとは気づかれていないはずだ。そもそも長年表に出てなかったのだから、リディアーナの顔を知る貴族はほとんどいないはずである。


 そしてリディアーナは気づいた。視線がどこに注がれているのかに。


(……ヴァルター!)


 なんてことだろう。完全に誤算だった。ヴァルターは本物の貴族の中に――本物の貴公子たちの中にいても、一際輝いていた。

 まず顔がいい。体型がいい。そしてどこか憂いを帯びていて、神秘的で超然としていて、近寄りがたさがある。

 あれはどこの家の誰なのかと、遠巻きにされながら噂されているのを感じる。


 挨拶だけならともかく、詳しく質問をされるのは困る。

 どうしたものかと考えていると、人だかりが割れた。


「リディアーナ?」


 現れたのは舞踏会の主役であり、王太子でありリディアーナの従兄妹――光り輝く金髪と青い目を持つ、アレン・ウィスタリウスだった。


「お久しぶりです、王太子殿下」

「ああ、よかった。やっぱりリディアーナだ」


 人の好さそうな緊張感のない笑い方は、昔と変わらない。

 そしてリディアーナはまた確信する。

 ――彼でもない、と。


 リディアーナを殺そうとしたのは彼ではない。


 そもそも、リディアーナを抹殺したい理由がない。リディアーナが婚約解消を拒んだならともかく、あっさりと了承して辺境に嫁いだリディアーナを消す意味がない。


 あるとしたらルギウス・バルトロイ辺境伯にリディアーナを守れなかった罪を着せることくらいだが、王家と辺境伯家の仲は険悪ではない。

 王家の血を引くリディアーナを嫁がせていることからも、重要視しているのは明らかだ。


 アレン王太子は微笑む。


「感情を見せなかった君が……随分と表情豊かになったな」

「そうでしょうか?」

「ああ」


 嬉しそうに言う。毒気が抜かれるような朗らかな笑みで。


「ありがとうございます」

「久しぶりに踊らないかい」


 何を言い出すのだろう、この王太子は。

 婚約破棄した相手と、結婚式の舞踏会で踊ろうとするなんて。


「申し訳ありません。セレスティア様を差し置いて、殿下とダンスをするわけにはまいりません」

「寂しいことを言わないでくれ。私たちは従兄妹じゃないか」

「従兄妹だからこそ、けじめはしっかりつけておくべきです。でないと、セレスティア様に申し訳ありません。それに、私の婚約者にも」


 ヴァルターを見上げる。


「私が変わったのだとしたら、彼のおかげです」


 リディアーナはヴァルターの腕に指を絡ませて、微笑んだ。

 実際、あの夜ヴァルターに殺されてかけていなかったら、リディアーナもここまで変わっていない。前世の記憶を取り戻すこともなく、魔物に殺されていたかもしれない。


「リディアーナ様……?」


 鈴の音のような美しい声に呼ばれて、リディアーナは顔を上げた。

 そこにいたのは乳白色の髪に、透き通るような白い肌の令嬢だった。白いドレスを着たその姿は、月の女神のようだった。


 セレスティア・エシュトー侯爵令嬢――いまはもう王太子妃。この場所で最も幸せな花嫁は、琥珀のような、満月のような、美しい瞳でリディアーナを見つめていた。


「セレスティア様、この度はお祝い申し上げます」


 頭を下げながら思う。


(セレスティア様は……こんなお顔だったかしら……?)


 ――と。


 これまで顔を合わせたことは何度もある。同年代で同じ高位貴族。リディアーナは五年前から社交界に顔を出してはいなかったが、セレスティアのことはよく覚えていた。

 彼女は光り輝くような女性だった。


 聖女に認定されたと聞いたときも納得するばかりだった。リディアーナの代わりに王太子の婚約者となったと聞いたときも。


 それなのに――いまは違和感があった。

 セレスティアはこんな顔だっただろうか。あの輝かんばかりの美しさには陰が差していて、まるで作り物のようだった。――そう、人形のようだ。結婚式の最中だというのに。

 最も幸福でいるべき聖女は、悲しそうな表情でリディアーナを見つめていた。


「リディアーナ様……わたくしずっとリディアーナ様に謝りたくて……」

「セレスティア様に謝っていただくことなど何もございません」

「ですが、わたくしがアレン様をリディアーナ様から……」


 リディアーナは内心脱力した。婚約が解消になったことは、心底どうでもよかった。


「本当にお気になさらず。私はバルトロイ家に嫁ぎ、いまとても幸せですから」


 リディアーナはヴァルターの腕に手を絡ませ、顔を見上げて微笑む。ぎこちない笑顔になっていないかという心配は、返されたヴァルターの微笑みを見て霧散した。

 一瞬、状況も忘れて微笑み返す。


「……リディアーナ様。そちらの方は……?」

「はい、ヴァルター・バルトロイ様。ルギウス・バルトロイ辺境伯の養子となられた方です。彼が次の辺境伯です」


 辺境には独立国並みの裁量が王家から与えられている。

 養子を取ることも、家督を継がせることにも王家の許可は必要ない。

 王都からは距離あることと状況が常に切迫していることもあり、何かあるたびに許可を取っていては最前線を守れないからだ。


「どういうことなのかしら……?」


 感情を抑えきれていない上ずった声で、震える唇で、問いかけられる。

 セレスティアの動揺に、怒りに、リディアーナはそのときようやく気づいた。


「わたくしが先に好きだったのに……!」

「え?」


 顔を真っ赤にし、目を吊り上げながら叫ぶ。

 その怒声は広間中に響き渡り、音楽さえ一瞬かき消した。


「あ、あの――」

「ずっとずっと、昔から、愛していたのに! また、こんな――」


 荒ぶる感情のままに叫び続ける。


「セレスティア様……どなたかとお間違えでは……」

「わたくしが間違えるわけがない!」


 セレスティアはもはや狂乱状態だった。


「貴様、セレスティアのなんなのだ!」


 アレン王太子の激怒が響く。婚約者であるセレスティアがいきなり、見ず知らずの男に愛していたと叫んだのだ。平静でいられるはずがない。

 だがヴァルターの表情は冷静そのものだ。


「彼女のことは存じ上げません」


 その冷たさが怒りの炎に油を注ぐ。


「貴様――!!」

「王太子殿下! ヴァルター様は、ずっと辺境で暮らしてきた御方です。セレスティア様とお会いする機会はないはずです」


 リディアーナがヴァルターを庇うと、アレン王太子もほんの少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。


「ああ、なんて可哀想に……わたくしのことを忘れてしまうなんて。わたくしこそが、あなたの本当の番いつがいなのに……!」


 セレスティアが頭を抱えながら悲しそうに叫ぶ。


(番い――?!)


 その言い方は、人間社会ではほとんど使われない。魔族の――獣系の魔族特有の伴侶の呼び方だ。

 王太子と結婚した聖女が――侯爵家の令嬢が使うにはあまりにも不似合いな言葉だ。

 しかもそれを始めて会ったはずのヴァルターに向かって言うなんて。


「……臭い」


 緊迫した空気の中、ぽつりとヴァルターが呟く。

 その一言で空気が凍る。


「リディ、もう耐えきれません。いますぐこの場を離れましょう」

「ヴァルター、お願いだからあなたは黙っていて」


 女性たちの香水が合わないのか、魔物除けの香木でもどこかで焚いているのか、ヴァルターはあからさまに顔を顰めている。

 だがその言葉はこの場所でだけは言ってはいけないものだ。王太子に聖女、そして貴族が揃うこの場所では。


 セレスティアはまっすぐにリディアーナの前にやってくると、腕を振り上げる。

 リディアーナの頬を叩こうとした手を、ヴァルターが腕をつかんで止める。嫌悪を露わにした顔で。


「触れるな」

「ふふ……ふふふ……」


 腕をつかまれたセレスティアは、ヴァルターを見上げながら壊れたように笑う。

 そして――糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


「セレスティア!」


 すぐに助け起こそうとするアレン王太子だったが、セレスティアの様子は異常だった。ぐったりとしていて、顔色がおかしい。およそ生気というものが感じられない。


「そんな、馬鹿な……」


 アレン王太子は愕然と呟く。心ここにあらずといった表情で。


「どうして、死んでいるんだ……?」


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